1・5② 1位と2位の違い
自動ドアが開いた瞬間、エアコンの涼しい冷気が歓迎してくれた。文明に感謝しなくては。エアコンのある時代に生まれて、本当に良かった。
「あーめっちゃ涼しい……もう外に出たくない……」
夏が幸せそうに呟く。
アイスコーナーに行くと、季節的な面もあるのかいつもより多くのアイスが陳列されていた。
夏は迷いなくスイカバーに手を伸ばし、「夏のアイスといえばこれだよねえ」と笑った。
「じゃあ俺もそれにするよ」
「ダメ」
「え?」
「お兄ちゃんは違うアイスにして。他の味も楽しみたいから」
忘れていた。夏はこういう子だった。俺には選択権はないんだった。
「……じゃあ夏が選んで」
「いいの? やった」
どうせ夏好みのアイスを選ばない限り延々と「ダメ」と言われ続けるに決まっている。だったら初めから選ばせたほうが早い。
やはり目当ては決まっていたようで、夏はさっと桃のアイスバーを選んだ。初めて見る商品だ。
「桃?」
「そう。そんな気分なの」
夏はそれからなし水も渡してきた。俺の奢りだから調子づいているんだろう。
さっさと会計を済ませ外に出ると、途端に忘れかけていた熱気が皮膚を焼いた。エアコンの恩恵は、ここまでだ。
「早く食べよう。溶けちゃう」
夏はすぐに袋を開け、大きな一口でスイカバーにかぶりついた。すぐに「おいし~」と唸る。
俺もアイスを食べると、桃の香りとともに口の中の温度が急降下し喉に快感が流れ込んできた。
「おいしい?」
「うん。おいしいよ」
「一口ちょうだい」
俺の返事を聞く前に、大きな口が全開で待ち構えていた。恐る恐るアイスを向けると、夏はそのままの口でアイスを頬張った。……俺の3倍近い量を一口で食べている。
「おいし! え! これ桃の果実が入ってるじゃん! やばっ!」
唇が桃で濡れていた。リップクリームを塗ったみたいに立体的に、瑞々しく映えている。
「お兄ちゃんも食べる?」
夏は右手に握っているスイカバーをちらつかせた。
「俺はいいよ。夏が食べな」
夏は「ふーん」と言って、すぐにスイカバーの捕食を続行した。
夏によって3分の1も減ってしまった桃アイスを、俺も食べた。でもその味よりも、幸せそうにアイスを頬張る夏を見ることで心が躍った。ずっと見ていられる。
「あ! 溶けてきた!」
夏の声に驚き手を見ると、腕の方に桃アイスが垂れてきていた。暑さでこんなにも早く溶けだしてしまったのだ。急いでアイスの持ち方を変え、地面に雫を落とす作戦に切り替えた。
「あーもったいない」
夏は一滴もアイスを逃したくないのか、大きな口を開けて残りのスイカバーを一口で完食してしまった。
その口のどこにそんなスペースがあったんだ? 夏の口は4次元ポケットなのか?
「お兄ちゃんも早く食べなよ! 溶けてるよ!」
「あ、うん」
俺も残ったアイスを一気に口に入れたが、それと同時にキーンとした凄まじい頭痛に襲われた。
「んー!」
口が開けられず、悶えるしかなかった。頭を押さえながら少しでも意識を分散させようと動き回ったが、その様子が滑稽だったのか、夏はケラケラ笑っていた。
夏はどうしてあんな量を一口で食べたのに頭が痛くならなかったんだろう。やっぱり、普通の人間とは一線を画す何かがあるのかもしれない。
暫くすると自然と頭痛も収まり、ようやく呼吸を整えることができた。疲れてその場で蹲っていると、夏は先ほど買ったなし水を俺の頬に押し付けてきた。
「つ、冷たいなっ!」
「ねえねえ、今回のテストうまくいきそう?」
「え? テスト?」
押し付けられたなし水を一口飲むとすぐに夏から奪われ、勢いよく飲まれていた。これでもう半分くらいは無くなってしまっただろう。
「お兄ちゃんバイトばっかで勉強する時間あったの? 大丈夫?」
「別に……どうでもいい」
「は? なんで? そんなんじゃ1位になれないよ!」
「1位じゃなきゃダメ?」
「ダメ。1位しか許さない」
「なんで?」
「せっかく頭いいのにもったいないでしょ! 本気出せば1位になれるんだったら頑張りなよ!」
「……ナンバーワンにならなくてもいいって誰かさんが言ってた気がするけどなぁ。もともと特別なオンリーワンって……」
「屁理屈言うな! こういう時だけSMAP出すの卑怯だよ!」
「えー2位じゃダメ?」
「ダメ。1位は1位だからいいの。富士山は日本一だからみんな知ってるけど、2位の山なんて誰も知らないでしょ? それは2位だから。2位じゃ誰も見てくれないの。1位はそれだけ特別なんだよ。お兄ちゃんも1位の男になりなさい!」
「……北岳」
「は?」
「日本2位の山。北岳」
「……なんで知ってるの」
「頭がいいから」
「殴られたいの!?」
夏が思いきりなし水を振り上げる。
正気か!? そんなことしたら中身が弾けてとんでもないことになる。紙パックで殴ろうとするなんて、本当恐ろしい子だ。
「うわああごめんごめん!」
素直に謝ると、夏は振り上げていたなし水をゆっくり下ろした。
「とにかく、絶対1位とってよ」
「……自信ないなあ」
「去年1位になれたんなら、今年も可能性はあるでしょ?」
「えーまあ頑張るけど。今からじゃさすがに全教科は無理だよ?」
「総合でいいから。総合で1位になれば許す」
「……それでも自信ないなあ」
汗がゆっくりと首を伝っていく。暑すぎてそろそろ店内に戻りたくなってきた。
すると夏は突然、俺の脇腹をつついてきた。「ひゃあ!」と情けない声が出たし、驚きで尻もちをついてしまった。それが滑稽だったのか、夏はまたケラケラ笑った。
「1位になったらご褒美あげるよ」
「ご褒美?」
「お兄ちゃんの願いを一つ、叶えて差し上げましょう」
「……マジで?」
「ただし! 女子高生にも実行可能な願いに限定します。法律に触れることや、金銭の要求はお控えください」
「俺を何だと思ってんの」
苦笑しながらゆっくり立ち、自転車に跨ると、夏は汗を拭いながら続けた。
「でもさ、本当に何でも叶えてあげるよ。だから、頑張ってみてよ」
「うん……分かったよ。頑張るよ」
少し言葉を濁したが、一応肯定的な反応だったからか、夏は満足そうだった。
学年1位……。
正直今の状態では厳しい。10位以内にも入らない気がする。
♢
夕食後部屋に行くと、勇人の机の上には英単語が雑に書かれたノートが置かれているのが見えた。途中で文字が歪な形になっている。夏に邪魔でもされたのだろうか。
自分の席に座り机の電気を点け、テスト実施表を確認する。とりあえず初日に実施される物理から始めることにした。
やっぱりテスト勉強はしんどいし、先生によっては範囲が殺人級に広いため油断はできない。
国立大や、早慶を目指している人もいると聞くが、そういう人らはバイトなんかせず、少なくとも一週間も前からテスト勉強をしているはずだ。このままじゃ1位は厳しい。久々に真剣にやらないといけないかもしれない。
でも別に夏に言われたからといって、本当に1位じゃなきゃいけないわけではないはずだ。結果として1位になれなくても、1位を目指す努力をしたのならそれでいい気がする。
夏に何発かは殴られる覚悟で、3位辺りを目指そうか……。
中指のペンダコが痛くなり、休憩を始めた頃、勇人も部屋に入ってきた。てっきり席につくのかと思ったが、なぜかそのまま俺のもとにやってきた。
「え? どうした?」
「申し訳ないんだけど、数学教えてくれない? 全然分かんないんだよ。確か数学1位だろ? 頼むよ。この前は俺が言いすぎた。悪かったから助けて」
やっぱりこうなった。いつものパターンだ。
見間違えかもしれないが、勇人の目が潤んでいるような気がする。泣きたくなるほどヤバいのか?
「……無理? 忙しい?」
「2位だよ」
「は?」
「数学は残念ながら1位になったことはない。2位だった」
「そっか。でもいいから、とにかく教えてほしい」
「分かった。何が分からないの?」
勇人はもじもじしていて、なかなか言い出さない。
「なんで黙ってるんだよ。言ってくれないと何もできないだろ」
「……怒らない?」
「え?」
「俺が何言っても、怒らない?」
不安気な目で俺を見つめている。怒られないかびくびくしている子どもみたいだ。
昔俺の作ったデジモンをぶっ壊した時も、こんな目で謝ってきたっけ。別にこっちは怒る気なんかないんだから、そんなしょぼくれなくていいのに。かわいいやつだ。
普段俺より頼りがいのある勇人も、こんな一面を見るとやっぱり弟だなぁなんて思ってしまう。
「怒らない。怒らないから早く言いなよ」
安心したのか、勇人の表情が緩んだ。かわいい。なんでもしてあげたくなってしまう。
「移項ってどうやるんだ?」
「お前そこからか!? そんなことも分からないのか! 授業中なに聞いてたんだ!?」
「嘘つき! 怒らないって言ったのに!」
「怒ってない! これは質問だ! なんでそんなことも知らないんだ!」
「だっ、だから困ってるんだろ! 頼むから教えてくれよ!」
「無理。今から移項のやり方を勉強している時点で間に合うわけない」
「そこを何とか!」
「2位だった俺には無理」
「じゃあ1位誰だよ! 数学1位紹介してくれよ! その人に頼むから!……もしかしてあいつか? 1位だったの」
「あいつ?」
「あの、なんだっけ……カエル顔のやつ」
「もしかして赤松のこと?」
「そうそうそいつ。そいつが1位?」
「そうだったかもなぁ」
「はあ!? なにお前、赤松に負けたの!? 信じらんねー。俺あいつ大っ嫌いなんだよな。今回は絶対負けんなよ! 学年トップの意地を見せろよ!」
「『元』だよ。今はトップじゃない」
「だ・か・ら! 奪還しろよ!」
なぜか勇人が熱くなっている。その熱血さに、思わず幼い頃を思い出してしまった。
何回やっても俺にぷよぷよで勝てず、必死になっていた小さな勇人。何度負けても「もう一回!」と挑み続けていた。勇人は人一倍負けず嫌いで誰よりも熱くなる。
一輪車に乗れなかった時も泣きながらも夜遅くまで練習していたし、俺だけ二重跳びができずにいた時、俺よりも勇人が必死になって指導していた。「兄ちゃんもう一回!」「もう少しでできそう!」と励まし、練習に付き合ってくれたのだ。
「おい笑うな! 悔しがれよ! 赤松みたいな親の金で予備校やら家庭教師やら頼りまくってるようなやつに負けんなよ! そのくせ早人に負けた時死ぬほど嫌味死ぬほど言ってきただろ!? ただの負け惜しみでさあ! 塾に行けないなんてかわいそうだね、片親は大変だねってさあ! ほんとムカつくやつだよな! あいつの鼻をへし折れよ! まったく……あいつだって私立落ちてカス高に通ってるくせに!」
笑いが止まらない。
勇人のこういうところは、ずっと変わっていない。小学生の時、運動ができない俺をからかった同級生に殴りかかったあの勇人のままだ。
女子より足が遅い俺を鍛えると言って、毎朝5時に起きてランニングをさせてきた昔の勇人と全然変わっていない。
笑い続ける俺を、勇人は「笑うな!」と一喝してきたけど、おかしくて仕方ない。俺以上にムキになって怒ってくれている勇人が心底嬉しいのだ。
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