秋のなかばの話

 十月のはじめのその日、時子に頼まれた買い物を済ませてスーパーを出ようとしたところで、俺はその青リンゴに目が留まった。

 つい一昨日まで夏のように暑かった九月が終わり、十月に入った途端に寒くなった今年は、夏の名残のようなナスやキュウリがまだ店に並んでいる。

 そんな野菜売り場の一角で、ぽつんと秋を主張するかのように並んでいたそれは、学生時代に見慣れた種類のリンゴだった。


「トキか」

 思わず口に出してそう言いながら、俺は吸い寄せられるようにその棚に近寄った。


 このリンゴは俺の知る限り、一番早くに店に並んで、同時に一番早くなくなる品種だ。実る時期が早くて限られているらしく、十月の半ばには見かけなくなる。

 色は黄緑だったり、黄色と赤のまだらのようになっていたりと、見た目はあまりパッとしない。だがその実はしゃりっと硬くて甘く、花のような濃い香りがする。時子のお気に入りのリンゴだ。


 初めてそのリンゴを買った切っ掛けは、単に名前が時子の「トキ」と重なったからだ。

 しかも大ぶりの籠に山のように積まれ、いかにも売れていませんという様子で安売りされていた。

 あの頃まだ新しい品種だったトキは、見た目のせいか、その美味しさに反して売っている店そのものが少なかった。


「ふうん、美味しいねこれ。王林?なんか熟れ過ぎみたいな色だけど」

 そう言って時子は首を傾げながらも、俺が剥いた端からぱくついた。よほど好みの味だったらしく、一個しか買ってないと言うと、えらく残念そうな顔をした。

 それで翌日、慌ててもう一度スーパーに買いに行ったのだが、その時にはもう籠ごと無くなってしまっていた。


 代わりに王林を買ってみたが、皮を剥く段階でもう昨日のリンゴとは大違いだと分かった。まるで香りがしないのだ。

 案の定、時子はちょっと不満そうな顔になった。そしてこう訊ねてきたのだ。


「ねぇ玲一、あのリンゴって、何て品種だったの?」

 首を傾げて見上げて来るその顔に、不意に俺の中で妙な感情が持ち上がった。

「悪い、覚えてないんだ」


 それきり時子には「トキ」というリンゴの名前を教えていない。

 買っていくと大喜びするほど好きなので、毎年時期が来ると必ず買うのだが、名前を訊かれても毎回はぐらかした。

 そのうちに時子は何も訊かなくなった。ただ嬉しそうに目の前でトキを食べ、無邪気に笑う。

 その顔を見る度に、なにか優越感のような、背徳感のような、奇妙な気分に浸っていた。

「時子がトキを食う」というただそれだけの、今考えると小学生かと言いたくなるような単純な悪戯を楽しんでいたのだ。


 そんな愉悦に浸らなくなったのは、俺たちが結婚しようという話になった時だった。



「やめとけよ、姓は絶対お前の東雲しののめの方がいい」

「嫌よ、私は玲一の姓になりたいの。絶対氷室ひむろがいい!」


 結婚式を挙げるような金の余裕が無い俺たちは、婚姻届けだけを出して少し旅行しよう、というささやかな結婚をする事に決めていた。

 だがその婚姻届けを書く段階で大揉めに揉めたのだ。


 時子はどうあっても俺の姓、氷室になりたいと譲らなかった。そんなこだわりがあるとは思ってもみなかった俺は、大いに困惑した。

 別に姓なんてどっちでも構わないだろ、と言うと、どっちでも構わないなら氷室にしてよ、と譲らない。

 だが俺が氷室の姓をなくしたいのには理由があった。だから俺も譲れなかったのだが、時子にはそれが分かったらしく、不意に静かな声でこう言った。


「玲一、私は子供やあなたを置いて死んだりしないよ」

「時子……」


 そんな事、誰にも分からないじゃないかと言いたかったが、時子の目は真剣だった。



 俺は幼少期に、親父からひどく疎まれて家に居られず、祖父に育てられた。

 それと言うのも、俺を産んだ直後に、親父の最愛の人だった母が亡くなったからだ。

 彼女の命と引き換えに生まれた俺が、親父にはどうしても憎くて仕方なかったのだろう。

 幼い頃にはその気持ちが全く分からず、何とか愛してもらえないかと写真の母の真似をしたりもしたが、そんな俺の行動は余計に親父を怒らせた。


 そしていざ、自分が結婚するという段になって、親父と同じことが自分に起きたらどうなるかと想像してしまったのだ。

 時子を失い、その子供だけが残されるようなことになったとしたら。

 俺はきっと親父と同じように、それに耐えられずに子供に当たってしまうだろう。

 そんな事になってしまったら、と思うと、自分が親父と同じ氷室の姓で結婚するのが怖くなったのだ。


 別に名前一つで人間の運命が決まるわけではないだろう。頭の隅ではそんな冷静な声がしていた。だが一度怖いと思ってしまうと、本当にそうなるような気がしてきて、どうしても氷室の姓から離れたかった。

 それに我がままを言えば、氷室などといういかにも寒そうな姓より、東雲という縁起が良さげで綺麗な姓になりたかった。

 だがそれを言うと、時子は目を丸くして俺を見た。


「私はさ、玲一の玲と氷室の氷ってぴったりだと思うから、変わっちゃったら勿体ないと思うよ」

 そう言うと、時子はどうして俺の姓に拘るのか初めて話しだした。


「玲」という名前には「透明感のある美しさ」や「清らかで澄んだ様子」という意味があるという。

 夏でも冷たい氷室の澄んだ空気や、透明な氷のイメージとぴったりの「玲」という名前が好きで、「氷室玲一」という名前は、全体が綺麗で好きなんだ、と時子は言った。


「それに私だって『氷室』って名前は憧れだったんだよ。私の『東雲の時』って名前は確かに綺麗なんだろうけど、ちょっと大げさすぎてさ、身の丈に合わない感じがするんだもの」

 そう言って頬を膨らませる時子に、俺はつい吹き出してしまった。


 結婚しようという話になるまで全く知らなかったが、俺たちは結局のところ似た者同士だったのだ。良くも悪くも名前というものにこだわり、互いの名前を羨ましがっていたのだと分かって、俺は気が抜けてしまった。

 それで結局、彼女の希望を聞くことにして、俺の姓である「氷室」を選ぶことにした。



「時子にトキを食わせる」という小さな背徳感に浸っていた俺は、実のところ歳を重ねるごとに、それが余りに子供じみている気がして言い出せなくなっていた。

 だがこれほど名前やその意味を気にする彼女になら、こんな馬鹿馬鹿しい悪戯をする意味も、俺が密かに味わっていた気持ちも理解できるだろう。

 だからこそ、そんな事は口が裂けても言えなかった。彼女に気色悪いと言われたり嫌われたりすれば、俺はその場で昇天してしまう自信があった。


 それで詫びの代わりに、翌日トキを一箱買って帰った。

 何も知らない時子が大喜びするのを見ても、もう俺はただ彼女が愛しいとしか感じなかった。

 俺の分まで皮を剥き、皿にいくつも乗せて差し出してくる時子の姿に、やっぱり本当は夜明けを意味する「東雲」の方が似合うよな、と思ったりもしたが、それも言わなかった。



 そして現在。

 子供が生まれてから大忙しの時子は、頻繁に用事を頼んでくるようになった。こうして会社帰りに買い物に来ているのもその一環だ。

 俺が勝手に恐れていた事は本当に起きず、時子は毎日元気に動き回る息子と同じくらい駆けずり回っている。飯の間ですら落ち着かない生活だが、仕事も続けながら泣き言一つ言わずに頑張る姿は、後光が差すほど立派な母親だ。


 しかしたまには、時子も自分の好きな美味しいものをゆっくり食べたいだろう。

 そう思った俺は、夕方になると泣き出す息子と格闘する覚悟を決めながら、棚に並ぶトキの中から一番大きそうなものを探しはじめた。

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