1・2③ 4歳と5歳と平成と
――1996年8月――
「そうよ……みー! あいが……ってるー!」
白いミニスカートにロングヘアーにロングブーツ。そんな格好で平然と激しいダンスを踊る安室奈美恵。
それを映すブラウン管の前で、見様見真似で手足をばたつかせ、歌詞も曖昧なまま聞こえてきた単語をとにかく発する夏。
ただそれをじっと眺めている俺。
この日も確か、ものすごく暑い日だった。
西暦1996年、和暦平成8年。
女子高生がルーズソックスを履き、シノラーが大量発生し、アムラーという言葉が流行語になったという文化の大渋滞が起きたこの年。幸か不幸か、平成初期に生まれた俺たちは出会った。
俺の住んでいる家は母さんの実家であり、ばあちゃんが今は亡きじいちゃんと昭和中期に建てたものだ。二階建ての木造建築なのだが、昔ならではの質素な家で、二階に至っては少し広い部屋がたった一つあるだけ。
そんな俺の家のすぐ隣、窓から会話できそうなくらいの距離に夏の家はあった。「夏」というのは呼び名であり、本来の名前は
夏と初めて会ったのは東京からばあちゃんの家に引っ越してきた春のこと。
「ずっと、まってたんだよ!」
越してきた俺たちを見るなり、なぜか夏はそう言った。
驚きで戸惑うことしかできなかったが、夏がそんなことを言ったのは、子どもの少ない田舎で年の近い友達ができることが嬉しかったからなのかもしれない。
とにかくその日から俺の隣にはずっと夏がいて、毎日のように一緒に過ごしていた。
キャンプをしたり、旅行に行ったり、動物園や水族館へ行ったり。よく夏の家に遊びに行ったし、夏も俺の家によく来ていた。
夏と集めたダンゴムシを、衣替えの時期をそっと待っていた衣服が眠るタンスに入れてしまい、信じられないほど母さんに叱られた。
夏とどんぐりを大量に持ち帰ってしまい、次の日両家のリビングが幼虫だらけになったという大惨事を起こした。
雨の日に強引にビニールプールで水遊びをして、夏も俺も風邪を引いた。
母さんが夜勤で家にいないときに夏の家に泊まり、夜遅くまでセーラームーンやドラゴンボールを鑑賞した。
それだけ同じ時間を共有した俺たちは、家族と言っても過言ではなかった。母さんやばあちゃんと同じくらい、もしかしたらそれ以上に夏たち家族と一緒に過ごしてきた。
「よっしゃあ勇人! 絶対1位になるぞお!」
運動会。
仕事で急に来られなくなった母さんの代わりに、親子競技に出てくれたのがおじさんだった。騎馬戦だったが、俺の何倍も本気になっていたのを覚えている。
それに、今まで父親がいないことをバカにしていたクラスメイトたちが、あまりにも騎馬戦に適した逞しい体格のおじさんを見て「いいなあ」と呟いたのが嬉しくて、それだけで何かに勝ったような気がしてしまった。
「ゆうとお! ファイトおおお!」
少年野球の試合。
足が悪いばあちゃんの代わりに、試合の応援に来てくれたのが夏だった。
俺が打席に立った瞬間から全力で夏は応援していて、どの保護者にも負けない勢いだった。あまりの夏の威勢に、周りから「あのうるさい人お前の姉ちゃんか?」と聞かれる始末だった。
俺よりも汗を流し激しく動く夏に、俺はバットを振るその瞬間まで笑うのを必死に堪えていた。
みんなで一つの家族。それくらい俺たちは何よりも距離が近い存在だったのだ。
揺れる車内。瞼を焼く夕日の眩しさで、ふと目を覚ます。
痛む首を動かした先に見える、運転席のおじさんの後ろ姿。
隣で寝ている夏の髪に微かに残っていた塩素の匂いが、みんなで行ったプールの記憶を鮮明にさせる。
それに安心し、もう一度瞼を閉じる。
そんな日々が俺の全てで、俺の幼少期で、俺の幸せだった。
幼馴染。
たった一言で説明ができる俺たちの関係。
まるでマンガ『タッチ』のような、ドラマが始まりそうな環境。ただでさえ異性の幼馴染がいるというのは大層羨ましがられる身分だろう。
それでも実際に俺を羨む男など一人もいない。むしろ俺は周囲から不憫な目で見られている。
というのも、夏は浅倉南というより北斗晶だからだ。
「痛い痛い! 夏! やめろ!」
「うるせえ! 私のお菓子勝手に食べやがって! 絶対許さない!」
こんな調子で、俺はほぼ毎日怒られ殴られ髪を引っ張られていた。
暴力的で横暴で自己中心的。男よりも力があって、じゃじゃ馬で、よく食ってよく寝る番長気質。特にかわいいわけでもなく、男にモテる要素は何一つ持っていない。
恐らくあだち充作品のヒロイン像とは最も遠いタイプ。それが夏だった。
1996年、俺はまだ4歳だった。
4歳といっても話せる言葉は限られているし、記憶は断片的で、大半は忘れてしまってもう思い出せない。
それでも夏が好きだという感情が俺の大部分を占めていた。きっと幼すぎて判断能力がバグっていたのだろう。
「おれ、なつとけっこんする!」
毎日のようにこんなことを言っていた。恥ずかしいったらないが、当時の俺は本当に夏と結婚できると錯覚していたのだ。
しかしこの錯覚には二つの大きな誤算があった。
まず一つは、俺の想いに反し夏は一ミリも俺など眼中になく、あくまで俺の一方通行の熱だったということだ。
「おれ、なつとけっこんしたい。なつがすきだから。なつは?」
1996年8月、俺は二階の部屋で初めて夏に想いを伝えた。4歳児ながらも、精一杯勇気を出しての告白。この場合プロポーズに近いかもしれない。
真剣な俺に対して夏の答えはこうだった。
「やだ。しんごくんと結婚するから」
こうして人生初のプロポーズは儚く散ったのだ。
「しんごくん」とは、もちろん香取慎吾のことだ。超国民的アイドル・SMAPのメンバー。4歳児の淡い初恋は、国民的アイドルに奪われてしまったのだ。
夏は昔から俺なんか眼中にこれっぽっちもなく、香取慎吾一点集中だった。夏の熱中ぶりは凄まじいもので、もはや俺が入る隙はなかった。
「なつ、あそぼう!」
そうやっていくら誘っても香取慎吾の番組を見たいという理由で断られたことはざらにある。夏の最優先事項は香取慎吾およびSMAPだったのだ。
11年経った今でも夏は香取慎吾の虜で、毎週SMAPメンバーが出演している番組は全て見ているし、音楽番組の時はテレビの前から一切動かない。
それになかなかコンサートチケットが取れないせいで、夏だけでなくおばさんやおじさんまでファンクラブ会員だ。
俺はCDを1枚も持っていないのに、SMAPのシングル曲は全て覚えてしまったし、SMAPがなんのドラマに出ているのか自然と把握してしまっている。今では中居くんの番組を見るだけで曜日を当てることができるようになってしまったくらいだ。
とにかく、俺の誤算の一つは絶対に越えられない壁・香取慎吾の存在だ。どう足掻いても勝てっこない、強靭な壁。
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