第33話 ブハーラー戦7: 声7:副長老の場合2

 副長老は昨日から、半狂乱の如くとなって自らを責める妻の声を聞かされておった。


「なぜ、あなたは止めなかったの。いつも酔っ払っているから、何もできなかったじゃない」


 昨日の朝のこと、モンゴル兵が急に来て、我が家の一人娘を連れて行ったのだ。結婚してずい分経ってから、ようやくできた娘であった。


 妻の気持ちも分かる。ただ妻の非難は、半分は当たっており、半分は的外れであった。的外れなのは、酔っているということだった。我は酒を呑めども、まった酔えなくなっておった。当たっているのは、何もしなかったということだ。


 ただ理由はあった。それも正当なる理由が。モンゴル兵とは顔を会わす訳にはいかない。


 それを機縁にして、

――神の定められた終章が、

――我とあの者の終章が、

――始まるゆえに。


 奴らは、我をこそ捜しに家に来たのだ。にもかかわらず、我を見つけられなかった。だから、仕方なく、娘を連れて行ったのだ。


 これは間違いないことだった。

――我が内なる声が告げる、そのゆえに。

――そして妻は、我が何をなしたかを知らぬゆえに。

――そして今日、やはり我が徴集されたゆえに。


 そして命じられた。ブハーラーの本丸の濠を埋めよと。これが我のなしたことへの罰か。


(注:本書では一般に城塞・城砦と訳されているものを、その軍事機能から本丸と訳しています)


 我の他にも、同じ命を受けておる者がたくさんおった。とすれば、この者たちも我と同様、何事かの罪をなしたとなる。神に呪われる如くのものを。


 確かに、それは罰と言い得るものであった。未だ本丸に立て籠もっておるホラズム兵が矢で狙い撃って来る、その状況でなさねばならなかったゆえに。


 そして、見た目以上の地獄絵図と言い得るゆえに。一方にすれば、同国人に矢で狙い撃たれ、他方にすれば、同国人が敵軍の攻め落とす手伝いをしておる。


 我は、布袋を首にかけて、腹の前当たりに垂らし、それに石を入れては、両手で支えて、濠まで運んだ。何度か往復しても、矢に狙い撃たれることはなかった。


 神は、我を見逃してくれておるのかもしれぬ。神は、我のなしたことを知らぬのかもしれぬ。そう想えて来た。


 他に既に狙い撃たれておる者がおった。あれらこそが、神に呪われるべき何事かを、より罪深き何事かをなしたに違いなかった。


 我が矢で射抜かれておらぬこと、我に矢が当たっておらぬこと、それが何よりの証。


 ただ同時に困ったことが起こっておった。手が震え出したのだ。酒が切れたのだった。


 それを抑えるためには、酒が必要なのは明らかであった。とはいえ、家に戻ることはできぬ。ここより逃げようとする者は斬るとのあの者の命が出ておったし、実際、それをなそうとした者の死骸がそこかしこに転がっておった。


 このまま、これを続けるしかなかった。


 そう想いなし、震える手で袋をひっくり返し、石を放り捨てようとした時、その震える手がいうことをきかず、袋をうまくひっくり返すことができなかった。


 ただ袋には、石を捨てようとした勢いがついておれば、それに首を引っ張られた。想わずバランスを崩し、濠に真っ逆さまに落ちた。


 ただ幸いだったのは、水面まで至らず、途中で止まったことだった。必死で伸ばした手足のいずれかを岸にひっかけるを得たのだ。残りのブラブラしておる手足で支えを求め、何とか頭を上にするを得た。


 我は神に呪われておらぬ。この時、ようやくそう想えた。


 我は〈唇寒き男〉の戯れ言に感化されておったに過ぎない。


 急いで上がろうとする。ただ首にかけた袋には未だ石が入っており、ゆえに重く、なかなか体が持ち上がらない。


 なぜ、頭から落ちたとき、袋が外れて落ちなかったのか、せめて石だけでも落ちてくれれば、と想う。


 と同時に、不安になる。これは、もしかしたら、神意なのではないかと。


 ただ想い直す。もし、石の入った袋や石が落ちる際に、我の頭を直撃しておったらと。我はただでは済まぬ。いずれにしろ、ケガをしよう。となれば、果たして、こうして留まるを得たか。


 むしろ、これこそが神意であると。神は我の死を欲しておらぬと。


 我は神の定めた終章が、我の予想と異なっておる可能性があることに――こと、ここに至って、ようやく気付くを得たのだ。神は全知であれ、人は全知たりえぬ。我は、いつのまにか、傲岸にも、自らを全てを知っておる如くに想いなしておったのだ。


 ただ石を捨てるには、少なくとも片手を岸から離さねばならず、更には、体と岸の間に少し間を開けねばならない。下に落ちそうで、とても恐ろしくてできない。


 ようやく少し上がったと想ったら、手がかり足がかりとする岸の土が崩れ、ずり落ちる。


 そうこうしておるうちに、石が上から降って来た。矢に射られるのを恐れて、ろくに下も見ずに急ぎ石を捨てておるに違いない。


 「石を放るな。やめろ」と叫び、更には同様の言葉を何度も叫ぶ。


 果たして、その声が聞こえないのか、石は続々と落ちて来た。


 やがて、副長老の声は半ば枯れ果て、叫んでもまともな声にならぬ中、石に打たれ、ずり落ち、石に打たれ、ずり落ちを繰り返す。


 やがて足が水面につき、やがて腰が水に濡れ、やがて首から下がすっかり水につかる。あがいておると、口の中に泥水が入り、想わずむせる。ただ、ここで副長老は確かな足がかりを得た。石の如くが岸から突き出ておったのだ。


 我には神の恩寵がある。そう確信し、神をたたえる言葉を声高に叫ばんとするも、声はまったく枯れ果てておった。




 やがてブハーラーの濠は埋められた。

 副長老もろともに。

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