夜への道

里岡依蕗

夜への道




 目を開けて、空を見上げると、星がとても綺麗だった。さっきまで見ていた時よりかは少し遠くなったけれど、真っ暗な殆ど何も見えない景色に小さな輝きが燦々と瞬いている。土の少し湿った匂いと、雑草の青臭い匂いが辺りに広がっている。持てる体力を使い果たしてしまい、しばらく動けそうにない。上がっている息を少しずつ整える。今日もまた失敗したらしい。


 「はぁ、また駄目だったか」

 夜がふけて家族が寝静まると、静かに窓から外に飛び降りて、もう何年も使い古して少し錆びた自転車でスピードを緩めながら、下り坂を走ってこの場所にやってくるのが習慣になっている。


 「ねぇ、いつになったらまた貴方に会えますか」

  何も返事がない。それはそうだ、僕以外は誰もいないのだから。静寂の中に微かに独り言が響くだけで、誰も返事をしてくれない。冷たくて気持ちいい雑草の上に放り出されていると、何とも言えない解放感と、少し伸び切った葉っぱが鼻に当たって少しくすぐったい。


 「あの日の一度っきりで、ちっとも顔を見せてくれないですね」

 まだ明るい時間にこの場所に来た時は、車が行き交うからなのか、何も聞こえなかった。この時間ならまた会えるだろうと、深夜に都度都度通いつめているのだ。

 雲一つない空で、静かに輝く星と共に神々しく夜を照らす月に、ゆっくりと右手を伸ばしてみる。案の定、月は掴めなかった。


 「私は貴方に会いたくて、こうやって来てしまっているのに……なかなか難しいものですね」




 数年前、思い通りにいかない自分に嫌気がさし、むしゃくしゃした気持ちを抑えるべく、夜道を歩いていた時だった。

 静かな住宅街、通りには誰もいないはずなのに、微かに誰かの優しい歌い声が聞こえてきた。声の方に歩いていくと、この辺りの人達は誰も近寄らない雑木林に辿り着いた。

 「こんな夜中に何しているんだ……? 」

 怖い物は得意ではないけれど、優しい歌声に魅了されてしまい、気がつけば暗い雑木林の荒れた獣道を手持ちの携帯電話のライトを点けて照らし、忍足で少しずつ踏み入れてしまっていた。何処かで聴いたことがあるような歌で、湧水のように透明でとても心地よい声だった。


 しばらく進んでも、声の主は現れない。少しずつ声は大きくなっているのに、肝心な声を発する主がいない。何故だろう、すぐ近くにいるはずなのに。必死に探す僕を嘲笑うかのように、声の主はのびのびと美しいビブラートを響かせていた。

 諦めずに歩みを進めると、開けた場所に出た。いくつか切り株があって、切り株の近くに小さな小川が流れていた。その中でも一番大きな切り株に白く煌めいた月光のような明るい光が降り注いでいた。声の主は、その大きな切り株に立ち、淡い光を浴びて、空に向かって手を伸ばしながら歌っていた。


 「わぁ……」

 生まれてから一度も女神を見たことはないけれど、こういう人を指すのだろう。見た目は女神というにはやや幼く、どちらかというと少女だった。腰まではある長くて真っ直ぐな黒髪に、くるぶしあたりまでの白いワンピース、透けそうな白い肌、まさに神秘的だった。

 「す、素晴らしい……! 」

 この一言に尽きてしまって、他に言葉が見つからなかった。歌声も容姿も、この世の者とは思えないほどだった。


 「……? 」


 歌声が止まった。手をゆっくり降ろして、初めて人を見たのか、舐め回すように僕を観察していた。その時になって、僕は何故こんな山奥に来たのだろうと不安になった。歌声に導かれて歩いて来たので、歌声が止まった瞬間に我に返ったのだ。


 「どなた様か分かりませんが、何用でしょうか? 」

 歌うのをやめた少女は、切り株に体育座りのように腰を丸くして座り、風鈴のような高い声で僕に話しかけてきた。素直に経緯を伝えた。

 「えっと、邪魔をしてしまっていたら申し訳ないですが、貴方の声に導かれてきました」

 「私の、声……? 」

 少女は見当がつかないようで、不思議そうに首を傾けた。

 「はい。自分でもびっくりしましたが、貴方の声がする方に歩いてきたんです。あまりにも素晴らしい歌声だったので、一体誰なんだろう、と気になってしまって」


 「そうでしたか、そのように言われたのは初めてです。……もしかして、あなたはこちらの方ではいらっしゃらないのではないですか? 」

 こちらの方ではない、というのはどういう事だろうか。彼女こそがこちらの方ではないのではないのか?

 「こちらは、まだ生きていらっしゃる方が訪れてはならない所です。貴方はまだ生きている。早くお帰りください」

 今、僕がいる場所は今までいた場所ではないという事か、それではここは、一体何処なんだろうか。空に雲がかかって少し肌寒くなってきた。

 「帰りたいのは山々ですが、帰る道が分からないんです。何せ初めてここに来ましたから」

 無意識に足が動きここに来た、というのが真実なので、元の場所に帰らないといけないのはひしひしと感じるが、道が全く分からない。思い悩む僕を鑑みて、少女はポケットから小さい白い折り紙で作った紙飛行機のようなものを取り出した。

 「貴方には特別に、帰り道を教えて差し上げましょう。ただし、ここであった事は誰にも話してはなりませんよ? 」


 彼女が折り紙を飛ばすともうきっと二度と会えないと察してしまった僕は、咄嗟に話しかけた。

 「あの、ここは、何処なんですか? 貴方は一体誰なんですか? 」

 答えるべきか否か、少女は戸惑っているようで、下を向いて目が泳いでいる。しばらく無言のまま固まっていたが、何かを決したような顔でゆっくり立ち上がり、折り紙の先を僕に合わせながら、ようやく口を開いた。


 「私達は、現世の皆様を、ここから見守っております。次はもう少し先に、お会いしましょう」

 そう言って彼女は右手に持った折り紙を僕に向け、そっとその手を離した。真っ直ぐ飛んできた折り紙の先が頭に当たった途端、そこら中全てが真っ暗になった。



 目を開けると、そこは暗い雑木林ではなく、自分の部屋のベッドだった。物凄く頭が痛い。ゆっくりと起き上がり窓の外を見ると、あたりは明るくなりつつあり、朝日がもう少しで顔を出そうとしていた。

 「夢、ではなかったみたいだな」

 枕元には少女が飛ばしてくれた小さな白い折り紙があった。



 その日以来、小さな折り紙は肌身離さず持ち歩くようになった。そして、どうしても耐えられなくなると、彼女に出会ったこの場所にやって来てしまう。後によく調べたが、雑木林の奥の少女に関する情報は見つからなかった。もう二度目はないのは分かっている。しかし、また彼女に会えるのではないかと度々訪れて中に立ち入り、我武者羅に疲れるまで走って、力尽きて荒れ道に倒れ、こうやって空を見上げるのだ。

 「貴方がやって来ないという事は、まだ僕は頑張るしかないんですね」

 何も返答してこないが、きっと言葉通りなら近くにあの少女はいてくれている、そう思うと少し気が楽になるのだ。恐らく、まだ貴方は来てはならないのです、と彼女は言うだろう。やれやれ。

 ゆっくりと立ち上がり、体についた土や草を払い、雑木林の入り口に向かい、真っ暗な荒れ道に深々と一礼する。

 「……お邪魔しました、失礼します」


 空を見上げると、今にも落ちてきそうなほど沢山の星が儚げに煌めいていた。


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夜への道 里岡依蕗 @hydm62

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