1・4② 調子こいてんじゃねーよ

 リビングに顔を出すと、意外にもおばさんしかいなかった。てっきり夏もいると思ったのに。


 となると、部屋か。


 俺はおばさんに軽く挨拶して、二階にある夏の部屋に直行した。早く誤解を解きたい。その思いからか、自然と足取りが速くなる。


 急ぎ足で階段を上がっていくと、いつも全開のドアが珍しく閉まっているのが見えた。


 何で閉まっているんだ? エアコンが使えないから、いつも窓とドアを全開にすることで風通しをよくしていたはずなのに。


 まあいいや。


 何も考えず、そのままドアノブを握った。



「夏! 話を聞け!」

 

 ノックもせずにドアを豪快に開け、部屋に乗り込む。すぐに視界が緑で溢れた。


 夏の部屋は香取慎吾のメンバーカラーである緑色を中心に構成されている。カーテンもシーツもカーペットもほぼ緑だ。


 壁はポスターだけではなく、SMAPのタオルが複数枚横断幕のように飾られている。


 いきなりポスターの香取慎吾と目が合ってしまったが、すぐにその緑の中で立っている夏の姿が目に入った。


 当たり前だが夏は部屋にいた。ここまでは予想通り。ただ問題が一つあった。


 夏が予想外の格好をしていたのだ。


「あ、ごめん……」


 裏返った、自分のものとは信じられないような声。


 夏はキャミソールに、制服のスカートを履いている状態だった。というか、スカートも今から脱ごうとしているようで、夏の手はスカートのファスナーにあった。


 普通に考えればわかったはずだ。


 帰宅してやることといえば、手洗いうがい、そして制服から部屋着に着替える……。


 夏が部屋にいるのに、それを一切想像できなかった自分がアホすぎる。そもそも、いつも開いているドアが閉まっていた時点で少しは察するべきだった。


 すぐにドアを閉めればいいのだが、俺は夏の下着姿を見てしまったことに相当動揺してしまい、「あ……あ……」とカオナシのような声で狼狽えることしかできなかった。


 夏は静かに着替える手を止め、ゆっくりとその状態のまま俺に近付いてきた。


「な、夏、服着ろ。話はそれからで……」


 俺の声が届いていないらしく、とうとう目の前まで夏はやってきた。目が合った瞬間、夏は牙をむいたように俺の髪を鷲掴みし、襲い掛かってきた。


「このやろお! ノックぐらいしろやあああ! 絶対許さねえからな! この変態クソ野郎があああ!」


 髪の毛たちが勢いよく引っ張られ、地肌が悲鳴をあげているのが分かる。頭皮が千切れそうで痛いし怖い。


「悪かったって! ごめんて! 頼むから服着てくれ! それからいくらでも土下座するから! 髪引っ張るな! 抜ける! はげる!」

「はげろ!」


 ああ、やっぱりこいつは浅倉南なんかじゃない。


 あだち充のヒロインなら、下着姿を見られたらせいぜい「きゃー!」と叫んで手当たり次第に物を投げつけてくるぐらいだろう。

 まさか下着姿を隠そうともせずそのまま返り討ちにする女が実在するなんて誰も想像しないはずだ。


 仕方ない。夏は猛獣なのだから。


 夏は自分の格好などお構いなしに、俺の顔を引掻き、髪をむしり、腹を殴ってきた。瞬間、内臓に津波のような激しい衝撃が渡る。俺は「ぐはっ」といいながら、とっさに腹を押さえてしまった。


 そうして俺が前のめりになった瞬間、夏は少し離れ、助走をつけてこちらに向かってきた。


「彼女できたからって調子こいてんじゃねーよ!」


 どっかで聞いたことあるようなセリフ。


 そう思った時には、夏が俺の股間を勢いよく蹴り上げていた。


 ……股間だ。


 男にとってある意味心臓よりも重要でデリケートな唯一無二のシンボルがある場所。内臓が剥き出しになっている、一番敏感な部分。


 デコピン食らっただけでも激痛が走るその場所を、北斗晶のような猛獣に手加減無しで蹴り上げられてしまった。


 バカでかい杭でも打ち込まれたような痛み。

 もしくは野球部員の素振りがモロに命中したような、そんな感覚。


 それが股間から全身にかけて、肉を引き裂く雷のように駆け巡った。細胞が弾け飛んだのかと思うほどの衝撃が、一切遠慮なしの全力疾走で神経一つ一つに伝達されていく。

 


「うぎゃあああ!」



 まさか股間を蹴られるなんて思わなかったせいで、腹を押さえていたせいで、ノーガードで食らってしまった。

 玉が潰れたのかと思うほどの痛みに耐えきれず、よろよろとその場に倒れ込むことしかできなかった。


 熱を帯びたそこから、異常事態宣言がけたたましいアラームとともに発令されているのが分かる。追いかけるように、脂汗が穴という穴から溶け出してきた。 


 テニスラケットで背中を殴られたときの何倍も痛い。こんなんだったら辞書で頭を殴られたほうがマシだ。痛すぎて何も考えられない。死んでしまうかもしれない。


 というか俺のアレは無事か? 機能するのか? 潰れていないだろうか?


 痛すぎるのと恐ろしすぎるせいで、「あー! あー! あー!」と股間を押さえながら、床にのたうち回った。とにかく叫ぶことで股間の痛みに意識を集中しないようにしていたのかもしれない。


 俺のあまりの反応に驚いたようで、「え? そんなに痛いの?」と夏は困惑するばかりで下着姿のまま一向に動こうとしない。


「大丈夫? そんなに痛かった?」

「いてえよ! 殺す気かよ!」

「え、ごめん、そんな痛がるとは思ってなかった……」

「てか服着ろよ!」


 そこでやっと、自分がまだ下着姿だったことに気が付いたようで、夏が恥ずかしそうに焦り始めた。


「ちょ、出てってよ!」

「立てねえよ! 殴る前に言えよそれ! 着替えてから殴ってくれよ! もう! あーやばい痛い痛い!」

「うるさい! さっさと出てってこのバカ!」


 身動きできない俺に一切配慮しない鉄槌が背中を襲う。


 とりあえず部屋から出ないと危険だ。下手したらもう一度同じところを襲撃されるかもしれない。


 股間を押さえたまま、芋虫のように地面を這う。無様だが、そんなのいちいち気にしていられない。

 背中を何回か蹴られながらも、なんとか夏の部屋から脱出した。



 廊下に転がったまま、痛みを分散させようと、肩で呼吸をする。汗が床に垂れている。暑さとは違う意味で汗が噴き出ているようだ。


 とりあえず呼吸だ。呼吸をして、なんとか興奮を落ち着かせなければ。


 ヒッヒッフー、ヒッヒッフー。


 何かに似ている気がする。


 意識的に呼吸をしていたが、どこかで聞いたことがある気がするリズムだ。


 ヒッヒッフー、ヒッヒッフー。


 不意に保健の授業で見せられた映像が蘇ってきた。


 出産時の妊婦の姿。分娩台に乗り、必死に新たな命との出会いを待ち構えている、その緊迫感。



 なんだか変な意味で泣きそうになってきた。


 そういえば無事だろうか。潰れていないか? 確認したくても痛くてできない。それに本当に潰れていたらと思うと、怖くて見られない。


 最悪だ。夢ならさっさと覚めてほしいが、この痛みが夢な訳がない。


「お前……何してんの?」


 唐突に降ってきた、低い男の声。


 顔を上げると、早人が階段で立っていた。

 右足だけ二階に到達したまま、驚いて固まっている。宇宙人でも見たような、なんとも言えない表情だ。


 弟が廊下で股間を押さえながら妊婦の呼吸で床に這っているのを見たらそりゃあ誰だって固まるに決まっている。


「な、なんかあったのか? 大丈夫か?」


 早人は一応心配してくれているが、床で股間を押さえて深呼吸しているという俺の奇怪な行動に明らかにドン引きしている。近付いていいのか迷っているみたいで、右足を出したり引いたりしながらなかなか二階に上がろうとしない。


 それでもなんとか早人に助けを求めようと腕を伸ばしたその時、部屋のドアが豪快に開いた。早人の視線がすぐにそちらに向いた。


「あれ? お兄ちゃん?」

「お、お前ら……な、何があったんだ?」


 夏はティーシャツに短パンを履いていた。肉食動物が喜んで飛びかかってきそうな肉付きをした太い脚が、これでもかというほど見えている。


 そんな夏は、未だに床に這いつくばっている俺に申し訳ない顔をして謝罪するどころか、チッと舌打ちしやがった。



 やっぱり、俺はバカだ。



 男の股間を豪快に蹴り上げるような猛獣に惹かれるなんて、本当に気が狂ってるとしか思えない。


 これが錯覚なら、もういい加減覚めてくれればいいのに。

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