1・2④ 1996年のキス
――2007年7月――
外が暗くなり始めた。
夕暮れの涼しさの中、俺たちはきゅうりのぬか漬けを食べながらテレビを見ていた。
画面では去年の甲子園のダイジェスト映像が流れ、おじさんがそのたびに一喜一憂している。一人寸劇でもしているのかと思うほど情緒が激しい。その姿はSMAPのコンサート映像を見るたび荒れ狂っている夏を連想させた。
夏は多分おじさんに似たのだ。
「去年はよかったなぁ! あんなに盛り上がる試合はなかなかなかった! 松坂の時以来かもな! 普段甲子園を見ないやつでも、みんな釘付けだっただろ? あの盛り上がり方は異常だったなぁ。今年はどうなるんだろうな!」
きゅうりを
「ハンカチ王子だっけ? イケメンだったよね」
夏も同じようにきゅうりに手を伸ばす。用意されている爪楊枝を無視して、そのまま人差し指と親指で掴み、パクリと食べた。夏の口から、きゅうりが噛み砕かれているのがよく分かるほどの綺麗な咀嚼音が聞こえてくる。
きゅうりを摘まんだその手はどこへ?
目で追うと、夏は人差し指と親指を軽く舐め、服の裾でさっと拭いていた。
「お前さぁ、顔じゃなくてプレーを見ろよ。野球は顔じゃないだろ。プレーが重要なんだよ」
「ハンカチ王子」。去年流行した言葉だ。
早稲田実業の3年、斎藤佑樹がハンカチで顔を拭いたことでその名が広まった。高校球児が顔を拭いただけで世間が大騒ぎするなんて、日本がどれだけ平和だったのかがよく分かる。
そんな、ハンカチ一つで散々メディアが騒いだ甲子園からもう1年。そんなたったの1年で「ハニカミ王子」なんていう新たな王子も日本に誕生している。
確かに石川遼の笑顔は爽やかだが、世間は「王子」といえば何でもいいと思っているのだろうか。そんなに王子が好きなら、いっそ王室でも作ってしまえ。
「いちいちうるさいなぁ! こっちはあんたらが甲子園見たさにテレビ独占してるの許してやってたんだから、ケチ付けないでよ。興味ないものを無理やり見せられてるこっちの気にもなって」
「……そのセリフ、そっくりそのままお返ししてやるよ」
リビングでSMAPの番組やDVDを半狂乱で何時間も視聴しているのは、朝から晩までSMAPの曲を流しながら一人カラオケを部屋でしているのは、どこのどいつだと思っているんだろう。
今度また同じようなことが起きたら、姿見でも持ってきてやろう。ブラウン管の前で荒れ狂う己の姿に驚愕すればいい。
おじさんはいつの間にかキッチンからビールを持ってきていたようで、缶ビール片手に赤くなっていた。ほろ酔いで心地良くなったのか、おじさんはソファには座らず、先ほど俺がアイスを食べていた場所に座った。アルコール特有の鼻につく刺激臭が漂う。
「なぁ勇人、今度久々にキャッチボールやるか?」
「嫌だよ。暑いし、肩弱くなったし」
「なんだよ。昔はよくやってただろ」
「昔はね。今は陸上だから。……陸上ももうとっくに引退したけど」
「はぁ、悲しいなぁ。成長するとこうやってどんどん親元から離れていくんだな。お前らなんて、ついこの間までこーんなにちっちゃかったのに。勇人なんて毎週少年野球で練習してただろ? なんで中学になって陸上なんだよ。俺はてっきり野球を続けると思ってたのに」
おじさんは床から100センチくらいのところで手の平をひらひらさせた。俺がそれくらいの身長だったのは何年前なんだろう。
少なくともその時から70センチ以上は伸び、おじさんよりもデカくなってしまった。成長期の男というものは、本人も驚くほど背が伸びる。ついこの前まで着られていたお気に入りの服が、突然入らなくなってしまうほど。
「昔は素直で純粋で可愛かったのに、いつの間にこんな親に逆らう生意気で凶暴な子になっちまったんだろうなぁ」
真っ赤な顔をしたおじさんの視線が、夏に向けられた。
あれ、記憶違いか? 夏に純粋で可愛らしい時期ってあったのか? パラレルワールドの話だろうか。
するとおじさんの視線に気づいたのか、夏が眉をひそめた。
「それってもしかして私のこと? 生意気で凶暴な子って」
「お? 自覚あるのか。そうだよお前だよ。よく食うし手も出るし、口も悪くなりやがって。誰に似たんだか!」
「はあ!? 子は親に似るんだよ! てめえに似たんだ! 恨むなら自分を恨め!」
「なんだと!? お前ちょっとこっちに来い!」
「きゃあああ! ちょ、髪引っ張らないでよ! 虐待だ! 虐待! 勇人! 通報して! おかーさあああん!」
また始まった。
おじさんが夏の髪を鷲掴みにして振り回し始めた。夏も反抗して、おじさんの肩を殴って逃げようとしている。親が親なら子も子だ。
もらい事故を避けるためキッチンへ逃げると、おばさんがちょうど味噌を鍋に入れ、箸で溶き始めたところだった。
「あれ? 勇ちゃんどうしたの? また何かつまみ食いしに来たの?」
「違うよ。夏とおじさんが暴れてるから逃げてきた」
「あー……。あの二人、またやってるの?」
「うん。呆れるよ、ほんと」
鍋のお湯が、徐々に透明から味噌の深みのある色に変わっていく。味噌を溶く箸の動きに合わせて具材たちが渦巻きに回る。
「そろそろ家帰るわ。あいつも帰ってくるし」
「え? あの子また今日もバイトしてるの?」
「そうなんだよ。週末はいつもバイトしてんだよ」
「頑張るねぇ」
「ほんとだよな」
冷蔵庫から麦茶を取り、容器に口を付けないよう気を付けながらそのまま飲む。そうやって俺が麦茶を飲んでいる間にも、二人の乱闘は続いていた。乱れた髪を振り回しながらおじさんと互角にやりあう夏が、闘牛と重なって見えた。
「バカだなぁ……」
11年前、人生初の告白をあっさりと断られた俺は、鼻水を垂らしながら暴れ回った。そう、今の夏のように。
母さんは夏に抱きついて離れない俺を無理やり引き剥がそうとしたが、俺はその手を全力で振り払ってしまった。そして夏に抱きつくと、無抵抗の夏に、強引にキスをしたのだ。もちろん、口に。
たった数秒間のことだ。2秒もなかったかもしれない。すぐさま俺は母さんに首根っこを掴まれ、家に強制連行された。急にキスをされた夏といえば、驚きのあまり大泣きしてしまっていた。
本当に忌々しい記憶だ。
「このクソジジイ! 放せよこの野郎! 腕へし折ってやる!」
「ああ! やれるもんならやったらどうだ!」
俺が4歳という幼い年齢で自分の気持ちに気付いたのは、ある出来事が原因だ。
すべては、あいつのせいだ。あいつがいなければ、俺は今でも自分の気持ちに気付かなかったかもしれないし、そもそも焦って4歳でプロポーズやキスをすることは絶対になかった。
カンッカンッ。
窓に小石をぶつけたようなノック音。その音で、夏とおじさんは無意味な乱闘を止めた。
窓をわざわざノックするのは一人しかいない。キッチンから確認すると、予想通りやつが来ていた。
「勇人、帰るぞー? 夜ご飯できたから帰って来いってばあちゃんが呼んでる」
そう言ってウッドデッキの方から窓を開けて顔を出してきた。玄関というものを知らないのか、こいつは結構な頻度でウッドデッキの方から家に入ってくる。
「あ! お兄ちゃんもう帰って来たの? アイスあるから食べなよ!」
夏がすぐさま窓に駆け寄った。尻尾のようにちょんまげが揺れる。
「いや、まかない食べてきて腹いっぱいだから今度食べる。夏、俺の分を勝手に食うなよ?」
やつが、歯茎が見えるほど口角が上がった笑顔を見せるのは夏だけだ。
本人は自覚がないだろうが、傍から見ればすぐ分かる。男というのは基本単純で、表情を見ればある程度心が読めてしまう。
ポーカーフェイスができないこいつは、特に分かりやすい。
「勇人、帰るぞ」
「分かったよ行くよ。荷物取ってくるからちょっと待って」
疲れた顔が、俺を見て穏やかに微笑む。黒いTシャツにジーパンと、相変わらず地味な格好だ。
鏡を見ないこいつは、いつも髪が起きた時のままで、寝癖が一切直っていない。寝癖があることすら気が付いていないかもしれない。
「おー
「はい。今日は3時までだったんです。まかない食べてたらこんな時間になっちゃいましたけど」
「テスト期間なのにバイト行く余裕があるの、お兄ちゃんくらいなんじゃない? 明日もバイトでしょ? 信じらんない」
リビングを出ても、三人の会話が聞こえてくる。
蒸し暑い階段を上り、夏の部屋に着くと、散乱した英和辞書や日本史のノートがそのままになっていた。
11年前、この部屋で俺は自分の気持ちを自覚した。正しくは自覚させられた。
1996年のある日、俺たちはこの部屋で遊んでいた。しかし俺がトイレで部屋を離れた隙に、事件が起きたのだ。
トイレから戻ると、二人はベッドがある東側の場所にいた。それも、ただ二人が隣で座っていたわけではない。俺が部屋に入ると同時だったのか、それともずっと前からなのか分からない。
その時確かに、あいつが夏にキスしていたのだ。
キスされた夏は目をパチクリさせていて、状況を飲み込めていないようだった。
4歳だった俺の中に、キスというものを初めて見たことによるショックだっただけではない別の感情が体に走っていた。電流のような、見てはいけないものを見てしまったような、怒りにも近い感情。
初めての感覚にどうしたらいいか分からず戸惑ったのか、見た光景がショックだったのか、俺は声の限りを尽くして号泣し、無理やり二人を引き剥がしていた。
夏をとられたくない。
そんな感情に4歳ながら支配されていたのだ。俺の錯覚はこの日から始まった気がする。
俺のもう一つの誤算。
それは、早人も、……俺の兄貴も、猛獣に惚れているということだ。ずっとずっと昔から。
俺と同じように。
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