第32話 ブハーラー戦6: 声6:〈太っちょ〉の場合

 ブハーラーの商人グループの一人。長老、副長老に次ぎ、グループ内ではナンバー3と言って良い〈ふとっちょ〉。


 同居する家族――妻との間に子はできなかった――祖母と妻には決して外に出るなと告げた。にもかかわらず、自分は外に出た。




 住民勢をまとめる者たちからは、既にお触れが出ておった。


『ブハーラーは、モンゴルに降伏開城した。よって、モンゴル軍が城内に入るので、決して戸外に出るな』


 それにもかかわらずの〈太っちょ〉の行いであった。




 不満があった。

――モンゴルに降伏したことも。

――ブハーラーにモンゴルのやつばらが足を踏み入れることを許したことも。

――何より、己がこの出来事の導きをなしたことが。


 なぜ、己はあのようなことをなしたのか? その己に対する怒りは、身を震わせるほどであった。にもかかわらず、それは己を焼き尽くしてもくれぬ。地獄の業火ごうかではなかった。あくまで、それは己の内なる炎であった。


 己が誤った導きをなしたならば――それを正すには、次に正しき導きをするしかなかった。


 このことを副長老と一度話した。副長老も、あれは誤りだと認めておった。ただ酒にすっかり溺れており、『なんとかせねばなりますまい』といくら訴えても、目は虚ろであり、反応はかんばしくなかった。




 外城の城門の前から少し離れたところ――ブハーラーの自慢の1つは大通りの広さであった――その大通りに面したところ――建物に挟まれた狭い路地に入り込んだところ――そこに身を潜めて待つ。


 手には剣。ブハーラーの守備隊に配られたものだった。その義勇兵に〈太っちょ〉も応募したのだった。剣をふるったことなどなかった。己のなりわいはあくまであきない。人を殺したことなどなかった。


 否、我々のそそのかしのせいで、オトラルのイナルチュク・カンは、モンゴルの者たち――やはり商いをなりわいとする者たちを惨殺したのであった。


(この状況は報いなのであろうか。これから起こることは、天命なのであろうか。であるならば、やはり、己のあやまちは、己で正すべきであった)


 剣を握りしめる。その手は既に汗だくであった。やがて城門が開かれる音が聞こえた。


 まだのぞきはせぬ。見つかる訳には行かなかった。これまた、ブハーラー自慢の美しき石畳いしだたみ――それを打って響き渡る足音が聞こえる――人のそれと共に騎馬のそれが。想いの他、ゆっくりとしたものであった。いや、そう感じるのはただ、己が心臓が激しく脈打っておるゆえかもしれぬ。




 ずい分と待った気がした。


 副長老の言っておったことが想い出される。どうして、我らは〈唇寒くちびるさむき者〉の言に従わなかったのかと、後悔しておった。


 己は考えが異なった。あの者が神意に通じた者とは、とても想えなかった。なぜなら、神は兆しを示されておったではないか。若かった〈デコの広い者〉は死んだ。そしてありえぬ大雨。


 〈唇寒き者〉は、それらを見て、言葉に出したに過ぎぬ。我らは何も見ておらなかったのか。そんなはずはあるまい。実際多くの者がオトラルにたどり着けなかった。我ら3名のみが至ってしまった。


 そのわずか3名が誤った導きをなしたのだ。他の者たちの方が、多くの者たちの方が正しかったのだ。決して〈唇寒き者〉のみではない。




 やがて、建物の隙間から、人が見えた。旧知の者――ブハラーの住民勢をまとめる者たち――が3人。


 1人はカーディー(イスラーム法シャリーアの裁判官)たるバドル・ウッディーンであった。もし、あの者が我らのなしたことを知れば、我らは石打ちの刑を宣告されよう。


 その3人が先頭を自らの足で歩いておった。白き上下の服に、上着として更にチョパンをまとう。ターバンの下の顔がいずれも厳めしきは、城門を開け放ったゆえに、より一層強く大通りを吹き抜ける寒風のせいのみではあるまい。


 城門が崩れ落ちるまで、戦うべきではないのか。やはり、その不満が首をもたげる。


 3人はまるで馬夫の如くに見えた。そのすぐ後に見慣れぬ戦装束いくさしょうぞくの騎馬の軍勢が続いており、まるでそれを導くが如くであった。


 黒い悪魔の頭の如くを、穂先のすぐ下に付けた槍――それが先頭近くで、かかげられておった。そのザンバラ髪の如くに見えるものが、風になびく。


 そのかたわらには、一際派手な鎧武者よろいむしゃ


(あいつで良い)


 そう決めた。モンゴルを率いる奴がチンギス・カンとは、知っておった。あいつがそうかは、分からぬ。ただ己は導きをなせば良い。ならば、後に続く者がおろう。


 今回は必ず正しき導きを。


〈太っちょ〉は剣を片手持ちから両手持ちに変える。


 まばらに散る季節外れの花びらの如くに舞う雪は、剣を握る手許に落ちては、溶ける。〈太っちょ〉は、そこより神意を読み取ることができなかったのか。あるいは、そもそも、そこに神意はなかったのか。


 いずれにしろ、叫び声を上げつつ、路地を飛び出した。その叫び声は、震えを帯びておった。


 その頭の中で想い描くは、

――護衛の者たちの騎馬の足をなで斬りにしたうえで、その首をかき斬る。

――それに驚きあわてて転び落ちた鎧武者が命乞いをするも、許さず、その首をはねる。

――そして戦い抜くべきとの、導きの声を上げ、それがブハーラーの空にとどろく様。


 ただ、実際は狙った人物に至ることもできずに、一番手前におる騎馬の足さえ払えずに、ただ馬をおどかしただけであった。


 棒立ちにならんとする馬をしずめたモンゴル兵の槍に、刺し貫かれた。


 薄く積もる雪を自らの血で赤く染める。ただ、自らその場でために、それは石畳の上の土ぼこりで汚れた。いまわのきわ、余りの痛みのために、もだえの声をあげつつのことであった。

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