1・2② おっはー鬱
リビングでは、おじさんと夏がソファでチョコ味のホームランバーを食べながら甲子園予選のハイライトを見ていた。
といっても夏はストラップを大量に付けたケータイをいじっている。大してテレビに関心はなさそうだ。骨太の手に握られたケータイにはプリクラやらデコレーションシールやらが貼られていて、見た目がだいぶ騒がしい。
「浦和やっぱ強いなあ」
噛み締めるようにおじさんが呟く。
おじさんは埼玉出身で、母校が甲子園に進む日を毎年願っているみたいだが、今のところ必ず初戦敗退している。おじさんの寿命が尽きるまでに母校の甲子園出場を拝めるのか謎だが、浦和学院が廃校にならない限りきっと夢は夢のまま終わるだろう。
今日も予想通り、浦和学院が勝ったようだ。
『Welcome!……』
突然鳴る聞き覚えのあるメロディ。確かシャンプーのCMで使われていたものだが曲名が出てこない。
音の方へ視線を移すと、夏の手に握られているケータイからではなく、机にある黄緑色の物体からのようだった。手の平サイズのそれは机の上で小さく震えている。
あ、思い出した。『Dear Woman』だ。
思った時には、黄緑のウィルコム₁は夏の手の中にあった。
「もしもし舞、どうしたの? え、先週のイケパラ? 見たよ! 佐野くんマジかっこよかったよね! え、舞は中津派なの? なんか私の周り中津派多くない? 私は断然佐野くんなんだけど!……あー確かに。私、花男の時も花沢類派だったもん。小栗旬が好きなのかも」
夏を横目にキッチンへ向かうと、おばさんがきゅうりを切りながら夕食の準備をしていた。
「あ、勇ちゃん。冷凍庫にアイスあるから食べてね」
「うん。なにそれ? ぬか漬け? 食べていい?」
「いいけど、ぬかが新しいからそんなに味が染みてないかもしれない。勇ちゃんは濃い目が好きだからねー。どうかな?」
まな板にあったキュウリを摘まんで食べてみると、ほんのりしょっぱいぬか漬け特有の風味が鼻を抜けていった。
「あー薄いかも」
「やっぱり?」
それでもなんだかんだ漬物は好きなため、何度もつまみ食いをしてしまった。おばさんは特に咎めることはなく、優しそうに俺を眺めていた。
「そんなに見ないでよ」
「ごめんごめん、なんか嬉しくって。今日もお母さんは夜勤?」
「多分」
「じゃあうちで夜ご飯食べていったら?」
「いや、もうばあちゃんが飯作っちゃってると思うから家で食べるよ」
「そう?」
つまみ食いを止め冷凍庫を開けると、スーパーカップのバニラ味が2個入っていた。冷凍庫からの冷気が肌を撫でる。
俺は手前の物を取り、テレビの方に向かった。
ソファは夏とおじさんが占拠しているため、テレビ前のテーブル横に座ってアイスを食べることにした。
その間にも夏はイケパラの話で盛り上がっていて、時々悲鳴を上げている。
半分ほどアイスを食べ終えたところで、突然夏が「あ!」と立ち上がった。
「やばい! 舞、10分過ぎちゃいそう! また後で電話しよう! うん! 舞も早くコム買いなよ! じゃあね!」
ようやく騒がしい電話が終わったようだ。
「お前、少しは控えろよ。この前みたいに電話代3万いったら許さねえからな」
おじさんが視線をテレビに向けたまま舌打ちする。それがムカついたのか、夏はキッと睨んだ。
「だからコム買ったんだけど? いちいちうるさいよ。あ、今日は野球見るのやめてよ? 9時からSMAP出るんだから」
「ダメだ」
「なんで?」
「どうせ録画してるんだろ? だったら野球見せろよ!」
「リアルタイムで見たいの!」
「わがまま言うな! それよりあの溜まったビデオどうにかしろ! 毎週毎週バカみたいにSMAP録画しやがって! どうせ見ないのに録画したって意味ねぇだろ!」
「見るもん!」
「いつだよ! SMAPの番組全部録画してるくせに一度も見ないまま放置してるだろうが! どうにかしねぇと捨てるぞ!」
「時間がある時見るもん!」
「それはいつだ!」
「暇な時!」
「だからそれはいつだあああ!」
アイスくらい静かに食べたかったのに、どうやら今回も無理みたいだ。俺はそっとテレビに寄り二人から距離をとった。
でも、おじさんが文句を言いたくなる気持ちも分かる。
毎日のようにSMAPばかり見せられたら誰だってああなるだろう。車で流れる曲も、ドラマも音楽番組も、すべてSMAP。その上リビングでは高頻度で彼らのライブDVDが上映されている……。
散々付き合わされておじさんも疲れているのだ。
俺もおじさんも、決してSMAPが嫌いなわけではない。むしろアイドルなのに気取らない気さくなキャラや、身体を張っている彼らの姿は好感が持てる。
ただ、一か月間毎日毎食寿司を出されたらいくら寿司好きでも発狂してしまうのと同じで、夏があまりにもSMAPを毎日見せたり聞かせたり語ったりしてくるせいで人間の限界ラインを突破してしまったのだ。
実際、日常生活に支障が出ている。
まだ小学生だった頃、夏は死ぬほど「おっはー」を乱用していた。息を吐くように何度も。原因はもちろん、『慎吾ママのおはロック』だ。
当時、夏はいつもマヨネーズ片手に慎吾ママを見ていた。そして挨拶は必ず「おっはー」だった。
朝会ったら「おっはー」、学校で遭遇したら「おっはー」、家に行ったら「おっはー」、家に来たかと思えば「おっはー」と、毎日何回も何十回も「おっはー」と言われ続けた。
結果、いつの間にか俺は「おっはー鬱」になっていた。それも「おっはー」と言われただけでイライラして暴れたくなるほどの重症だった。
クラスメイトが挨拶代わりに「おっはー」と言った瞬間、反射的にそいつの顔を殴ってしまったという実害まで出ている。突然俺に殴られたそいつは大泣きで、担任には「なぜ挨拶されただけで殴ったのか」と散々問い詰められた。
それだけ夏のSMAP愛が甚大な影響を及ぼしているということだ。
「夏、く、くち」
「口が何?」
チョコアイスで茶色く縁どられた夏の唇。その上には、草のように生えたちょんまげ。アホ面だ。
笑いしながら口を指さす俺を見てある程度自分の状況を察したのか、夏は目の前にあるティッシュは無視して、手の甲で口周りを拭った。
猛獣はティッシュなどといった人類が生み出した文明には頼らない生き物なのか。なんとも
しかし乾いたチョコは簡単には取れないらしく、まだまだ口は茶色かった。
「手で拭くなよ……」
ティッシュを箱ごと取る。ソファに座っている夏のすぐ目の前で膝立ちすると、乾いたチョコが下唇を中心にしっかりとこびり付いているのが分かった。
右手でティッシュを一枚取り、夏の後頭部を左手で押さえる。そのまま口をティッシュで拭いてみると、ティッシュ越しにその唇の柔らかさが伝わってきた。
なかなかチョコが取れない。かといってこれ以上力を込めたら猛獣の逆鱗に触れてしまう。
夏は俺の手をじっと見つめていて、異様なほど寄り目になっていた。あまりにもアホ面過ぎて至近距離で吹き出しそうになってしまった。
「おい、口舐めろ」
笑いを必死にこらえていたせいで、言えたのはそれだけだった。
「くち?」
「そう、くち。チョコが取れない」
さすがの馬鹿でも意味が分かったのか、夏の舌が口周りを一周した。
夏で濡れたチョコは、ティッシュであっさりと取ることができた。俺は夏の頭に回していた左手をそっと下ろした。
「取れた」
「あんがと」
「はいよ」
もとに居た場所に戻ると、スーパーカップが半分溶けてしまっていた。液体になりつつある、アイスと呼んでいいのか分からないものを口に入れる。
「なあ勇人」
顔を上げると、一連のやり取りを夏の隣で見ていたおじさんが前のめりで俺を凝視していた。
「な、なに」
「頼むからこいつと結婚してやってくれ」
ブッッ……。
反射的に吹き出してしまった。口から飛び出たバニラ味の液体は血飛沫のように散り、机に白い斑点となって描かれていた。
「何言ってんの!? 絶対嫌!」
俺よりも先に夏が叫んでいた。
おじさんを睨む夏の目の開き具合からして、これ以上刺激してはいけないギリギリラインだ。
どうにか対応したかったが、アイスが気管に入ったせいで咳が止まらず何も言えない。
「黙れ! お前なんて、俺が生きてるうちに結婚できるか分からんだろ!」
「いいよ別に! 香取くんと結婚するから! 香取くんと結婚できないなら一生独身でいい!」
「バカ野郎! お前みたいなちんちくりんがアイドルと結婚できるわけねぇだろ! 現実を見ろ!」
「だから独身でいいって言ってるでしょ! このクソジジイ!」
「おまっ、親に向かってジジイとはなんだ!」
俺がいないときもいつもこうなのだろうか。
よくも飽きずに親子で喧嘩ばかりしていられるもんだ。しょっちゅう夏に殴られている俺も人のことを言えた立場ではないけれど。
ティッシュで机を拭き終えた頃、少し落ち着いたのか再びおじさんが俺の方を向いた。髪がサイヤ人のように乱れている。
「で、どうなんだ? お前が引き取ってくれないか? お互い相手がいない時の最終手段でもいいから。このマンモスみたいなやつ、お前くらいしか頼める人がいないんだよ」
この話をされるのは何回目だろう。
おじさんは定期的に夏と結婚するよう促してくる。きっとこの猛獣とまともに渡り合える男など滅多にいないということを理解しているんだろう。
ぱっと見、娘の将来を心配している親心のようだが、俺からしたら今のうちに猛獣に捧げる生贄を用意したがっているようにしか思えない。
おじさんの言葉にてっきり夏がまた暴れるのかと警戒したが、話を聞いていないのか夏は静かにスーパーカップを食っていた。
……スーパーカップ?
机にあるはずのそれが無くなっている。ちょっとおじさんと話している間に夏の手に瞬間移動したのだ。全然気が付かなかった。もうプロの技だ。
「で? どうだ?」
おじさんの熱い眼差しが刺さる。忘れていたはずの暑さが背中を湿らす。
「おじさん」
「なんだ?」
「旧石器時代の平均寿命って知ってる?」
「旧石器時代?」
「そう。人間がマンモスを追いかけてた時代」
おじさんは少し考えた素振りをしたが、ふと隣で溶けたスーパーカップにがっついているマンモスが視界に入り何かを察したのか、何回か首を縦に動かしソファの背もたれに深く腰掛けた。
「忘れてくれ」
「どうも」
俺たちの話に興味がないようで、夏はアイスの捕食に集中している。
つくづくバカだと思う。自分が。
毎日毎日マンモスの何倍も凶暴な猛獣に殴られ怒鳴られ、こき使われながらも、心の中はいつも変わらない。
「ねえ録画したスマスマ見ちゃダメ?」
俺はずっと夏を見ていたのに、夏はもうSMAPを見ようとしている。数分前に俺が拭いたはずの夏の唇は、スーパーカップで真っ白に染まっていた。
こんな俺の一方通行は、11年間続いている。
…………
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