第36話 最終章 死地のその先2

 その翌日の朝。


「何だ。泥遊びにでも誘いに来たのか」


 ここに至るときに、馬に乗って来ようとしたのだが、足が泥に取られ転んでしまい、馬上のこの者は泥中に投げ出され、泥まみれとなっておったのである。


 ただ、たったその一言ひとことで怒髪天を突いたのは、そのようにからかわれたゆえではなかった。そもそも抱いておったいきどおり――それはここに来た理由でもあった――に油をそそがれたのだった。


 言われたのはチャアダイであった。


 言ったのはジョチである。その隊は、水につかっておらぬ高所を選んで、陣を張っておったのだが、そこに至るには、そこかしこに残る泥濘を何度も抜けねばならなかった。




 そもそもここに至るを止める者が、チャアダイの陣営におらなかったのか。何せ、2人が犬猿の仲であることを知らぬ者はおらぬと言って良い。しかし、皆、虚を突かれた形となった。それもこれも、南城侵攻の失敗のゆえである。


 少なからずの者はあるいは放心し、あるいは悲惨な結末の原因を究明せんとしておった。その元凶としてあるじたるチャアダイを考えた者はおった。しかし、その心の内を推し量り、この挙を予見しえた者は皆無であったのである。




 ところで、このチャアダイが何故こうなったかといえば。まずは昨日のことである。侵攻失敗が決定的となったあとのこと。


 結局南城侵攻は三千近くの将兵を失う大失敗に終わり、各隊は城外に引き退しりぞき、戦略の見直しを迫られた。トルン隊とチャアダイの将の一隊のみが従前の如く北城内の拠点に留まるべく命じられた。


 チャアダイは城外に撤退した後の軍議にても、一体どこの誰が破られたのだと、ボオルチュにもオゴデイにも噛み付いた。この時になってもまだ敗戦の責任を、大きな犠牲の責任を他の者になすりつけようとしており、カラチャル始め何とか生き延びるを得た諸将が絶望的な表情でその言動を見ておっても、改めるということはなかった。


 そしていずれの門も破られておらぬと知り、どうやら敵は北城に面する城壁に設けた隠し門から出て、その間を隔てる運河に板橋をかけて渡ったようだと聞いてもまだ喚いておった。


 救援に駆けつけたトルン隊の中にも、後続の敵がそうやって渡るのを目撃した者がおり、既に報告を受けておったトルンはそう証言したが、


「だから何なのだ。敵が渡るのを見ておきながら、何故それを許したのだ」となおほこを納めなかった。


 遂にはボオルチュに次の如くにさとされることになった。


「チャアダイ大ノヤン。確かに作戦にて事前に決められておらなかったとはいえ、カラチャル隊が南城に入った後に、旗下の隊を率いて橋前に布陣すべきであったと想われます。そうしておれば、運河を渡る敵をもっと早くに発見できたでしょうし、またたとえ奇襲を受けたとしてもこれほどの大崩れとはならなかったでしょう。カラチャル隊に道を譲ってそのまま路地に留まったゆえ、万人隊という軍勢の多さも活かせず、犠牲を大きくしたと想われます。実際、大ノヤンの軍勢は敵が渡ったところの最も近くにおったのです。それが奇襲を受けるまで一人も気付かなかったのは何故なのかを、まずは考えるべきでしょう」


 こう言われてはチャアダイもあきらめざるを得ぬようであった。


 ただ、その夜、体はいくさのために泥の如く疲れておったが、頭だけはさえておった。とこについても、まったく眠れなかった。ただ、やがて敗戦の責任者を見つけ出した。ジョチがこちらの要求に従い、フマル・テギンを引き渡しておれば。それを拒んだゆえ、隠し門とやらをあらかじめ知ることができず、今回の事態を招いたのだ。全てはジョチのせい。ジョチが悪い。そうなった。いきり立ち、その後も眠られず、夜明けとともに近習のみを連れ、ここに至ったのであった。


  人物紹介

 モンゴル側

ジョチ:チンギスと正妻ボルテの間の長子。


チャアダイ:同上の第2子


カラチャル:チャアダイ家の家臣。万人隊長。南城侵攻作戦においては、南城内への侵攻部隊の指揮官を委ねられた。


オゴデイ:同上の第3子


ボオルチュ:チンギス筆頭の家臣。アルラト氏族。四駿(馬)の一人。万人隊長。


トルン・チェルビ:チンギスの側近。千人隊長。コンゴタン氏族。ウルゲンチ攻めにては、ボオルチュの配下となっている。

  人物紹介終わり

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