第9話 黒猫がもたらす幸せ*村田圭吾の場合 ①
「それでは、ご家族の皆さま。最後のお別れです。どうぞお近くへ」
無機質な男の声が響く。
俺は、今、何をしているんだったっけ?
なんだか気持ちがふわりふわりと浮いているようだ。
「お父さん!もう、しっかりしてよ。ほら、お母さんと会えるのもこれが最後になるんだよ。早く!」
娘の
本当に眠っているみたいだ。
俺が声を掛けると「なあに、パパ」と起き上がりそうな気がした。
だが、流石にそうはならない。
妻の
悲しみが溢れていく中でも、業者によって式は淡々と予定通り進んで行く。
式後の通夜振る舞いでは、遠いところから来てくれた親戚や紗子の親しい友人達と少しだけ会話をして、俺は早々に別部屋に引きこもった。
昨日のことを思い出す。
仕事中に、急な知らせを受けた俺は、懸命に車を走らせたが、結局間に合わなかった。
病室に入ると沙也が「お父さん……」と抱きついてきたその時、あー、紗子は行ってしまったんだと分かったのだ。
それからは、目まぐるしく次から次へと様々なことがあり、ゆっくりと泣いている暇が無かったのだ。
だから、今から、、、思う存分泣きたい。
俺はそう思って両手を顔で防ぎ、嗚咽を漏らしたのだった。
妻、紗子とは、大学時代に知り合った。
大学時代を思い返すと、軽音楽部で苦楽を共にした友人達の顔しか浮かんで来ない。俺は、四年間、ほぼ同じメンバーとバンドを組み、作詞作曲とギターを担当し、大学の中ではそこそこ知れた存在だった。
紗子は、別のバンドでキーボードを担当していたが、その容姿と演奏のセンスでは、彼女に勝る人は俺の周りにはいなかった。
そんな彼女が俺と付き合い始めたのは、四年の夏、いやもう秋だったかもしれない。
大学を卒業したらどうする?なにがしたい?
俺らの周りの学生は、ほぼ全員そのことについて悩んでいたと思う。
専攻した科目を行かせるような就職先は中々無いし、じゃあ、保険の営業や不動産、食品加工工場など全く畑違いの場所でもいいのかと思うと全員が首を横に振っていた。
では、フリーターをしてでも、ミュージシャンとして生きる道を模索するかと聞くと、これまた全員首を横に振るのであった。
そんな中、俺一人、フリーター覚悟でミュージシャンへの道を選んだことは、すぐに部員に知れ渡り、何かと話題になっていた。そして、多くの部員から「止めた方がいい」といういらぬお節介を言われ続けたのだ。
だが、紗子は違った。
ある日、たまたま俺ら軽音楽部が入り浸っていた茶店で二人きりになった際、彼女は俺にはっきりと言ったのだ。
「私は圭吾のことをずっと応援するから。というか、私もその横にいさせて欲しいと思ってる」
俺は、余りにも突然の告白に、加えていた煙草を落としてしまい大事にしていたジーンズに焼けシミを作ってしまったっけ……。
「あー、懐かしい、、。ママは、いつも突然、大事なことを言うんだよな。ほんと、悪い癖だよ……」
俺は、静かな六畳の和室に寝転んで、紗子のことを思い出していた。
彼女は、いつも大事なことを突然言ってきた。
子供が出来たこともそうだし、貯金が五百万超えたときもそうだ。そして、、、癌になったことも……。
結局、俺は、大学を卒業すると、三つのバイトを掛け持ちしながら、プロへの道を模索していった。レコード会社に、デモテープを送ったり、アマチュアバンドコンテストに出たり、路上でゲリラライブをやったりとか、ありとあらゆる事をがむしゃらにやってきた。
きっと、一人だとそれだけのことは、やれなかっただろう。だが、俺の横には、いつもピアノを弾く紗子がいて、俺のギターに絶妙なフレーズを絡ませてくれたのだ。
その甲斐あって、二年後、ある小さな音楽事務所と契約をすることが出来たのだ。そして、半年後には、ミニアルバムを制作し、全国のライブハウスを回った。
今となれば、素晴らしい思い出だ。
だが、結局、俺たちはメジャーになることはできなかった。そして、俺はギターを捨て、サラリーマンに、そして、紗子は自宅でピアノ教室を始めたのだ。
それからの俺は、がむしゃらに働いた。
紗子と俺たちの大事な娘、沙也を守る為に……。
で、今に至るって訳だ。
時折、紗子から、「また、パパにギターを弾いて欲しい」と言われたが、俺はかたくなにそれを拒んだ。それは、ひねくれていた訳ではなく、紗子のおかげでやりきったと思っているからこそなのだが、果たして上手く伝わってただろうか!?
「ん?雨か?」
静かな部屋に、雨音が響いてきた。
俺は、窓を少しだけ開ける。ひんやりとした空気が部屋に入ってきた。外は、オシャレなランプが整然と並び、斎場の裏手に続く小路を照らしている。
すると突然、一匹の黒猫が飛び出してきた。
その猫は体中が綺麗な黒毛で覆われていて、とても品がある姿だ。だが、首輪は付けていない。もしかして野良猫だろうか?
俺が余りにも見つめたからだろうか、黒猫もこちらに目を向ける。とても綺麗な蒼色の瞳だ。珍しいなと思っていると、その黒猫が、俺にウインクをしたような気がした。そして、驚く俺のことなどお構いなしに、その黒猫は尻尾をリズム良く左右に揺らし、優雅にその小路を横切って行った。
「お父さん、、入っていいい?」
「あ、ああ、いいぞ」
沙也とその夫である
「お父さん、これからどうする?もし良ければ、私達と一緒に住まない?それくらいは出来るスペースもあるし、お金も大丈夫だからさ」
親としては最高に嬉しい言葉だった。
だが、まだ俺は五十九歳。一人でもやれる。そして、何より、紗子の面影が残るあのアパートにまだいたいと思っていた。
「沙也、、ほんとにありがとうな。ママもきっと感謝していると思うよ。だけど、俺は大丈夫。それに、まだあの部屋にはママがいるような気がするんだよ……」
俺は、話をしながら、大粒の涙をこぼしていた。沙也もまた泣いている。
あー、本当に、紗子は死んでしまったんだ。
俺は、これからどうすればいいんだろうか……。
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