アンナ
独り立ちして四日目の朝。
今日は風が強く、風に揺られる梢と草葉の音で目が覚めた。
昨日は曇っていたが、今日は雲も少なく晴れ渡っている。
まだやや薄暗いが、うーんと猫のような伸びをしてのっしのっしと泉に近づき、ザブンと水に顔を突っ込む。
冷たい水で一気に目が覚めるのが気持ちいい。
今日は攻撃的な術の実験をしておこうと考えていたが、風が強いので別な日にした方がいいかもしれない。
というのも、風が強い中で火の術を使えば燃え広がることも考えられるし、何かを飛ばす術は風の影響で狙いが逸れてしまう事もあるからだ。
そういった状況下でも問題なく使用できる術を作っておく必要があるので新たな術の研究をしておくかと考える。
そんな風に思考を巡らせながら強風で流れる雲を見上げつつ、暫くのんびりと明るくなるのを待っていた。
早朝だが例の狼親子が来るかもしれないと思い、一応周囲の気配を気にかけておいたがそんな様子はなく、風の音が演奏する色々な楽器の音色に耳を傾けて時間を潰した。
草木の擦れる音はもちろん、水面を波立たせる音、木の幹を撓らせる音、時折ゴォーという強い風が上空を吹きぬける音などが聞こえ、いつもと違う雰囲気の森の顔が楽しめた。
大分明るくなり、いつもの朝食の頃合になると朝食にしようと立ち上がって移動する。
そのまま果物の種を植えてある場所まで行き、いつものように術をかけるとすぐに大きく育ちゴロゴロと実をつける。
収穫してさあ食べようとしたところで何かの気配を察知した。
風の音に紛れてはいるが確かに何かが聞こえる。
住処のあった山の方角から枯葉を踏むような、何かを引きずるような音が微かに耳に届く。
食べようとした果物をゴソゴソとまとめて置いておき、いつでも動けるように体を浮かせて身構えた。
(何だ? 動物?)
狼親子かと思ったがそんな感じではない。
数度だけしか会っていないが何となくあの親子の気配はわかるようになった。
次第に近寄ってくる音に集中しつつも、他に気配はないかと辺りを警戒する。
賢い動物は群の中で囮となる者が注意を引き、他の者が隙を伺って一斉に襲い掛かるという狩りの仕方をするものもいる。
前から近づいてくるもの意外に今のところは気配を感じない。
いよいよ姿が見えるというところまで来た。
念のため身体強化の術を使っておく。
枝葉が揺れ、草木の陰から音の主が姿を表した。
(! ……人間の子供だ)
それはまだ幼さの残る人間の少女。
こちらを視界に入れると驚愕の表情を顔に貼り付け息を呑むのがわかった。
肩口くらいまで伸びた金色の髪の毛はボサボサで汚れているため色褪せて見える。栄養状態が悪いせいかツヤもない。
瞳は綺麗な碧眼だったが今は恐怖に濁っている。
ボロボロの小汚い布一枚だけを着て、裸足。手足はガリガリにやせ細っていて、頬もこけている。あちこち傷だらけで顔や手足には痣があり顔色も悪い。足を傷めているのか、足を引きずりながら移動してきたようだ。
健康的ならば割りと美少女だろうなと思うが、今はそんな面影すら感じないほど痛々しい。
「ひっ! あ……う……」
竜がこちらに気付いているのを見て絶望的な顔をし、後ずさろうとする。
しかし既に限界近いのか、まともに動けない様子で尻餅をついた。
「う……う……」
必死に後ずさろうとするが力が入らないようで、手足がかろうじてもぞもぞと動く。
(酷い状態だな)
3mほどの距離まで近づいてみたが、日本では見た事がないような悲惨な外見だ。紛争地域でろくな物資もない状況下で生きている子供のようだった。
極度の疲労と空腹のためか声もまともに出せず意識も朦朧としているようだが、それでも必死に逃げようと手足を動かしている。
放っておくのも躊躇われるような状態を気の毒に感じ、怖がらせないようにゆっくりモゾモゾと近寄っていく。
小さいとはいえ4m以上もある竜に近寄られた少女は、諦めたのか青白い顔つきのままぎゅっと目を瞑り、体を強張らせた。
竜に襲われると思えばそんな対応になるかとちょっと悲しくなりつつも傷だらけの皮膚を癒しの術で治してやった。
突然体がじんわりと温かくなったことに驚き、瞑っていた目をうっすらと開いて自分の体を見ている。
怪我が綺麗に無くなり、どんなものかと様子を伺ってみるが、顔色は全然良くなっていない。
「う……ぐ……うぅ……」
傷による苦痛が薄らぎ、竜から襲われると気を張っていたことが少し落ち着いたからか、思い出したようにうめき声を出して、自分の胸のあたりを苦しそうに押さえている。
空腹のあまり何か毒になるようなものを食べてしまったのかもしれない。
この近辺に竜にとって強い毒性を示す食べ物は無かったはずだが、毒には様々な物があり、特定の生物に特異的に作用するものもある。
竜には何でもなくても人には毒性があったり、逆に人間は食べられるものが竜には食べられないなどの場合もあるのだ。
有名なところだと、猫がチョコレートに含まれるテオブロミンという物質で食中毒を起こしたり、犬が玉ねぎなどのネギ科の植物に含まれる有機硫黄化合物によって食中毒を起こすことなどがよく知られている。
そう思って解毒の術をかけてあげると、ようやく顔色が戻り始める。
やはり何かの毒物を摂取してしまっていたようだ。
しかし、安堵のためか疲労のためかそのまま気絶してしまった。
竜に出会った恐怖で気絶……ではないと信じたい……仕方ないとはいえやはり傷つくので……。
とりあえず寝顔は安らかになっているし呼吸もしているので大丈夫そうだ。
このままここで寝かせておくのも可哀想かと、泉の近くまで術で運び、布団代わりにその辺にたくさん落ちている落ち葉を術で動かし体にかけてあげた。
布団ほど温かくはないだろうが無いよりはマシだと思う。
それにしても何でこんな場所に一人でいたのか。
誰かとはぐれた?
それにしては酷い状態だった。
親と一緒ならばここまでにはならないと思うが……。
何かから逃げてきて、保護者とはぐれてしまったとかだろうか。
考えても仕方ないのでとりあえず少女の横に寝そべり、起きるのを待つことにした。
術の練習や研究は一時中止にして少女の看病をしてあげることにする。
と言っても起きるまでは風で飛ばされた布団代わりの落ち葉を戻してあげることくらいしかできないが。
少女が倒れてから大分時間が経ち太陽が傾き森の木々に隠れそうになる頃、落ち葉に埋もれた体をガサガサと動かし少女が目を覚ました。
「あ……れ?」
自分の状況が飲み込めていないようで自分の体を触ったり周囲を見たりしていた。
少女が起きる気配がしたので、起きる前に人間の姿になっておいた。
起きていきなり竜が近くにいたらまた気絶されたりパニックになったりしそうだったからだ。
素っ裸では変質者なので前に回収した服を着ておくのも忘れない。
「大丈夫?」
とりあえず気付いてもらおうと声をかけてみる。
突然声をかけてきたため驚いたのか小さく悲鳴を上げたが、こちらを確認するとすぐに落ち着いてくれた。
何か声を出そうとしているがまだ混乱しているようだった。慌てても仕方がないので緊張が解けるまで気長に待つことにする。
「とりあえず、お水どうぞ」
そういうと術で水を作り、少女の顔の前に水玉を作ってやる。冷たすぎると胃腸に悪いので少し温めにしておいた。
一瞬何が起こっているのかと戸惑っていた少女も害は無さそうだと判断したのか、恐る恐るといった感じで宙に浮いた水に口をつける。
一口飲んで安心したのかゴクゴクと飲み始める。
見たところ年は12歳くらいだろうか。
ガリガリすぎて正確にはわからない。
顔立ちはまだ幼さを残しているような感じなので多分それくらいだろうと予想をした。
「ぷはぁ……。あの、ありがとうございました」
「どういたしまして」
緊張を取るためなるべく愛想よく笑いかけてあげた。
そういったところで少女のお腹がグーっと盛大に返事を返した。
「あ……」
さすがに恥ずかしかったのかお腹を押さえてばつが悪そうに俯いている。
「お腹減ってるならこれあげる」
そう言ってさっき食べようとしていた収穫済みの果物を差し出す。
本来なら酷い空腹の状態で冷たい果物などは良くないかもしれない。
普段は誰も意識していない事が多いが、食べ物を消化するというのは意外と体力を消耗する行為なのだ。
病気などで体力が低下している時に日常のものを食べると消化できずに下痢をしたり嘔吐したりしてしまう。
なので胃腸が弱っている時は温かく消化に良いものを食べた方が良いとされている。
しかしこの場にはそんな食べ物がない。
かといって空腹のまま放っておいては餓死してしまいそうなほど痩せ細っている。
やらないよりはマシかと思い、術で果物を冷たさが感じない程度まで温めてあげてから手渡した。
「え……。いいんですか?」
「お腹減ってるんでしょ? 食べた方がいいよ。顔色もまだ良くないし」
「ありがとう、ございます」
そういって果物を受け取るが、口をつけない。
どうしたのか……。
(ああ。そうか皮をむけないのね。手に力も入らないようだし、手伝ってあげよう)
そう思い術で果物をパカっと切ってあげる。
突然手の中の果物が綺麗に割れたことに驚いてこちらを見ていたが、「どうぞ」と勧めると果物を食べ始めた。
「慌てて食べない方がいいよ。酷い空腹の時はお腹が弱っているから、食べたいかもしれないけどゆっくりとね」
そう声をかけてあげると、言われた通りゆっくりと食べてくれた。
食べ始めたことを見届けると、そういえば自分もまだ食べてなかったと思い出し、自分も果物を食べて腹ごしらえをする。
竜だったら丸かじりだけど人の姿なので自分も術で切ってから食べた。
食べ終わって一段落したところ少女から尋ねられる。
「色々とありがとうございました。あの、あなたは誰ですか? さっきここに黒い竜がいませんでしたか?」
まぁ至極当然の疑問だ。
まだ警戒しているようなので少女から3mくらい離れた場所に座ってとりあえず自己紹介した。
「僕はクロ。キミの名前は?」
「私は……アンナです。助けて頂いてありがとうございました。ずっと何も食べてなくて……」
「どういたしまして。困った時はお互い様だから気にしないで。それでキミはどうしてここにいるの?」
「それは……わかりません」
どういうことだろう。
定番の記憶喪失だろうか。
それにしては記憶が無くて取り乱しているという様子はない。
「……じゃあここに来る前はどこにいたの?」
「あの……。町にいました。町の名前は知りません」
「町で何をしてたの?」
そう尋ねるときゅっと唇をかみ締め、悲しそうな表情を作った。
「……私、奴隷だったんです」
そう言うとポツリポツリと境遇を話してくれた。
家族で平穏に過ごしていたが少し前の戦争で住んでいた村が巻き込まれてしまい、その時に両親と姉とは離れ離れになり、自分は戦争奴隷として兵士に捕まったそうだ。
途中でその時のことを思い出したのかポロポロと涙をこぼした。
少し落ち着いてくるとまた続きを話してくれる。
「戦争奴隷は国が次の戦争のときなどに戦いに駆り出したり労働者として働かされたりするんですが、私は子供で戦いにも労役にも役に立たないと奴隷市場に売られたんです」
「そう……」
この世界には奴隷制度があるのか……しかも国公認のもののようだ。
人権などが軽視されているような社会制度ということは地球で言うとかなり昔のような感じがする。
それにしても思った以上に大変な目に遭ってきているようだ。でもそれだけだとここまで来た理由はわからない。
「それで、どうしてここに来ることになったの?」
「町の奴隷市場で男の人たちに買われたんです。その人たちに走車で森の近くまで連れてこられて……」
「森の中に入れられた……と。森で何かしろとかは言われてないの?」
「はい……奥まで行けとしか言われていません。それでお腹が減っていたのと途中で苦しくなったのとで……」
それで自分に遭って今に至るということか。
「なるほど……」
これは……どういうことだろうか。
わざわざ奴隷を買ってきて意味も無く森に行けなどと言うものか?
いや、そもそもこの子が嘘を吐いている可能性もある。が、見た感じ嘘を吐いているような様子は見受けられない。
とりあえず判らないことは置いておくとして、この子が嘘を吐いていないとすると近くにこの子を連れてきた男たちとやらがいるということだ。
小さな少女をこんな状態で一人森の中に追いやるなんてろくな手合いでは無さそうだ。
ここは安全な森ではない。
弱者は狩られる運命にある野生の森だ。
竜の自分には他の動物も恐れて近づかないため、何もいない寂しい森と錯覚してしまうがそんなことはない。
今も息を潜めて虎視眈々と獲物を狙っている生き物がそこかしこにいるはずだ。
あのままの状態でいたのなら恐らく数日もしないでこの子は命を落としていたはずだ。
「よくわからないこともあるけど、とりあえずどうする? 町に帰る?」
今後の身の振りをどうしたいか聞いてみる。帰りたいと言ったら町まで送ってあげるつもりでいた。
さすがに一人で町まではいけないだろうし、仮に町まで行けたとしてもこの年の子が町で一人きりでは生き抜くことも難しいだろう。
奴隷だったということから助けてくれる知人などもいそうもないし、行政府や孤児院などで身の振り方が決まるまで付き合ってあげようと思った。
「そんなことより! ここに、さっき竜がいたんです! まだ近くにいるかもしれません! 早く離れないと……クロさんも危険です!」
慌てた様子でそう訴えてくる。
うん。知ってる。その竜は目の前にいるから。
自分がこんな状態の時であっても人のことも心配することのできる心根の優しい少女だった。
自分の正体を言っても信じないだろうし適当に流すことにする。
嘘を言うのも忍びないがこればかりは仕方がないと諦める。
「大丈夫だよ。さっき飛んで遠くに行ったから。それに近くにいたのに何もされてないんだから平気だよ。キミも大分弱っていたからここで少し体を休めた方がいいよ。無理したら死にそうなくらいだったんだから」
「そんな……でも……」
頭では危険な竜から離れたいけど、言われていることにも一理ある、という感じだろうか。
そもそもその危険な竜はアンナを襲うつもりも食べるつもりもない。
無理をしてでもここで休ませておく方がいいだろう。
人間の姿になっているとはいえ、竜の匂いや気配を出す自分が近くにいれば気配を察知できる獣たちはよっぽどの事がない限り近寄らないだろうし、少なくとも一人で森を歩くよりは安全なはずだ。
まだ移動しようと訴えるアンナをどうにかなだめて、今夜は自分が見張っているから体を休めるように言い聞かせた。
ここは水場も近いし、少し開けた場所なので何かあれば気がつく事ができる。
それに自分はここによく来ているため周囲のこともある程度わかる。
移動するよりここの方がいくらかマシだろう。
いざとなれば形振り構わず竜の姿に戻って逃がしてあげることもできる。
そんな考えからここに留まることにしたのだ。
まだ衰弱気味のアンナには枯葉を布団代わりにしてこんもりと体に被せてやり、まだ明るかったが早めに眠るように言った。
日が森の影に隠れると辺りが暗くなり、やがて夜の帳が下りてくる。
木々の隙間から見える満天の星空は、クリスマスの時期に木を飾るイルミネーションよりも美しい。朝は強かった風も治まり、いつもの静かな森の姿が戻ってきた。
結局今日は一度も狼親子がここに来なかった。アンナがいたから警戒していたのかもしれないなと予想した。
竜の自分は肉体強化の術を使えばある程度眠気に耐えることができる。
一晩くらいなら眠らなくても全く問題なく活動できるので今夜は見張りに集中することにした。
アンナを連れてきたという人間のことも気になるし、夜は夜行性で危険な動物も動き回るようになる。
竜には直接手を出すことはなくても近くにいるアンナなら寝ている間に襲われることも考えられるのだ。
始めは穏やかな寝息を立てていたアンナだったが、夜になると悪い夢でも見ているのかアンナはうなされて涙を流していた。
傍に近寄って頭に手を置いてあげると、少し安心したようにまた静かな寝息を立て始めた。
こんな小さな体でつらい思いをたくさんしてきたのだろう。何とかしてあげたいが自分に何が出来るだろうか。
母上は教えてくれた。
姿かたちがどうであれ、相手を想う気持ちは変わらないのだと。
自分は自分なのだと。
大変な思いをしてきたこの少女を助けてあげられないだろうか。
自分に何かできないだろうか。
そう思った。
竜になって初めて、誰かのために何かをしたいと思った。
そんな静かな想いを受け止めるように、水を差すことなく夜は静かに更けていった。
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