リンゴと彼らの話

しらす

冬のはじめの話

 咲子が俺の部屋を訪ねて来たのは、11月も終わりの日曜日の午後だった。

 秋はとうに過ぎて冷たい風の吹く中、ビニール袋を提げた両手をすり合わせて温めていた彼女を、俺は慌てて玄関に迎え入れた。

 白いセーターにオレンジのダウンジャケットを着て、しっかり防寒しているのに、真っ赤になった手は冷え切っている。

 思わずその手を温めてやっていると、咲子はビニール袋を広げて俺の前に突き出した。


「健、これ見て。親戚から一箱届いたからお裾分けだって」

 そう言われて袋を覗き込むと、中に入っていたのは真っ赤なリンゴが五つ。どれもツヤツヤとしていて食べごろだ。

 だがリンゴというのは一度に半分を食べるのもそこそこきつい果物だ。しかも長期間放っておくと、中身がボソボソになって味がしなくなってしまう。

 要するに何とかしてくれという意味か、と思った俺はすぐに台所に向かった。


「ジャムにでもするか?」

 鍋と砂糖の残りを確かめながら訊ねると、咲子は慌てたように首を横に振った。

「ううん、それもあるんだけどさ」

「うん?」

「これ、アップルパイに出来ないかなって。作り方を教えてほしいの」

 そう言うと、咲子は少し上目遣いに俺を見た。


 咲子は小柄な方ではないが、最近身長が伸び始めた俺と比べると頭一つ分は小さい。そんな彼女が、俺の胸元に当たりそうなほど近くまで来て、じっと見上げてきた。

 何かを頼む、というよりねだるようなその様子に、俺はああと納得した。


 彼女はアップルパイが大好きなのだ。以前それを知った俺が、手作りして持って行ったのを覚えていたのだろう。

 だがいつもの咲子なら、このままリンゴを置いて「後はよろしく」とでも言い出しそうなものだが、今日はどうやら自分で作りたいらしい。


「ならまぁ簡単なレシピでいくか。とりあえずリンゴ二つ、皮むいて切っててくれ。パイシート買って来るから」

「えっ、生地は作らないの?」

「そこまでしてたらすげー時間掛かるし、咲子は慣れてないだろ?まずはお手軽なのが一番だ」

 言いながら、俺はスマホで一番シンプルなレシピを検索して咲子に見せた。


「そっか……うん、そうだね。分かった! リンゴは小さく切っておけばいいの?」

「ああ、適度にな。じゃ、ちょっと行ってくるから」

 心なしか、咲子は少しがっかりした顔をしたように見えたが、すぐにエプロンを付けて包丁とまな板を手に取ったので、俺はそれ以上何も訊かなかった。


 だが俺は、この時点で気付くべきだったのだ。

 咲子が自分からお菓子作りをしたいと言い出した、その理由を。それが何のためなのかを。



 最寄りのスーパーまで自転車を走らせ、パイシートを買って戻った時には、驚いたことにリンゴはきちんと小さく切られていた。

 咲子も一人暮らしを始めてから料理をするようになって、かなり包丁に慣れていたらしい。

 見ればスマホのレシピをテーブルに広げて砂糖を量り終え、バターをどう量ろうかと悩んでいるところだった。


「全部秤に乗せてしまえばいいんだよ。そんで全体の何割くらいか考えれば、どこで切ればいい分かるから」

「あっ、そっか!」

 目からうろこが落ちたような顔をして、咲子はいそいそとバターを量り始めた。


 咲子の脳内は宇宙より深遠で、何を考えているのかまるで予想がつかない上に、そこそこ困った事をやらかしてくれることが多い。

 だが今日に限っては、その顔は真剣そのもので、どこか切実な雰囲気を漂わせていた。

 しかも作り方を教えてほしいと来ていながら、俺が帰宅した時には、スマホのレシピの方に完全に集中していた。

 こっちに質問してくれればいいのだが、もはや俺が視界に入っていない様子だ。


 戸惑う俺にはお構いなしで、咲子はフライパンを出してリンゴと砂糖とバターを放り込み、慣れない手つきで煮始めた。

 使うパイシートは二枚なので、俺は残りをジップロックに入れて冷凍庫に仕舞った。だがその後は、咲子の背中をぼーっと眺めるしかなくなった。


 普段ならいくらでも話題を提供する彼女が、きゅっと唇を結んで完全に沈黙しているのだ。

 エプロンの紐でも引けば驚くかと思って、そっと真後ろに立ってみたが、一向に気付く様子もない。思い切って紐を引いてみたが、フライパンに集中している咲子はまるで反応しなかった。


 一体俺は何をやってるんだ、と自分で自分に呆れた。

 紐を結び直し、本でも読むかとコタツに向かったが、本にも集中できない。

 何しろ台所に立っているのは咲子だし、教えてくれと頼まれていながら放置するのも気が引けて、台所と居間の間をウロウロする羽目になった。

 

 だからコンポートが仕上がったところで、俺は心の底からホッとした。



「できたよ!たぶんこれでいいんだよね?」

 咲子に手招きされてフライパンの中を覗き込むと、半透明になったリンゴは少し焦げて茶色になっていたが、かなり美味しそうな香りを立てていた。


「ああ。あとはこのシートを八等分にして包んで焼くんだ」

 そう言ってパイシートを差し出すと、咲子はまな板に小麦粉を振って手早く切り始めた。どうやらリンゴを煮ながら、次の工程も確かめていたらしい。

 二枚のうち一枚はフォークで刺して穴を開け、もう一枚は切り込みを入れていく。その間にコンポートを挟んで端をくっつけるのだ。


「やっと『アップルパイ』って感じになってきたね」

「だな。ああそれ、もっと盛っていいぞ」

「そうなんだ!じゃ遠慮なく」


 ここまで来てやっと余裕ができたのか、咲子のお喋りが復活していた。

 どうやら彼女はずっと緊張していたらしく、肩が凝っているのか時々腕を回している。

 もう少し手を貸すべきだったかと思ったが、当の咲子は満足そうな顔をしていた。おそらく彼女は、自分で作れるように作り方を覚えたかったのだろう。



 包み終わったパイをオーブンに入れると、どちらからともなくほっと溜息を洩らした。

「お茶淹れるからコタツで待ってようか」

「うん。それにしても食べるのは一瞬なのに、こんなに時間かかる物なんだねぇ」

「それはどんな料理も似たようなもんだろ?」

「……」

 いきなり無言になった咲子は、そこで明後日の方向に目を逸らした。

 どうやら料理をするようになったと言っても、まだまだ手抜き料理ばかりらしい。


「その調子じゃ、生地から作るのは無謀だったな」

「だって、せっかくだから生地からって思うじゃん!」

「そんなこと言って、食えないもんができたんじゃかえって勿体ないだろ」

「そうじゃなくてさ、今日は健の誕生日じゃん! どうせならちゃんとしたもの作りたかったんだよ」

「へ?」


 いきなりの反論に、俺は目が点になった。のだろうと思う。

 驚いた俺の顔を見て、むしろ咲子の方が呆気に取られたような顔になったからだ。


「まさかと思うけど、今日が自分の誕生日だって忘れてたの?」

「沈黙をもって応える」

「雄弁すぎるよ! 待って、自分の誕生日だよ!?」

「仕方ねぇだろ! 誕生祝いとか久しぶりなんだよ!」

「あっ、あ、あー……」


 俺にも子供の頃に、ちゃんと誕生日を祝ってもらった記憶はある。だが両親が喧嘩するようになってからは、祝いの言葉すらなくなっていた。

 そのせいか、誕生日など書類に書く時に思い出す程度のもので、今日がその日だという事など頭にも無かった。俺の家の事情を知る咲子はそれに思い当たったのだろう。


 どことなく気まずい沈黙が降りたその時、オーブンがチーンと音を立てた。

 その音に俺たちは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。


 バターの香ばしい匂いが漂っていたオーブンからは、蓋を開けると猛烈に食欲を刺激する甘い匂いが広がった。

 咲子が初めて、ほぼ一人で作った四角いアップルパイは、焦げもせず生焼けにもならず、ふっくらと焼き上がっていた。

 熱々のままでは食べられないので、取り出してコタツの上の鍋敷きの上に乗せる。だが冷静にそうする一方で、今すぐかぶりつきたい気分だった。


「……ありがとな、咲子」

「うん?お礼を言うなら私の方だよ。作り方教えてくれてありがとね」

「そういう意味じゃねぇよ」


 言いながら俺は、咲子の頭にそっと手を乗せた。

 まるで当然の事のように、俺の誕生日を祝いに来てくれた事も、今まで作った経験の無いお菓子を必死で作ってくれた事も、こうしてその日を一緒に過ごしてくれている事も、何もかも嬉しい。

 嬉しいのに、その気持ちをどう伝えていいのか分からないのだが、それでも咲子は何かを察してくれたのか、ふっと笑った。


「誕生日おめでとう、健。来年は生地から作れるように頑張るよ」

「ああ、そうしたいな。今度から菓子焼く時は一緒にやるか? 色々やってれば慣れるだろ」

「うん! それじゃよろしくね、健先生」

 咲子はそう言ってポニーテールをぴょこんと揺らすと、思い切り頭を下げた。

 本気で来年も祝ってくれるつもりのその顔に、半ば冗談のつもりだった俺はどきりとした。

 だがそれと同時に、久しぶりに自分がきちんと歳をとったような、そんな不思議な気分になったのだった。

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