2・2① お人好しは苦労する

――2007年8月――


 テツさんの作るまかないの中で、一番好きなのはからあげ丼だ。


 噛むとサクッと音が鳴る衣、隠し味の醤油とニンニクが生み出す極上の香り。毎日食べても飽きないほどの美味しさだ。


 4個目のからあげを食べていると、大学生バイトの松永さんが休憩室に入ってきた。


「松永さん、お疲れ様です」

「あ、杉山! あのさ、休憩中悪いんだけど25日って空いてる?」

「25日ですか?」

「もしよかったらさ、シフト代わってくれないか? 12時から18時まで」

「あー……いいですよ」

「マジ? ありがとう! 今度なんか奢るわ!」


 揚々と松永さんは帰っていった。大学生は色々と忙しいのだろう。


 高校生の俺は部活に入っているわけでもなく、塾に行くわけでもなく、友人と出かけるほどアウトドアな人間でもないわけで、重要な用事がない限り暇だ。


 そのせいか夏休みは普段の倍くらいシフトに入っている。その分稼げるからいいのだが、バイトだらけの自分が時々すごく寂しい人間のように感じる。


「テツさん、ごちそうさまでした。美味しかったです」


 空になった器を持って厨房に行くと、テツさんが仕込みをしているところだった。テツさんは俺に気付くと「おう」と反応した。


「皿、適当に置いとけばいいぞ」

「あ、いえ、自分で洗います」

「……真面目だなぁ」


 流しに置いてあるオレンジ色のスポンジに手を伸ばす。洗剤をかけ数回揉みこむとふわふわの泡ができた。


「そういえば松永さんとシフト代わることになりました」

「いつ?」

「25日です。12時から18時まで」

「土曜だぞ? その日、花火大会で死ぬほど忙しい日だけど大丈夫か?」

「え? 25日って花火大会なんですか?」

「そうだよ。クリスマス、年末年始、大型連休に次ぐ地獄の日。お前去年も入ってたよな? 2年連続で大丈夫か?」

「……まあ大丈夫です。空いてるんで。忙しい日こそ経験者がいたほうが何かといいと思いますし、入りますよ」

「お前ってお人好しだなあ。人助けばっかじゃなくたまには自分の好きなことしろよ」


 人助けというか、バイトくらいしかやることがないというか、お金を稼ぎたいというか。

 そもそも25日、花火大会だったのか。全然知らなかった。






 最近、24時間テレビのCMが増えてきた。


 今年のマラソンランナーは欽ちゃんらしい。高齢なのにすごすぎる。俺なんて5キロ走っただけでへとへとになるのに。24時間走るなんて芸能人は大変だ。俺には絶対無理。



 『24時間テレビまであと3日』というテロップが見えたところで、ばあちゃんが和室から出てきた。


 またじいちゃんの仏壇の前にいたようだ。ばあちゃんは仏壇の前にじっと座る習慣がある。じいちゃんのことを今でも想っているのだろう。


 純愛だなあと思うし、二人の時間を邪魔しちゃいけない気がして、和室にいるばあちゃんには絶対に話しかけられない。勇人もそれは同じで、ばあちゃんが和室に入ったらそこの空間に足を踏み入れようとはしない。暗黙の了解というやつだ。


「え、早人いたの?」


 ばあちゃんはリビングに誰もいないと思っていたのか、ソファで寝転ぶ俺に少しだけ驚いていた。


「うん。バイトは午前までだったからさ」

「またバイト? 宿題とか大丈夫なの?」

「もう終わらせてあるから」


 俺は、大丈夫。……問題は夏だ。


 夏は、新学期の前日もしくは前々日に宿題を終わらせようとする究極系のサボり魔。しかも大半を俺にやらせている。


 小学生の時からほぼ毎年夏休み最終日に夏の部屋に連行され、宿題の手伝いをほぼ監禁状態でさせられていたのだ。


 年下の宿題をすること自体は楽なのだが、わざと間違えなければならないのが難しい。何が分からなくてどんな間違いをするのかといった夏の知能レベルを把握しておかないと回答が不自然になってしまう。だから自分の宿題をするよりも何倍も疲れる。


 それを二日間くらい、ほぼ寝ずにやらされるのだ。


 少しでも逃げようとすると顔を引掻かれ、なぎ倒され、首を絞められ「見捨てるのか!」と恫喝される。


 去年はバイトを入れ、逃げられるように対策したが、バレた瞬間に襲撃された。髪をむしられ顔を噛みつかれ服を破られ腹を殴られ、散々だった。


 最終的に俺が泣きながらテツさんに「バイト休ませてください」と電話することで決着がついた。

 俺の声があまりにも震えすぎていたせいでテツさんから心配され、「大丈夫か? 警察を呼んだほうがいいのか?」と言われてしまった。


 もう二度とそんなことが起きないよう、今年は8月最後の週にバイトを入れないようにしてある。



「お兄ちゃんいる?」


 噂をすれば。


 夏がタンクトップに短パンを履いて、リビングの入り口に立っていた。そんな露出表面積が広い格好では蚊に刺され放題だろうに、よくそんな格好でいられるものだ。


「あら夏果ちゃん。いらっしゃい」

「あ! おばあちゃん! おじゃまします!」


 夏はそのまま、迷いなくソファで寝ている俺にダイブしてきた。


 腹に衝撃が走り、「オホッ」と変な声が出てしまった。腹パンされた時くらいの威力はある。嘔吐の一歩手前。


「お、お前さ、加減って知らないの?」

「どういうこと?」

「……もういい、なんでもない」


 すると夏は体を捩り、尻で俺を押しやってきた。一人分くらいの幅しかないのに、強引に俺の横で寝ようとしている。


「もっと詰めてよ。早く」

「な、なんでわざわざソファに来るんだよ。狭いよ」

「お兄ちゃんが横向きになればいいでしょ」


 これ以上反論すると本当に嘔吐することになるかもしれない。


 仕方なく、横向きになって無理やりスペースを作った。夏はそのまま俺と同じように横向きに寝て、テレビを見始めた。


 俺の顔に夏の髪がかかり、シャンプーの匂いが香る。


「夏、シャンプー変えた?」

「いつの話? とっくの昔に変えたよ」

「そうだっけ?」

「うん。前はティセラだったけど、もう売ってないんだもん。今はツバキだよ」

「ティセラ? それって、あややの?」

「そうそう。『セクシーなの? キュートなの?』ってやつ」

「あー懐かしー」


 首を動かしたり、腰を動かしたりしたが、夏の頭でテレビが全く見えない。音だけで楽しむしかない。


「あんたたち仲いいねえ。夏果ちゃんは将来早人のお嫁さんになるのかな?」


 ばあちゃんが嬉しそうに笑った。


「やめてよお。私は香取くんと結婚するの」

「そうなの? いいねえ。そうなるといいねえ」

「優しい! バカにしないのおばあちゃんだけだよ! おばあちゃん大好き!」


 俺の存在を忘れたかのように、二人仲良く話している。


 勇人も夏も、人との境界線がない

 夏はばあちゃんにも母さんにも、自分の親と話すような距離感で会話する。勇人もおじさんやおばさんに、友だちとほぼ同じテンションで話している。


 俺はそれがどうも苦手で、ついついおじさんたちに敬語で話してしまう。無邪気な会話ができる二人がすごいと思う反面、どうして自分だけかしこまってしまうのか疑問に思う。


 もしくは、二人が礼儀知らずなだけなのか。


「ねえお兄ちゃん」

「なに?」


 夏がこっちを向こうとしたが、俺の顔に夏の髪が思いきり被り、視界が真っ暗になった。夏は振り向こうとしても狭すぎてうまくいかないようで、体をもじもじさせている。その動きで夏の髪が俺の顔の上で揺れ、痒くて我慢ならなかった。


「夏! 髪! 痒い! もうそのままで話せ! こっち向くな!」


 顔を激しく揺らして暴れる俺に夏は引いていたが、そのままもとの体勢に戻ってくれた。夏がこれ以上動かないよう、俺はその腰に左腕を回した。自然と手が重なった。


「お、お兄ちゃんさ、今年の花火大会ってどうするの?」


 夏が、腰に回していた俺の手をきゅっと握ってきた。


「花火大会? あー夏は去年友達と行ってたよな?」

「そうなんだけど……お兄ちゃんは? 今年も行かないの?」

「うん。バイト入れちゃった」

「はあ? 今年も? 花火大会行く気ゼロなわけね」

「えー夏は? 夏が友達と行くならバイト行くし、夏が友達と行かないならバイト休むよ」

「なにそれ。私が基準なの?」

「夏が一緒に行く人がいないなら付き合うよってことだよ。もしくは勇人と3人でなら行ってもいいけど、そうじゃないならバイトしてたほうがマシ」

「バイトばっかりしてつまんなくない?」

「だってあの人口密度やばすぎだろ! 花火見るのにみんな命かけすぎ。よっぽどのことが無い限り行きたくないね。花火なんて見なくても困らないし」

「じゃあ私はよっぽどなわけね?」


 なんか余計なことを言ったら面倒なことになりそうで特に何も言わなかったが、俺が否定しなかったことが嬉しかったようで、夏は「ふーん」と笑った。


「で、夏は? 舞ちゃんだっけ? その子と今年も行くの?」

「その予定」

「勇人は?」

「なんかあいつは同級生と行くみたい」

「あっそう」

「じゃあ……お兄ちゃん今年もバイト? 花火大会行かないの?」

「そうだね」


 あくびをしていると、夏が突然ガバっと起き上がってこちらを向いた。


「じゃあさ、今年もバイト帰りにバス停まで迎えに来てよ」

「え」


 そうだ。


 花火大会が終わるような時間には、家から一番近いバス停までバスが来てくれない。いつも降りるバス停の二つ前までしか夜は停まらないのだ。


 だから夜遅くにバスに乗ると、家から歩いて20分ほどかかる、街頭も少ない林に囲まれた暗い道を歩くことになる。そんな道を夏一人で歩かせるのは絶対にダメだ。

 去年は俺がバイト帰りにそのままバス停で待っていて、降りてきた夏を家まで送った。


「私、当日浴衣だからよろしく」


 この「よろしく」は、「下駄で足が痛くなってるから帰りは絆創膏とかスニーカーとか用意しておけよ、絶対手ぶらでは来るなよ」という暗黙の命令だ。

 これを間違えたら地獄を見る。何も用意せず身一つで迎えに行ったらすぐに下駄で頭をかち割られる。


 去年手ぶらで夏を迎えに行ったら実際に下駄で頭を殴られ、ちょっとだけ流血する事件が起きた。なのに夏は一切怯むことなく「靴持って来るくらいしなさいよ! 気が利かないな!」と怒鳴ってきた。


 夏は下駄で歩きたくないと散々ごねて、結果、本当はしたくなかった自転車の二人乗りをして帰ることになったのだ。


「多分9時過ぎには駅出るから。連絡するからケータイちゃんと見ててよ」

「分かった」

「迎え忘れたらぶっ殺すからな」

「あ、はい。承知いたしました」


 そんな話をしていると、勇人が帰ってきた。


「お帰り」


 俺が話しかけると、勇人は怪訝な顔になった。異様な光景を見てしまった、みたいな顔だ。


「お、お前ら暑くないの? なんでわざわざそんな狭いスペースにいるんだよ」


 正論だ。


「夏が勝手に入ってきたんだよ」

「は? 嫌ならお兄ちゃんがどけばいいでしょ」

「先に寝てたのは俺だけど?」

「レディーファーストでしょ?」


 すると勇人は鼻で笑い、「どこがレディーなんだよ」と小声で呟いた。


 バカだ。黙っていればいいものを声に出して言うなんて。わざわざ自分から猛獣の巣に飛び込んで「襲ってください」と煽っているようなもんだ。


「はあ?」


 案の定逆鱗に触れたようで、夏はすぐに立ち上がり勇人に飛びかかっていった。


「うわあああ!」


 勇人の悲鳴と同時に二人はその場に倒れた。夏は勇人の肩に噛みつきながらその髪を引っ張っている。


「痛い痛い痛い! 夏! やめろよ!」


 ばあちゃんは孫が襲われているのに、全く気にせずにテレビを見ている。慣れというものは恐ろしい。


「もう一回言ってみな! 誰がなんだって!?」

「ごめん夏! 悪かったからもうやめてくれ! 早人! 助けろよ!」

「無理。俺は腹が痛くて動けない」

「見捨てんなよお!」


 目を閉じ、仰向きになる。


 それでもしばらく二人の乱闘は続いていて、勇人の悲鳴がひっきりなしに聞こえてきた。

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