1・3③ They are raining
ペンの音だけが響く。
今夜は珍しくカエルの合唱が聞こえない。いつも近くの田んぼから嫌になるほど鳴っているのに。
昼はセミ、夜はカエルと田舎の夏は騒がしいものだ。カエルの合唱が始まらない今のうちに宿題を進めたい。
なのに、いつもなら気付きもしなかった時計の秒針の音が妙に気になった。カエルの大合唱がいつも消してくれていた僅かな音だが、部屋が変に静かだと逆にその微かな音が悪目立ちする。電池を引っこ抜いてしまおうかという考えが一瞬過ったほど。
仕方ない。
イヤホンを手に取り、MDウォークマンに黄色のディスクを入れた。
黄色はレッチリ。レッチリと言っても、そう呼ぶのは日本くらいで正式にはRHCPと呼んだほうがいいのかもしれない。
洋楽を知らない人でも『デスノート』の主題歌を歌っていると伝えると大体分かってもらえる。
俺からしたらどうして『デスノート』の主題歌に『Dani California』を起用したのかよく分からないが、まあ少しでも彼らの音楽を多くの人に聞いてもらえるのならそれはそれでいい。
再生ボタンを押すと、聞き慣れた激しい音がイヤホンから流れ込んできた。
Red Hot Chili Peppers、俺が好きなアーティストの一つだ。
「一つ」というのは、俺は夏のように一点集中型人間ではなく広く浅く好きになるタイプだからだ。「洋楽が好き」とぼんやりとした好みがあるだけで、何か一つのアーティストに特別熱中することはない。
そもそも洋楽が好きなのも洋画が好きだからで、洋画が好きになったのは『フォレスト・ガンプ』がきっかけだ。
人生で初めて『フォレスト・ガンプ』を見たのは小6の時。
たまたまレンタルビデオで借りたのだが、鑑賞後、感動のあまり涙が止まらなくなった。
今までの人生観がひっくり返るような、常識と信じていたものが総崩れするような。
人生の計り知れないほどの可能性と希望をこれでもかと感じさせられるとともに、自分の型にはまっただけの平凡な生活が底なしに退屈に思えてならなかった。
タコ足配線のように入り組んだ感情がどうしても抑えることができず、ばあちゃんが心配するほど泣き腫らし、そのまま嗚咽しながら風呂に入ったのを今でも覚えている。
『フォレスト・ガンプ』が俺に与えた影響は大きく、フォレストが3年2か月14日16時間のランニングを終えたモニュメント・バレーの163 Scenicにいつか行こうと小学生ながら漠然と思ったほどだ。
俺にとってこの作品は、財産であり指針であり、曇った心の洗浄剤なのだ。
「……だ? これは……なの、か? ってことは……か? いや……」
突然聞こえてきた呪文のような何か。
てっきり話しかけられたのかと思ったけど、声があまりにも小さすぎるせいで何を言っているのかサッパリ分からなかった。それに俺が無言でも一方的に言い続けていることから多分独り言だ。
話しかけられたわけでもないし、変に反応しないほうがいいと思い、とりあえず無視を決め込んだ。
それなのに、勇人は10分ほどぶつぶつ何かを言うのを止めなかった。まるで恨み言でも吐き出しているように声が細々としていて、なんだか背筋が寒くなってきてしまう。声のトーンが呪詛を唱えているようでとにかく不気味だ。
さすがにそんなにずっと独り言を言われてしまうと集中できない。早く宿題を終わらせたいのに、全然進まなくなってしまった。
何を言っているのか気になる。
俺は勇人に気付かれないようにゆっくりと椅子を引き、勇人の独り言が聞こえる程度の距離に移動した。
「これはなんで違うんだ? なんで間違いなんだ? 意味が分からん……。解説も分かんねぇ」
どうやら問題が分からなくて困っているようだ。
それにしても思っていることをここまではっきりと独り言を喋るなんて変なやつだ。受験の時どうするんだ? 分からない問題があったらこんな風に毎回呟くつもりなのか?
というか、こんな独り言を言いたくなるくらい一体何を間違っているんだろう。どんな間違いをしたのだろう。
部屋は二段ベッドが中央にあるため、お互いの机に行くには下段のベッドの上を通る近道か、入口の方まで戻って相手の机の方に行くという遠回りの二択しかない。
遠回りは面倒だ。
ゆっくりとベッドの上を這い、勇人の背後に回ることにした。勇人は音楽を聴いているせいで、俺の動きに全く気付いていないようだ。
ベッドから降りそっとノートを覗くと、英語の問題集を解いているのが見えた。だが赤ペンだらけで、ほぼ間違っている。
『They are raining.』
『Did you ate dinner ?』
ハッキリ言って重症だ。
中3にもなって英語の基礎を何も分かっていない。3年間何をしていたのだろう。さっきから、こんなくだらないことでブツブツ言っていたのか。集中力を散漫させた時間を返してほしい。
「『They are raining』ってなんだよ!」
バレないようにしていたのに、頓珍漢な回答に思わず言ってしまった。当然背後から俺の声がしたせいか、勇人は飛びあがるほど驚いていた。
「な、なんだよ! 驚かせんなよ! てか勝手にノート見るなよ!」
「いやだって、ぶつぶつなんか言ってるから気になって。というかなんだその解答。やばすぎだろ」
見れば見るほど味のある解答。勇人には悪いが、笑いが止まらない。
「仕方ないだろ! 分からねえんだから!」
「でもさすがに『They are raining』はひどすぎる」
「何がダメなんだよ! 雨だろ? 沢山降ってるからTheyでいいだろ! なんでItなんだよ! 意味わかんねえ!」
幼稚園児みたいなかわいい発想だ。ヘキサゴンの珍解答をリアルで見ている気分。上地雄輔といい勝負かもしれない。
何も考えずに手を叩いて笑ってしまったが、勇人は相当恥ずかしかったようで顔を真っ赤にしている。
今更成績の悪さを隠す必要もない気がするが、それでもプライドが傷ついたのか、悔しそうだ。
「頭のいい早人には分からないんだよ! バカはバカなりに苦労してんだ!」
「ごめんごめん。でも分からないんだったら教えてやろうか?」
「いい! お前には頼らない!」
「本当に?」
「人のノートを勝手に見るようなやつには頼らない! バカにしやがって! 絶対許さねえ!」
「悪かったよ。許してくれよ」
「無理! 人の苦労を笑うやつには頼らねえ!」
「だからごめんって。教えてやるから機嫌直せよ」
「いいよ! 自力でやるから! 早人だって今回のテスト大丈夫なのか?」
「俺? まあどうでもいいかな。何位でもいいや」
「なんだそれ! どうせ勉強しなくても点取れるから余裕なんだろ! 毎回毎回上位になりやがって! ムカつく!」
「そんなことないよ。最近バイトばっかで全然勉強してないし」
「うるせえ! じゃあ最下位になってみろよ! 最下位になったら早人のこと許すよ」
「じゃあ許してくれなくていいよ」
「……もう知らねえ!」
勇人はすっかり機嫌を悪くしてしまった。
どんなに拗ねたって、どうせしばらくしたら俺に泣きつくに決まっている。
出題範囲の広さと、学年最下位の危機がチラつき始めたタイミングで必ず俺に助けを求めてくる、勇人お決まりのパターンだ。
今回も勇人はきっと俺に「英語を教えてくれ!」とでも言ってくるんだろう。まあ毎回毎回、理解度がひどすぎて俺もお手上げのパターンが多いのだけれども。
――2005年7月――
「なあ早人お! さっきは悪かったってえ! 頼むから数学教えてくれよお! 全然わかんねえんだよお! 明日なんだよテスト!」
「お前なあ! 何で正の数と負の数の違いも知らないんだよ! 授業中なにしてたんだ? テスト前日にこれじゃあ俺も無理! 助けられない!」
「それをなんとか! 助けてくれよお!」
「そんなレベルでテスト前日に泣きつかれても困る!」
「早人お! 見捨てないでくれよお!」
――2005年10月――
「早人お願いします! 古典を教えてください! 弟を助けるつもりで! どうか! 助けてください!」
「じゃあこの動詞と助詞の活用の問題解いてみて」
「……活用? 活用ってどういうこと? どうすればいいんだ? うまく工夫するってこと?」
「そっちの活用じゃない。未然連用終止連体已然命令の形にしろって言ってんの。習っただろ?」
「……今なんて言ったんだ? お経か? 中国語か?」
「お前本当に学校行ってるのか!?」
――2006年7月――
「早人! おかしいんだよ!」
「何が?」
「理科の解説が間違ってるんだよ! 出版社に問い合わせるべきじゃないか?」
「え? どういうこと?」
「『2H₂O→2H₂+O₂』って書いてあるんだ! おかしい!」
「なにがおかしいんだよ」
「は? だってなんで2H₂Oが2H₂とO₂なんだよ! 普通2H₂とOだろ! 絶対印刷ミスだ!」
「……え、え? お前そもそもO₂って何か分かってる?」
「え? 英語のOが2個ってことじゃないの?」
♢
「今回は絶対頼らないからな!」
「あっそう。まあ、もし分からなければ言えよ」
「言わねえよ!」
俺には分かる。勇人が音を上げるまで多分3日もかからない。
そもそもどうして兄弟でここまで違うのか本当に不思議だ。同じ家で同じものを食べて育ってきているはずなのに、共通点が少なすぎる。
正反対の兄弟。
なんだかマンガの『タッチ』みたいで面白いと思ったのだが、勇人は『タッチ』に例えられるのがどうも嫌らしい。「『タッチ』みたいって言うな!」と必ず怒られる。
どうして勇人は「『タッチ』みたい」と言われるのが嫌なのだろう。さっぱり分からない。
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