1・5① バイ、バイセコー!
――2007年7月――
眠い。すごく眠い。今すぐ家に帰って二度寝したい。昨日のバイトの疲れが残っているのかもしれない。いつも気を付けてはいるけど、もしかしたら授業中寝てしまうかも。
目を擦り教室に入った途端、クラスメイトが一斉に俺を見た。
俺って有名人だったっけ? というくらいほぼ全員俺を凝視している。
理由が分からない。昨日俺が何か事件を起こしてしまい、それでみんなから注目されてしまっているような感じだ。
戸惑いながら席に着くと、誰かがクラスメイトの机を押しのけ俺の目の前に現れた。
去年同じクラスだった赤松だ。細い見た目とは裏腹に、空手経験者というギャップのある男。前は黒縁のメガネだったのにフチなしに変わっていた。
何かに似ているのに思い出せない。なんだっけ。あと少しで出てきそうなのに、どうしても喉から先に記憶が届かなくて気持ち悪い。
そうこうしている間にも赤松はギョロギョロした目で俺を睨みながら何かを話している。何を言っていたのかうっかり聞き逃してしまった。
「お前、どうせ週末もバイトだったんだろ?」
「あ? ああ」
「だと思った。片親は大変だな。予備校に行けない上にバイトしないとまともな生活もできないんだもんな」
何だか教室の空気が変だ。顔を動かさず目だけで周りを確認すると、女子は何やらコソコソ話しているし、男子は……なんか呆れたような顔をしていた。
「お前、進学するつもりなのか? でもお前んち、二人も進学する余裕あんのかよ? 片親なのに学費払えんのか? 可愛い弟くんもいるんだろ? お前は就職して、家に金入れてやったほうがいいんじゃないのか? 弟くんのためにさ、進学はやめたらどうだ」
リュックの中に手を突っ込み、筆箱を手探りで探す。
「だからお前は、無駄に勉強に時間を割くのはやめろよ」
……ない。
忘れた。そうだ。昨日机の上に置いて、そのままだ。木田にペン借りるしかないか。面倒だなぁ。
「分かったのかよ!」
「え? あ? う、うん」
思い出した。
何かに似ていると思ったら、千と千尋に出ていた、カエルに似ている。あの、カオナシに食われてたやつだ。「千はどこだ」って言ってた、緑色の。
半分、赤松が何を言っていたのか覚えていないが、言いたいことを言えたようで、赤松はすっきりした顔で教室から去っていった。
結局あいつ、なんでこの教室にいたんだろう。クラス違うはずなのに。
「な、なあ大丈夫かよ」
真っ先に俺に声をかけてきたのは、木田だった。今日は髪のセットがうまくいったようで、M字バングが綺麗に決まっている。
木田は運動部でもないのに肌が黒く焼けていて、どことなく照英に似ている。最近は、松岡修造のような暑苦しさも増している。
木田のワイシャツの下から蛍光色のカラーシャツが見えた。腕には真っ赤なシリコンバンドとミサンガ。ネクタイも締めている必要があるのか分からないほど緩く結ばれている。
俺が一番仲良くしている男だが、一番距離を置きたいやつでもあるやかましいやつだ。
「ん?」
「『ん?』じゃねえよ! てかなんだあいつ! ほんと嫌なやつだなあ!」
木田の一声をきっかけに、続々とクラスメイトが俺の席に押し寄せてきた。主に男子だが。
あっという間に周りに、木田を中心とした十数名のクラスメイトの円ができていた。男子が急に寄ってきたせいでシーブリーズの匂いが一気に香ってくきた。に多いがきつくて、臭い。
「あいつの小言なんて気にすんなよ。プライドだけ高いやつだよなあほんとに」
「え?」
「あいつずっと教室にいてさ、『杉山はまだ来ないのか!』とかいってうるさかったんだよ。ずっと机とか蹴りながら教室うろうろしててさ、お前の普段の様子とか聞きこみ始めてさ。女子はもうドン引きよ」
「へ?」
「お前に文句言いに来たんだろうな。前回の英語読解、満点お前だけだったし。今回もお前に負けそうで焦ってたんだよ」
「ん?」
「赤松って確か、最近家庭教師もつけたらしいよ。早人に勝とうと必死だな。早大行きたいらしいし、多分親にもいろいろと言われてるんだろうな。カス高なのに自分より頭いいやつがいるのが許せないんだろ」
「わあ……」
「塾も行かず、バイトしかしてない早人に、さらっと学年1位奪われたのが相当頭来たんだろ」
「この前は4位……」
「俺さ、今回お前に賭けたから、頼むから負けんなよ」
「へっ」
「俺もお前に賭けちゃったから。今回お前が赤松に負けたら、部活仲間にガスト奢る羽目になるから。絶対1位になれよ」
「はあ?」
あっちからもこっちからも声を掛けられ、首がついていけない。首の骨が鳴りそうなほど、キョロキョロしてしまった。なんかみんな必死だ。
そもそもなんで俺がこんなに囲まれてるのか分からない。これじゃまるで、説教されているみたいじゃないか。
「とりあえず一人ずつ落ち着いて、ゆっくり話してくれよ!」と叫んでやろうかと思った。それなのに。
「ホームルーム始めるぞー。ほらみんなーケータイしまえー」
担任の柴田の一声で、十数人いた集団は一斉に席に消え、一人、取り残されてしまった。みんなのシーブリーズの残り香だけが鼻につく。
「はい、出席始めるぞー」
いつも通りの朝が始まった。
結局、さっきからみんなが言っていたことはなんだったんだろう。赤松も何が言いたかったんだろう。
俺の瞼を覆っていたはずの眠気は、どうやら騒ぎでUターンしたようで、すっかり目が冴えてしまっていた。
♢
駐輪場に向かっていると、イノシシに激突されたような、自転車で轢かれたような痛みが突然背中を走った。反射的に「うおっ」と情けない声をが出た。
「お兄ちゃん! 一緒に帰ろ!」
イノシシでも自転車でもなく、夏だったようだ。SMAPのストラップだらけのセカンドバッグをリュック背負いしている。
どこにでもいそうな普通の女子高生なのにイノシシに匹敵する威力があるなんて、どんな構造しているんだろう。テニスのし過ぎで体幹が異常に発達したのだろうか。
背中は今も痛みが残っていて、熱を帯びている。背中をさする俺とは反対に、夏はなんだか楽しそうな顔をしていた。
「あれ? どうした? 部活は?」
「部活? バカなの?」
「え?」
「テスト前だよ。部活あるわけないでしょ」
「あ、そうだった」
夏はテニス部に入っていて、平日の放課後はほぼ毎日練習をしている。今では顧問から気に入られるほど、うまくいっているらしい。
テニス部に入ってから、肌が前よりも黒くなった気がする。健康的でいいことだと思うけど、本音を言えば夏にこれ以上運動してほしくない。特に腕を使うスポーツは。
これ以上腕力が強くなったら、殴られたときの痛みが増してしまうため困るのだ。頼むからこれ以上強くならないでほしい。
学校から家までは、自転車で15分くらいかかるが、急いで漕げば10分以内で帰れる。
家までの道はコンビニが一軒ある以外は田んぼ道が延々と広がっていて、ザ・田舎って感じだ。
のんびり自転車を漕いでいたはずなのに、後ろにいたはずの夏が、いつの間にか俺と並走していた。
「おい、並んで走ったらダメだろ。俺の前に行くか後ろで走れよ」
「はあ? 相変わらずクソ真面目だね。先生じゃあるまいし」
隣にいた夏が、バシッと背中を殴ってきた。でも自転車に乗っていたからか、そこまで痛くはない。
「久しぶりに一緒に帰るね」
「そうだな」
「バイセコー!」
「は?」
「ノリ悪っ! こういう時は、『バイ、バイセコー!』でしょ!」
「え、え?」
「もういい!」
夏が口を膨らませて爆走して行ってしまった。俺からぐんぐん離れていく夏の首筋には、しっとりと汗が這っていた。こんな暑いのによくあんなに漕いでいられるな……。
通い慣れたこの平坦な道も、暑さの中だとこの上ない苦行だ。何の罰ゲームでこんな灼熱の中自転車に乗らなきゃいけないんだと思うほど辛い。
チャリ通は何かと不便だ。夏も冬も辛いし、雨でも降ったら自分との戦が始まる。挙句、バス通学の同級生を心の奥でこっそり恨んでしまう黒い自分が湧いて出てきてしまうから更に嫌になる。
誰か一刻も早くどこでもドアでも発明してくれないだろうか。
「お兄ちゃん、アイス奢ってよ! バイトで稼いでるでしょ!?」
ampmが見えてきたところで、夏が叫んだ。数分しか漕いでいないのに、もう汗が滝のように垂れている。
確かに、このまままっすぐ家に帰るのはしんどい。
涼みたいこともあって、アイスを買うことにした。
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