1・3① マヌケと言われる所以
――2007年7月――
キャベツの千切りを続けていると、時々自分が何をしているのか分からなくなる。
包丁を動かすたびにどんどん削れていく黄緑色の物体。何分も何十分もひたすらキャベツを切っているうちに、目の錯覚のようにキャベツが何か別の物のように見えてくる。
そもそも黄緑色のこれは本当にキャベツなのか? 本当に食べられるのか? というか、これって何のために切ってるんだ? あれ、そういえばキャベツってなんなんだろう……。
似た現象を昔『トリビアの泉』で見た気がする。確かゲシュタルト崩壊だったか。
そんなこと正直どうでもいいのだけど、何か考え事でもしないと頭がおかしくなりそうで、ついついこんなことを考えてしまう。
ただ暑いだけの厨房でひたすら同じ作業をし続けると、意識していなくても勝手に脳みそが空想を始めたり考察し始めたりするようだ。
すごくどうでもいいことばかり思い浮かんでは、消えていく。その繰り返し。
それにしても『トリビアの泉』、面白かったな。なんで終わっちゃったんだろう。復活すればいいのに。そしたら本気で金の脳を狙ってやるのに。
「4番テーブルアジフライ定食とニラレバ定食です!」
「あいよー!」
パートさんの声に、揚げ物をしていたテツさんがすぐに応える。厨房の暑さのせいか、テツさんがいつもより気が短くなっているように感じる。
そういえばニラレバとレバニラの違いは何だろう。
どっちでもいいのか、ちゃんとした決まりがあるのか。もしかして、ニラとレバーの比率の問題なのかも。
「3番テーブルキャベツおかわりです!!」
キャベツのおかわり?
こういう時はすぐに返事をするべきなのだが、余計なことを考えていたせいで反応が遅れてしまった。すると案の定、「おい早人! 早く!」とテツさんが急かしてきた。
「は、はい!」
土曜日の昼が一番のピークだ。
どんなに食器を洗っても、野菜を切っても、いつのまにか魔法のように消えていく。一体どこから湧いてきたんだ? と思うほど、どこからともなく人が次々とやってくる。
うちの店以外にも飲食店なんていくらでもあるのに、特別低価格でもない、昼前からひっきりなしに混雑しているこの店に、入れ替わるように人はやってくる。いたちごっこだ。
でもそれは多分、みんなテツさんの味が好きだからなのだろう。
手元に用意してあるザルにキャベツをたんまり乗せ、そのままフロアに行こうとした時、テツさんに引き止められた。
「おいトングは。素手で出す気か」
「あ……そうだ」
「相変わらずボケっとしてんなぁ。頼むよ」
棚に置いてあるトングを手に取り、今度こそフロアに向かう。3番テーブルは店の右側、奥から2番目の席だ。
席では大学生らしきカップルが、仲良く生姜焼き定食を食べていた。女性客はキャベツにほとんど手を付けていないが、男性客はキャベツどころか料理の大半を食べ終えている。
「お待たせいたしました」
男性客の皿に適量キャベツを添えると、男性客が見計らったように「あの、ごはんもおかわり良いですか?」と尋ねてきた。控えめで、少し恥ずかしそうに言う姿がなんだか微笑ましい。
「はい。お持ちしますね」
男性客からお椀を預かり厨房に戻ると、テツさんがフライパンを片手で豪快に動かしながら何かを炒めていた。
「ニラレバですか?」
「そうだよ」
集中しているのか、一切こちらを見ずにテツさんは答えた。
「ニラレバとレバニラの違いってなんなんだろう」
「は? 聞こえねぇよ! なんて言った!?」
うわ、大したことじゃないのに、ただの独り言だったのに、大袈裟に反応されてしまった。
「あ、いや、ニラレバとレバニラの違いって何なんだろうって思って……。テツさん知ってますか?」
カシャカシャとテツさん中華鍋を振り回すテツさん。そのまま茶色い謎のソースを加えると、白い蒸気とともに香ばしい匂いが一気に充満した。
「バカボンのパパだよ」
「へ?」
「だから、バカボンのパパ! バカボンの世界では太陽は西から昇るだろ? それと同じで、バカボンのパパが『ニラレバ』を『レバニラ』って言ったのがきっかけ。それが全国に広まって、定着したわけだ。本来は『ニラレバ』が正しい₁」
「……へぇ」
思わず心の中でへぇ~ボタンを連打していた。
へぇへぇへぇへぇへぇへぇ。
『トリビアの泉』が復活したら投稿してみようか。80へぇくらいはもらえるかもしれない。
ジャーを開けご飯をよそう。ホカホカの白い米粒が、宝石のように輝いて見えた。早くまかない食べたいな……。
「なにしてる」
「え?」
先ほどまで俺を視界にも入れなかったのに、狂いのない手裁きでニラレバを炒めながら俺を凝視しているテツさん。あまりの視線に、身構えてしまった。
「ごはんのおかわりです、けど」
「先月からごはんのおかわりは有料になったの忘れてないよな? お客様に伝えたよな?」
瞬時に、先月テツさんから「来月からごはんのおかわり無料は無しになったから気を付けろ」と言われたのを思い出した。すっかり忘れていた。
「……あ、そうだ」
テツさんは俺を呆れ顔で俺を見つめながら、炒め続けている。
よく目を離しながら炒められるなと思っていると、油と野菜が激しくぶつかり合い、もやしが少しだけフライパンから零れ落ちた。
「7番テーブル、とんかつ定食とサバ定食です!」
パートの野口さんの声。テツさんは野口さんを一瞥し、すぐに俺の方を向いた。
「とりあえず今回は無料でいいから、お前はもう千切りしてろ」
「……はい」
またやってしまった。どうして俺はいつもこうなんだろう。
急いで男性客にごはんを渡し、厨房に戻ると、テツさんはもうカツを揚げていていた。
油が衣を炙る、豪雨のような激しい音。俺はそれを、キャベツを洗いながらただただ眺めていた。
♢
バイトから帰るころにはすっかり夕方になっていた。シフトは3時までのはずだったのに、テツさんから大量のまかないをほぼ強制的に食べさせられ、こんな時間になってしまったようだ。
テツさんは俺が小食なのを知っているくせに、下手な大食漢も食べられないほどのまかないを食べさせてくる。もちろん完食できるわけもなく、家に持ち帰って家族で食べるか、夏にあげるかの二択だ。
「お兄ちゃん今日は大丈夫だった?」
勇人を呼びに来た俺に、夏は早々そんなことを尋ねてきた。
「何が?」
「テツさんに怒られたりしてない? お兄ちゃんマヌケだからへましてないか心配」
マヌケ、か……。
夏のその言葉に苦笑いしかできなかった。
天然、アホ、マヌケ、のろま、純粋と馬鹿の間、能無し、ボンクラ……。こんな言葉たちを、夏たちから何回言われたかもう分からない。
授業で使った水着を持って帰るのを一週間忘れてしまい、発見した頃にはカビだらけで目も当てられない状態だった時。
水筒にコーラを入れようとした時。
財布を無くしたから助けてくれという大学生を素直に信じ、1万円を貸した時。
そして明日必ず返すという彼の言葉を真に受け、翌日3時間くらい駅前で待ち続けた時。
思い出そうと思えばいくらでも挙げられる。すべて俺が悪いのだけれど、いざ言われるとやっぱり悲しくなる。
最近なんて、「卵6個買ってきて」というばあちゃんの指示を受け、買い物から帰ると勇人が膝から崩れ落ちてしまったことがあった。
「早人、いいか? ちゃんと聞けよ? 卵6個買って来いって言われたら、6個入りの卵を1パック買えばいいんだよ! なんで10個入りの卵を6パックも買うんだよ! 全部で60個だぞ! 俺らは業者か? 4人暮らしなのに60個とか、一日に何個食えばいいんだよ!」
そう怒られてしまったのを覚えている。
夏は呼吸困難になるか心配になるほど大笑いして、「バカじゃないの!」と俺の背中をバンバン叩いてきた。それでも最後には、「仕方ないから半分貰ってあげる」と言ってくれた。
結果、夏の家に卵30個譲ったのだが、それでも冷蔵庫には、その時買った卵がまだ14個くらい残っている。
「お兄ちゃん今日はちゃんと靴下履いた? また裸足のままスニーカー履いてないでしょうね」
「今日は履いたよ。俺を何だと思ってんだよ」
「マヌケ」
失礼なやつだ。年上に対する敬意が微塵もない。夏は昔からこんな感じだったから慣れてしまったが、友達にも同じような態度なのだろうか。
「ずっとウッドデッキにいられても蚊が入るから、いっそ入れ」
「あ、はい」
おじさんに言われて靴をウッドデッキで脱ぎ、リビングに上がった途端、「ほらマヌケじゃん」と夏が勝ち誇ったように言った。
「え?」
夏の視線が俺の足元に向けられている。
つられて下を見ると、右が白、左が紺の二色展開になっていた。白の方にはナイキ、紺の方にはアディダスとプリントされており、しかも紺の方は穴が開いていて、親指が顔を出している。
「……靴を履いちゃえばどうせ見えないからさ」
「そういう問題じゃないでしょ! もっとちゃんとしなさいよ! 何をどうしたらこんな真逆な色の靴下を履いてくるの!? それにいい加減穴の開いた靴下履くのもやめなよ!」
「ごめんなさい」
素直に謝罪したけれど、夏の目は細いままだ。
「やっぱお兄ちゃんは私がいないと靴下も選べないのね。呆れる。ほんとに学年トップ?」
「前回はトップじゃないよ。4番目だった」
「うるさい! いちいち細かいんだよ!」
ドスッと鈍い音がしたと思ったら、夏が腹を殴ってきたのに気が付いた。思わず「うはっ」と息が零れる。
「痛いなあ。いちいち殴るなよお」
「うるさい!」
むすっとする夏の口が、なんか白い。いままで気が付かなかったけど、クリームのように見える。なんで口が白いんだ? シチューにしては色が変だし、牛乳でもなさそうだ。
夏の口に手を近付けると夏は「なに」と一瞬嫌がる素振りを見せたが、「動かないで」と言うと意外と素直に従ってくれた。
親指で拭うとするっとそれは取れた。夏も口が白くなっていたのは気が付いていなかったようで、俺の親指を凝視している。「何これ?」と聞くと、夏が何かを言おうと口を開けた。その時だ。
「バニラアイスだよ」
男の声だった。振り向くと勇人がカバンを持ってドアの前に立っていた。なんだか表情が暗い。
「バニラアイス食べたの?」
「そう。さっきまで食べてたの。お兄ちゃんの分も冷凍庫にあるよ」
「俺のもバニラ?」
「そうだよ」
そんな話をしていると、勇人は遮るように「早人、帰ろう」と玄関に向かっていた。なんか、不機嫌そうだ。夏と喧嘩でもしたのだろうか。
「あ、うん。夏また明日な」
勇人の背中を追うように玄関へ向かうと、もう勇人は靴を履き始めていた。
俺の足音を聞いたのか、勇人がゆっくりとこちらを向く。俺の存在に気付くと、勇人は肩で溜息を吐いた。
「なぁ早人」
「なに?」
「やっぱ俺心配だよ。早人が将来ちゃんと生きていけるのか心配」
「なんで?」
勇人は顔だけではなく、上半身ごと身を乗り出すようにしてこちらを向いた。
「どっから来たんだ? 玄関から入ったのか? 記憶喪失か? 靴どこで脱いだのかもう忘れたのか?」
夏の家の玄関。
サンダルやローファー、白いスニーカー、更には流行りのクロックスも散乱している。でも、その中に俺の履いてきた靴はない。
当然だ。俺は玄関から入っていないのだから。
「……あ、そっか」
俺のマヌケな反応で、勇人は項垂れてしまった。
…………………
₁諸説あるみたいです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます