第34話 ブハーラー戦8:声8:何の特徴もなき男と長老の場合

  人物紹介

長老(シャイフ):ブハーラーの商人たちのグループの指導者。


何の身体特徴もなき者:長老に仕える者


唇寒き者:ブハーラーの商人のグループの構成員であったが、オトラルのイナルチュク・カンの下に至る途中で、離脱した。


  人物紹介終了



 果たしていつからその想いを抱き続けておったのか。もしかしたら物心ついたとほぼ同時に。ただ、それをなすことなく済ますことができたらと考えておったのも事実であった。罪を犯したくはなかった。


 モンゴル軍が殺してくれたならば。正直、そう想っておった。というより、それを願っておった。


 ただ、主人は、敵のカンの命令、


『お前たちに、スルターンが我の隊商から強奪した財産が渡っておろう。それを我に返せ』との


 それに従うことで、生き永らえようとしておった。主人にとっては、命乞いのための賄賂に過ぎず、そのなしたことを想えば、むしろ割安な出費に過ぎなかったのではないか。


 主人が、この戦を招いたのでなかったか。首謀者ではないのか。全ての元凶ではないのか。


 己自身は会合に出席したことは、一度もなかった。しかし大略は〈唇薄き者〉から聞いておった。後には、彼からの手紙にて詳細を知るを得ておった。


 どこまでが、主人にこの惨状を招いた罪をあがなえさせようとしてであったか。


 どこまでが、このところ、うち続く背中へのむち打ちによる打擲についに耐えかねてであったか。上着をはおると、その重さでさえ、激しい痛みにさらされた。しかも、すぐに血に染まる。ゆえに、白の上衣はこのところまとっていない。それを隠すために、色の濃い衣を常用しておった。


 そして、どこまでが、代々の奴隷――己は母よりこれを引き継いだ――の足かせから逃れるためであったか。


 その日のたそがれどき、〈何の特徴もなき男〉は、全身を震わせ、屋敷の外に出た。


 何によるのか。冬のこの時期に汗ということはあるまい。その色の濃い衣でさえ隠せぬ大きな染みが体の前面についておった。ならば、むち打ちの傷からのものであるはずがない。


 彼は屋敷を少し離れて、一つのものを捨てた。しなびた長老の陰茎であった。


 その様をうかがっておった野良犬が、彼が歩き去るのを待って、すぐにそれをくわえていった――想わぬ御馳走にシッポをふりふりして。


 打擲の後、いつもの如く己の体を求めて来たので、懐剣でそれを切断したのだった。ここまで持って来て捨てたのは、それが再びくっつけられるのを恐れたゆえであった。


 果たして、そんなことができるのかは分からなかったが、主人は莫大な財産を持っておる。モンゴルに多少取られたとしてさえ、残りでブハーラー1番の医者を呼ぶことができるほどに。それを憂いたのであった。


 〈何の特徴もなき男〉は〈唇寒き男〉の屋敷を目指した。


 やがて礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえる。モンゴル軍が進駐し、夜間外出禁止令が布告されておった。ゆえに、モスクへの赴きは免除されており、外に出ておる者もおらぬ。そんな中、1人歩く彼の衣の染みを、夜のとばりが隠し行った。

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