1・4④ 力尽きました

「わぁ……すごいねこれ」


 夏は机の横にある本棚を、未確認生物を見ているかのようにじっくり観察していた。


「え? そんなにすごい?」

「すごいよこの量。お父さんといい勝負」


 そんなにマンガを買っているつもりはなかったが、思い返せば確かにお小遣いの大半をマンガに費やしている。自然と本棚はマンガでいっぱいだ。


 クローゼットには本棚に収まりきらなかったマンガが段ボール箱に入って眠っている。俺は意外とマンガマニアなのかもしれない。


「あった! ハガレン!」


 夏は本棚からハガレンの最新刊を手に取ると、そのまま椅子に座って読み始めた。

 椅子を取られたんじゃあ、俺の座るスペースがない。仕方なく、ベッドでPSPをすることにした。


 俺はマンガもゲームも好きだ。


 マンガはジャンル問わず、面白ければなんでも読む。ゲームも友達とやれるものなら、なんでもやっている。


 それに音楽も基本なんでも好きだ。早人のように洋楽ばっかり聴くことはなく、もちろん夏のように同じ歌手ばかり熱中することもなく、基本的に着うたの人気曲やドラマ主題歌を中心に幅広く聴いている。



 つまり、俺の「好き」は枝のように分かれていて、いろいろなものにアンテナがあるのだ。夏のように一つの物だけにしかアンテナがないタイプには、このような感覚はあまり理解されないのかもしれない。


 俺からしたら一つの物だけをずっと同じ熱量で追いかけていける方がずっと難しい気がしてしまう。


 熱はいつか冷めてしまうのが自然の法則だと思っていたけれど、夏は冷めるどころかいつまで経っても沸騰していられる。それがすごいところだ。

 俺はきっといつまでも沸騰することすらできず、ぬるま湯に浸かったまま終わるだろう。


「それ何のゲーム?」


 仰向けの状態でPSPを操作していたせいで少し腕がきつくなってきていた頃、夏が椅子に座りながら話しかけてきた。


「え? モンハンだけど」

「あー周りの男子みんなやってるわ」

「だろうな」


 目で必死にラージャンの動きを追う。瞬時に判断し、カチカチとボタンを押す。

 昔は瞬殺されたが、経験は嘘を吐かないようで今回は簡単に攻略できそうだ。


 急に椅子にいた人影が動いた。そしてそれは一直線にこちらへ向かってきていた。


「……へっ!?」


 何かの重みで軋むベッド。突然暗くなる視界。なんと、夏がベッドに侵入し始めていた。


 なんで来たんだ!? 


 マンガなら椅子で読んでいればいいのに。大人二人が寝られるほどベッドは広くないのに。

 もしかして小学生の時は普通に寝られたからその感覚で来たのか? バカか? その時よりかなり身長が伸びたし、夏なんか、縦にも横にもデカくなったくせに。


「な、なんだよ!」

「私も寝っ転がりたい」

「ちょ、今大事なとこなんだから邪魔すんなよ! 死んじまうだろーが!」

「知るか! 早く詰めろ!」


 バシッと肩を叩かれた弾みで手元が揺れ、ラージャンの攻撃をまともに食らってしまった。


「なんでこっち来るんだよ! 邪魔だよ! 上行けよ! 早人の方で寝ろ!」

「上るのめんどくさいんだもん」

「は、はぁ!?」


 抵抗する暇もなく、夏は俺の横に身を捩って詰め寄ってくる。そしてなんとかスペースを開拓すると、倒れるように俺の横に寝転んだ。弾みで夏の身体が俺の腕に当たり、衝撃でPSPを落としてしまった。


「あああ!」


 急いで拾ったものの、一瞬の隙に俺はラージャンに襲われていたようだ。


『力尽きました』


「夏! お前のせいで死んだだろうが!」


 それなりの声量で怒鳴ったのだが、夏はハガレンに夢中で俺のことを見向きもしない。


「知らないよそんなの。あんたが下手なだけでしょ」

「はあああ!?」


 心臓に毛でも生えているのだろうか。一切こちらを見ることなく、堂々とうつ伏せでハガレンを読んでいる。どこまで自分勝手なんだ。


 もういい。やる気が失せた。


 俺はPSPを切り、夏の横でただ理由もなく寝た。狭いベッドから移動するのも面倒だし、なんか疲れた。


 そっと目を閉じると、真横から夏の匂いがした。距離が近いせいでやたらはっきりと感じる。


 花の香りとか、甘い匂いとかそんな類ではない。何というか、夏にしかない安心する匂いだ。「あぁ、夏だ」と思わず言いたくなるような感じ。鎮まっていたはずの胸が、再び乱れ始めた。


 それにしても、たとえ幼馴染とはいえ男のベッドに堂々と侵入し一緒に寝るなんて無防備なやつだ。

 俺がどんな気持ちかも知らないでこんなことして。俺がもし悪い男だったら今すぐここで襲われているだろうに。


 俺がまともな男だから無事なだけだ。俺が悪いやつじゃないからこんなに露出した服でいつまでも油断していられるのだ。



 ……いや、違うな。


 もし夏を襲ったら、返り討ちにされる。ラージャンよりも恐ろしい女だ。きっと無事では済まないのは俺だ。


「ていうか勇人ってさ」

「え?」


 話しかけられたせいで、反射的に目が開いた。横目で見ると、夏は俺に背を向けた状態で、横向きになってハガレンを読んでいた。うつ伏せに疲れたのだろうか。


「なに?」


 夏のその短い髪から、うなじが顔を出していた。思わずそれに触れてしまいそうになる。


「なんであんな急に私の部屋に来たの? なんか言いたいことでもあった?」


 俺は夏を見ているのに、夏はそれに気付かない。俺に背を向けたままだ。今ここで夏の肩を掴み、こちらに向けたらどうなるだろう。


 やっぱり、返り討ちだろうか。


「あ、その、誤解を解こうと思って。それで来た」

「誤解?」

「さっきの女子が、ただの友達ってこと。あの子のこと彼女だと勝手に思い込んでただろ」

「え? 彼女じゃないの?」

「違うって! ただの同級生だよ。家が近いからたまたま一緒にいただけ」

「あっそ」


 たいして興味はないようで、リアクションは薄い。淡々と、マンガのページをめくる音が聞こえる。そして流れる沈黙。


 自然と感じる、夏の匂い。その香りにふと、確認してみたくなってしまった。


「あ、あのさ」

「なに?」

「俺、さっきの子に映画に誘われたんだよね」

「は? 自慢?」

「いや、その……行くべきだと思う?」

「は?」

「だから、その子と映画に行くべきだと思う?」


 心のどこかで期待していた。夏は香取慎吾しか見ていないことは分かっていた。それでも、ほんの少し、期待してしまっていたのだ。


 行くな。そう言ってくれ。期待はもはや、願いになっていた。


「……行けば?」


 でも無宗教の俺の願いは、どこにも届かないようだ。


「行けばいいじゃん映画くらい。なんで私に聞くの? 勝手にしなよ」


 そりゃそうだよな。普段神も仏も信じないくせに、こんな時だけ頼るなんて都合がよすぎるよな。願いが通じるわけないよな。


「嫌じゃない?」

「なにが」

「俺が映画に行っても、夏は嫌じゃない?」

「なんでよ」


 イライラし始めているのが声で分かる。爆発されるかもしれない。


 それでも口が止まらなかった。どうにかして、夏を振り向かせたかった。壁のように動かない夏の背中を、こちらに向かせたかった。


「じゃあさ、もし俺があの子と付き合ったらどう思う?」

「は? 何なのさっきから。いい加減うざいよ」

「だから夏はどう思うって聞いてるだろ!」


 つい声を荒げてしまった。急にムキになったせいか、夏はようやく首を動かしこちらを見た。


「なに急に。なんでそんな怒ってんの」

「ごめん」


 夏はぐるりと体を回しこちらを向いた。向き合っているせいか、狭いベッドの中のせいか、夏の顔がよく見えた。


「どうかしたの? お姉ちゃんに言ってごらん?」


 ふざけている時、夏はこうして俺を弟扱いする。いつまでも俺は夏の「幼馴染」であり、「弟」でしかないのだろうか。


 夏の手がゆっくりとこちらへ伸びる。その手は俺の髪に着地した。撫でるようにするりと髪の上を移動すると、前髪を指に絡ませ、くるくると遊び始めた。


「髪、伸びたね」

「……うん。そろそろ切らないと」

「そっか。でも私はこっちの方が好きかも」

「え?」

「ほら、あんた部活やってた時は短髪だったでしょ? でもそっちより今みたいなちょっと長さある方が私はいいと思う」


 俺自身じゃなく、あくまで髪型の話。それは分かっていたけれど、でも夏の口から「好き」という言葉を聞けただけで、顔が熱くなった。

 それに、夏が俺に触れている。それだけで、どうにかなってしまいそうだった。


 俺もそっと手を伸ばした。俺の髪に伸びている夏の手をくぐり、夏の頬に触れる。夏の目がピクッと動いたが、特に嫌がる素振りは見せなかった。それを確かめると、俺は夏の頬を撫でた。


「夏はほんとにどうでもいいの?」

「なにが?」

「その……あの子から映画に誘われたからさ。なんか、断るべきかなって」

「なんで?」

「……告られるかもしれないだろ」


 髪をいじる夏の手が止まった。でも一瞬のことで、すぐにくるくるとした動きが再開された。


「……あっそ」

「夏は俺に彼女ができても平気?」

「なんでそんなこと聞くの?」

「夏は、嫌じゃない? 俺が誰かと付き合っても、嫌じゃない?」


 お願いだから、「嫌だ」「ダメだ」そう言ってくれ。もしくは、ほんの少し嫉妬に近い感情でも抱いてくれ。


「別に、好きにしたらいいじゃん。あんたのことなんだから、あんたの好きにしなよ」


 やっぱりそうか。


「分かった。そうだよな。もういい。悪かった」


 俺は夏の手を振り払い、ベッドを降りた。そして勢いのままに、部屋を飛び出していた。

 後ろから、「なんなの!」という夏の怒号が聞こえたけど、気にせず階段を駆け下りていた。


 分かってはいたが、こうも現実を突きつけられるとさすがにへこむ。


 夏は俺が誰と映画に行こうが、誰と付き合おうが何も思わない。思ってくれない。

 夏は俺を一ミリも意識してない。彼女ができたと言って適当な女子を連れてきても、ショックなど受けないだろう。


 本当に、どうすればいいのだろう。好きになってくれないとしても、せめて男として意識してくれるようにするにはどうすればいいのだろう。


 このままでは香取慎吾に勝てないどころか、男として見てももらえない。

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