1・4⑤ 沈黙という名の肯定

 掃除が終わった教室。


 一日の疲れが出ているのか、テスト期間による勉強漬けで干からびたのか、クラスの大半が死んだような目をしている。


 仕方ないことだ。


 こんな湿気と制汗剤と汗臭さが飽和している空間、一刻も早く逃げ出したいだろう。男子も女子も教科書やら下敷きやらで風を扇ぐことでなんとか意識を保っているが、もう少ししたらみんなしびれを切らして暴れ出すんじゃないだろうか。


「ねーねー、この前メアドやっと聞き出せた翼くんにメールしたいんだけど、なんて送ればいいかな? きっかけがほしくて。でも特に話題がないんだよねえ」

「えーきっかけなんかどうでもよくない? テキトーに『あ、送る相手間違っちゃった』とか言ってなんか送れば? あたしそれで今もメール続いてるよー」


「うわ、お前弱っ!」

「うるせえ! だからマリカーは嫌だって言ったんだろーが! なあもうポケモンにしようぜ」


 先生が会議中なのをいいことに、一部のクラスメイトがケータイやDSを出して遊び始めた。こいつらはテスト勉強などしていないのだろう。全くその目には疲れはない。


「サトシ、お前マイミク何人?」

「んー? 今130人」

「は!? なんで!? やば! こわあああ!」

「てかそんなことよりさ、お前紹介文書き直せよ! なんだよあれ!」


 ワイシャツのボタンを3つ目まで開けている窓際の男子。ボタンの開け具合と声のデカさは比例するらしい。


 俺の席は教室のど真ん中にあるせいか、鼓膜が室内のいろんな会話を拾い上げてしまう。もう嫌になる。早く帰りたい。


 それにしても7月でこんなに暑いなんて、8月になったら地球は一体どうなってしまうのだろう。このクラス全員、夏休み明け無事に生還できるのだろうか。



 こんな状況でもテストガチ勢と呼ばれる一部の優等生タイプは、隙間時間を使って必死に赤シートで何かを暗記しようとしていた。

 よくやるわ。俺には絶対無理だ……。


「おいそこの男子! 腰パンやめろ! そんなにズボンを履きたくないなら全部脱がせるぞコラ!」


 怒号で、死にかけていた皆の肩が跳ね上がる。


 廊下では注意された他クラスの男たちが、ものさしを持った生活指導の先生から必死に逃げ回っていた。

 どうやら職員会議が終わってしまったようだ。


 その野蛮劇で全員の意識が鮮明になったところで、予想通り田所が教室に入ってきた。『無尽』とど真ん中に書いてある謎の白いティーシャツを着ている。


「はい、ホームルーム始めるぞー! あ! おいお前ら! 今ケータイ触ってただろ! 持ち込み禁止って何回言ったら分かるんだ! 没収! 明日取りに来い!」


 怒られた男女がケータイを田所に差し出す。不服そうだが、でもそこまでダメージを受けているわけではなさそうだ。「コムがあるからいいもんね」とでも思っているんだろう。


「はい、もうすぐテスト期間だが、お前ら分かってると思うけどテスト帰りマックとか寄り道するんじゃねえぞ! この前うちの2年がマックでうるさかったって苦情の電話来たんだからな! くれぐれも下校中の寄り道はしないように! 分かったか! というかテスト期間なんだから勉強しろよ! たった一週間だぞ! 一週間くらい頑張れよお前ら!」


 はーい。


 ダルそうな合唱。

 それが不満だったのか、田所の眉がピクっと動いた。


「お前らなあ、俺のこと口うるさい先公だと思ってるんだろうけどな、お前らのことを思って言ってるんだからな?」


 また始まった。田所のありがたいお話。


 説教半分、経験談半分の生徒の大半にウザがられる長話だ。早くて数分、長くて数十分要するため大変不評のこの時間。


 でもそんなありがたい話のファンはごく一部いるらしい。田所のありがたいお話は基本生徒が何かをやらかしたときに始まるため、毎日誰かが校則違反するのを今か今かと待ち構えているそうだ。


 そんな田所ファンなど、特殊な人種に違いないが。


「大人が口を揃えて言う学生時代の後悔は何か分かるか? 『もっと勉強しておけばよかった』だ。学生時代に思う存分勉強しておけば大人になってからこんなに苦労しなかったのにーって大抵の大人は後悔してるぞ。あ、これ岡部データな。ソースは求めるな。コロッケにかける方のソースじゃねえぞ?」


 寒い冗談に誰かがチッと舌打ちした。都合のいいようにできている田所の耳はそれを捉えなかったようで、そのまま続けた。


「まぁ、お前らにはまだ分からないんだろうな。学生時代がいかに重要で二度と戻れないかけがえのない日々なのかってことが。今が一番輝いていて、尊い時間だってことが。この時期が人生で一番楽しくて、大人になった時にふと戻りたくなる貴重な時期なんだぞ。まあ今が一番辛くて苦しくて、二度と戻りたくないって思う人もいるかもしれない。それでもな、青春ってのは二度と戻れない貴重な時期っていうことだけは確実だ」


 ポエマーかこいつは。


 田所をなんだか直視していられなくて、窓を眺めてしまった。

 そこには絵具で塗ったようにきれいな水色の空と、一本線のひこうき雲が浮かんでいた。


「大人になってから気付くもんだ。その時はみーんな気付かないもんだ。だからお前らは俺の言葉もウザい説教の一つとしてしか受け取らないかもしれない。でもな、俺は今でも思ってるよ。学生時代に戻りたいって。やりきれなかったことを存分にやりまくりたいって。だからな、お前ら絶対後悔するようなことはするなよ。今はこの今しかないんだからな。過ぎたら絶対に戻れないんだからな」


 ふと、廊下側に座っていた木田が視界に入る。なんか、目を輝かせている……。


 やつはどうやら、特殊な人種のようだ。


「だからお前ら、とにかく勉強しろ! 後悔のないようにテスト対策しっかりやれよ! 分かったか! 勉強しない後悔はあっても、勉強した後悔はないんだ! 期末で赤点を取ったら今学期の成績の一発逆転がもうできなくなるんだからな!」


 チッとという舌打ちは聞こえなかった。


 代わりに現実に引き戻された誰かの「ひっ」という声が、湿度の高い教室のどこからかともなく届いた。






 階段を降りていると、木田が俺の背中を力強く叩いてきた。


 想像以上にニヤニヤしている。こいつはゴシップ好きと言うか、恋愛事情に敏感というか、浮いた話が大好きなのだ。こういう系統の話題の時一番いい笑顔になる。


「いい感じ?」

「何が」

「超超超超いい感じ?」

「だから何が!」

「笹井のことだよ!」

「……そのことか」

「笹井、絶対お前のこと好きじゃん。どうなん? 付き合うのか? いやあイケメンはいいなぁ」

「告白されたわけでもないのに付き合うも何もないだろ」

「バカか。あの顔は確実にお前のこと好きだろ。鈍感かよお前」


 靴箱から靴を取り出し床に放り投げると、煙のように砂埃が舞った。白かったはずの登校靴も、長年履かれてきたせいで茶色くなってきている。


 一刻も早く、白い靴から黒いローファーに変えたい。ローファーで学校に行く夏と、白い靴を履いて学校に行く自分を見るたび、夏との差が埋まらない気がして嫌な気分になる。自分が夏に追い付けない感覚がして、屈辱的になる。


「付き合うかどうかは別として、映画くらい行けばどうだ?」

「なんで映画に誘われたこと知ってんだよ」

「俺が二組の女子から聞いた。勇人の反応聞いてやるよって言ったらさ、女子たちすぐ教えてくれたぜ? 普段口固い女子も恋の協力者にはホイホイ情報をくれるのさ」

「お前……記者になったらどうだ」


 そこまで詮索する木田が絶妙にキモいが、笹井以外の女子たちが知っているのも怖い。何か言うとすぐ二組に広がってしまうんじゃないかと思えてくる。二組の前を通りづらくなるじゃないか。


「変に期待されても困るだろ。変に行かない方がいい気もする」

「は? もう断るつもりなの? 笹井いいやつじゃん。去年の修学旅行だって同じ班だったろ。仲良くしてたじゃん。何でダメなんだよ。付き合っていけば段々好きになっていくかもしれないのに、もったいないって」


 こういうゴシップ好きは局所的に記憶力がいいから困る。


 15人しかいない徳川家の将軍は全く覚えられないくせに、誰と誰がいつ何をしていたか、どんなことを言っていたのか、クラスメイト以外の人間のことも覚えている。勉強が苦手なやつほど無駄な知識は多い。


「まあ、笹井は良いやつだけど、でもそういう目で見てないからさ」

「はあ? 顔も結構かわいいじゃん。なんだっけ、ほら、顔も宮崎あおいに似てて。声もかわいいじゃん。笹井みたいな子を恋愛対象に見ないで誰をそういう目で見てるんだよ?」


 笹井は確かにかわいいと思う。


 大きいつぶらな瞳に、少し低めな身長、細すぎない丁度いい体型、気さくで明るい性格。男子が好きそうな要素は揃っている。俺も多分、普通なら好きになるし、告白されたら速攻で付き合っていると思う。


「もしかしてお前、他に好きなやついるのか?」


 木田の声のトーンが少し低くなった。普段おちゃらけている木田が急に真面目なトーンで話すと気味が悪い。

 俺がどう出るのか、木田は黙って身構えて、待ち構えている。


 言えない。というか、言いたくない。こいつだけには、絶対に。


 木田は夏のことをもちろん知っている。何回も俺の家に来ているし、夏とも何回も会っている。


 こいつは夏を見て、「ゴリエみたいな人だな」とか「女で合ってるよな?」とか「浅倉南じゃなくて残念だったな」とか散々言っていた。


 俺が夏を好きなのだと知ったらきっと大笑いされて、貶されて、ゲテモノ好きとか言われるのがオチだ。木田に一番知られたくないかもしれない。


 俺が何も言わないのに何かを悟ったのか、木田は口を開けたまま激しくうろたえ始めた。


「え? マジ? いるの……?」


 最悪だ。嘘でもいいからハッキリ反応すればよかった。沈黙なんて肯定しているようなもんだ。


「え? だれ? 俺の知ってる人? 同じクラス?」

「ほっとけ」


 咄嗟に木田のすねを蹴飛ばし、俺は全速力で逃げた。「ぎゃっ」と唸った木田は、痛みでぴょんぴょん跳ねて、動けなくなってしまったようだ。


 一応元陸上部の俺は、すぐに木田から逃げることに成功した。下駄箱をあっという間に抜け出し、校門へ向かって一直線に走る。

 それでも木田の咆哮ほうこうだけはずっとそこら中にこだましていた。


「はあああ!? お前俺にずっと黙ってたのかよ? 早く言えよ! 誰だよおおお! 明日絶対教えろよおお!」


 校門を過ぎても、そんな奇声は続いていた。

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