1・2① Will you marry me ?

――2007年7月――


「『Will you marry me ?』」


 額から垂れていた汗がいつの間にか首筋を這っている。

 冷えていたはずのコーラもコースターを湿らすほど大量の汗を流していたが、それもとっくに止まってしまい、すっかりぬるくなっていた。


 扇風機がこちらを向くたびに前髪が暴れ、いちいち顔に張り付くのが心底うざったい。かといってその風を止めてしまえば、暑すぎて10分もじっとしていられない。


「『Are you going to play soccer ?』『I enjoyed reading this book.』」


 コーラの入ったコップが結露の水溜りに囲まれているように、自分の座っている黄緑色のカーペットが汗で湿り、緑色に変色しているのが分かる。

 ペンを長時間持っていたせいか、指の間が蒸れて痒い。腕から滲み出る汗で、ノートに単語を書くたびに肌が紙に引っ付いてなかなか離れない。


 暑い。とにかく暑い。


『本日は30度を超える猛暑日ですので、熱中症対策をしてください。水分をこまめにとりましょう』


 今朝お天気キャスターがそんなこと言っていたが、きっとエアコンをつけるのが一番の熱中症対策だろう。それは百も承知なのだが、今のところ扇風機の風だけでしのいでいる。


 「部屋のエアコン使用は8月まで禁止」というこの家の謎ルールが憎い。素直に自分の家で勉強すればよかった。

 まあ俺の部屋にもエアコンはないし、リビングではばあちゃんが掃除をしていてやかましいからこの家に避難したわけだけど……。


 もしかしたら今日が命日になるかもしれない。暑すぎて死にそうだ。


 血のように噴きだした汗を拭こうと顔を上げた瞬間、壁に貼られた笑顔と目が合った。はりつけにされたキリストのように黄緑色の壁紙に打ち付けられ、もう一生そこから動くことはできないだろうその瞳。


 もうこのポスターを何十回も何百回も目にしているが、今まで何とも思わなかったそれが今無性に気味悪く見える。灼熱の暑さを一切感じさせず、眩しいほど溌溂としている笑顔。どうしようもなく奇怪だ。


 ダメだ。集中できない。


 暑いだけでなく、狂気的な笑顔が終始監視しているこんな部屋、気が散って仕方ない。


「『I must get up at six tomorrow.』『He is……いてっ!」


 『is』の先を言おうとした瞬間、バサッという衝撃音とともに顔面に痛みが走った。といってもそこまで痛くない。恐らく軽いものだ。


 床に視線をやると、小学生が書いたのか思うほど汚い「日本史」という文字がデカデカと視界に飛び込んできた。


「うっさいわ! 黙って勉強できないの!? 毎回英文読みやがって! いちいちうぜぇんだよ! 喋ってないと死ぬのかお前は!」


 唾が飛んでくるほどの勢い。前髪を全て巻き込み一本の柱のように頭頂部に生えたちょんまげが、その頭の動きに連動してふよふよと揺れた。

 目の前のお世辞にも美人とはいえないその顔は、俺と同じようにべったりと汗で濡れている。鼻の下に伝う汗はもはや鼻水のようにすら見えた。


 そのアホ面から飛び出る圧に若干引いてしまったが、それでも俺は、その手に握られているピンキーの描かれたシャーペンがへし折られてしまわないかと心配する余裕がまだあった。


「あぶねえなあ……」

「あんたが黙んないのが悪いんでしょ!? なんなの? 問題解くたびに全部読み上げる気!? こっちのことも考えてくれない?」


 そう言って本気で睨んでくる顔は、貞子よりも恐ろしい。眉をひそめ、チンピラのようにガンを飛ばしている。完全に殺意むき出しで今にでも飛びかかってきそうだ。


 まあぶつぶつ一人で英文を読んでいたのは申し訳なかったとは思う。


 でもそうでもしなければ、こんな蒸し暑い部屋で勉強なんかしてられるわけがない。暑さに耐える修業がメインになり、黙ってペンを握るふりをして終わるだけだ。だからこそなんとか脳みそに英文を植え付けようと必死に策を考えた結果だったのだ。


「迷惑だった?」

「当たり前でしょ! あんたのせいで全然集中できないんだけど!」


 短い彼女の髪が首を守るようにべったりと張り付いてしまっている。だから余計にイラついているのだろう。


 長年一緒にいるからか、顔を見るだけでこれ以上刺激すると爆発するだろうな、もう少し刺激しても大丈夫だな、といった度合いがある程度察しがつく。今回は前者だ。

 そうと分かっていたのに思わず、反射的に声に出してしまっていた。


「どうせ毎回赤点なんだから今さら集中したって意味ないだろ」


 静寂が訪れた。


 いや正確には、外から聞こえるセミの鳴き声はいやというほど響いていた。ここの周りは木が多い。そのせいで夏の季節はこれでもかというくらいセミばっかり鳴いている。


 ただ、俺と彼女の間にだけ時が止まったように沈黙が流れた。しかしそれは本当に一瞬のことだ。動き出してしまった時間には誰も抗えない。


 まずい。


 そう思った時はもう遅く、彼女は新品同様のきれいな英和辞書を右手に持っていた。

 

 ……辞書?


 さすがに辞書はやばい。動揺から体が自然と後ずさりした。

 以前はクッションを投げられる程度で済んだのに、今回は次元が違う。殺傷能力が桁違いすぎる。


「な……なつ! 落ち着け! 悪かったって! 口が滑っただけだ!」

「許さない! 口が滑ったって……それって本音ってことだろうが! そこを動くなよ!」


 夏が勢いよく立ち上がった時、彼女が着ていた白いティーシャツのど真ん中に書かれた『Smap!』という赤い文字と、それを囲むように配列された青いローマ字が見えた。そして夏は、参考書やノートが散乱した机を飛び越え、モモンガのように俺に飛びかかってきた。


 もはや猛獣だ。人ではない。


 猛獣は手に持った英和辞書で殴ろうとしていた。とっさに枕をかっさらい、体をかばったが、瞬時に重い衝撃が体を走った。薄っぺらい枕では衝撃を防ぎきれなかったみたいだ。


 何発か枕の上を殴られる。内臓にその振動が響き、「うっ」と唸ってしまう。どうにかしなければと考えたその時、突然すねを殴られた。瞬間、レンガで足を潰されたのか思うほどの痛みが走った。


 そうだ。枕がそこまで届いていなかった。モロに食らってしまった。


「いってえええ! 夏! 夏! マジやめろ! 悪かったって! やめ……いてえって! 夏!」


 叫びもむなしく、夏はその手を止めることなく攻撃を続けた。


 丸腰の人間が猛獣に勝てるわけがない。辞書を持った猛獣には、もちろん勝てるはずもない。

 煎餅のように薄い枕しかない俺は、一方的に殴られ続けた。



 6発目くらいで辞書のカバーが空へ飛んで行ったのが見えたが、宙に浮いてすぐに視界から消えてしまった。

 夏はそんなのお構いなしに「死ね死ね」と言いながら腕を振り下ろし続けている。血走っている目は、本当に息の根を止めようとしている様子だ。


 やっぱり今日が命日になるかもしれない。


 走馬灯が見え始めるまであと何分だろう。もし俺が死んだら、明日の夕方のニュースにでも流れるだろうか。


『被害者の少年は15歳で、死亡時刻は午後5時ごろ。加害者は女子高生で、凶器に辞書を用いたとみられています……』


 死を覚悟したその時、騒がしい教室に担任が飛び込んで来た時のように、何かが突然乗り込んできた。


「うるせんだよお前らあああ! 勉強しないならせめて静かにしろおおお!」


 豪雨のように降り注ぐ怒号。


 ドアの方を向くと、クマのようにガタイの良い男が鬼瓦の形相で立っていた。


 レスラーのようなその人は、猛獣に襲われている俺を救出することもせず、驚くこともせず、いたって普段通りの光景だというような様子で見下ろしている。


 父親から怒鳴られたせいか、夏は素直に辞書を振り下ろす手を止め立ち上がった。急になくなる体の重みで、一気に流れ込む酸素。それに体が驚いたのか息を思いきり吸ってしまい嗚咽した。


 太い脚が辞書のカバーを蹴り飛ばして部屋を出ていく。すぐに夏のドスンドスンという重い足音が地響きのように家じゅうを揺らした。


 階段を壊そうとわざと足を叩きつけているのかと思うほどの振動。四股を踏みながら降りているのだろうか。夏の足音を聞くたびに、この家の耐久年数が削られていく気がして心配になってくる。


「大丈夫か、勇人ゆうと

「あ……うん」

「アイス買ってきたから降りてこい。どうせお前ら勉強なんてろくにしてないだろ? 諦めろ。テスト前にちょっと足掻いたってどうにもならんさ」


 呆れた様子で言うと、おじさんは地震が起きたのかと錯覚するほどの勢いで一階に降りていった。



 なんだか体中が痛い。辞書で殴られたのだから当然か。きっと全身に痣が大量に出来ているに違いない。


 気が付くと、俺たちの騒ぎで逃げていったのか、寿命が尽きたのか、聞こえていたはずのセミの鳴き声がすっかりなくなっていた。



「勇人お! 早く! あんたの分のアイスも食べてもいいの!?」


 階段の下から聞こえる夏の声。相変わらず口が悪い。


「今行くから食うな!」


 急いで立ち上がったその時、殴られた足から信じられないほどの痛みが走った。なんと、辞書で殴られた部分が赤くミミズ腫れのようになっていた。


 傷害罪で訴えれば確実に勝てる気がする……。


 そんなことを考えながら、蒸し暑い部屋を後にした。

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