第31話 ブハーラー戦5: 声5:副長老の場合1

 そしてあのブハーラーの商人グループの一人。副長老もまた。ただこの者が逃れようとするは、その轟音ではなかった。その内なる想いであった。


 いつからであったか。そう、恐らくは商人仲間の一人が、モンゴルのカンが、ホラズム征討の軍を発したと聞いた時から。ただ正直あの時は半信半疑であった。そんなことはあろうかと。


 ただ心の内には、なにがしかの不安が常にあり、それを追い払うために、毎夜、酒が必要になった。




 かつてカラ・キタイがブハーラーを一時支配下に置いたときのこと。その駐屯する武将に頼まれて購入したものの中に、キタイ人たちの信仰する偶像をかたどった品があった。それは玉製であり、そのつややかな美しさに魅了された。結局、見つけられませんでしたと嘘の報告して、己のものとしたのだが。


 ただ、そのことがわざわいを招こうとしておるのではないか、神の怒りを招こうとしておるのではないか、そう想えて来た。不安にいたたまれず、酔いもあって、ついにはそれをたたき壊したのであったが。


 ただ、今、想い返せば、あの時はまだ酔うを得たのかとの皮肉な感慨を得ると共に無益なことをしたものだと想う。そんなことが、こたびのことに関係のあろうはずは無かった。




 そして、酒量が明らかに増えたのは、この冬、モンゴル軍がオトラルの北、サイラームに進駐したと聞いてから。その時から、いくら飲んでも、心の平安は得られなくなった。




 我はなぜあの時、〈唇寒き者〉の言葉に従わなかったのだろうか。いくら想い出そうとしても、できなかった。


 我には根拠があったはず。


 果たして何であったか。


 我はなぜ、モンゴルの隊商を留めるべく、イナルチュク・カンに勧めたのか。


 我には確信があったはず。


 我は、なぜ、わざわざオトラルに赴いたのか。


 我には理由があったはず。


 全て失われておった。


 なぜ、神は我に声を届けてくださらなかったのか。


 なぜ神は我ではなく、〈唇寒き者〉を選ばれたのだ。


 なぜ、神は我を導いてくださらぬのか。


 まったく酔えぬ中――そのこいねがう神の声が聞こえることはなく――ただ自らを責める声のみが聞こえ続けた。


 モンゴル軍の投石が当たる度に立てる轟音でさえ、その声を聞こえなくすることはできなかった。


 副長老はボソリとこぼした。


「呪われておる。神は我を呪われておる。我は神にとってのイブリース(コーランに出て来る悪魔)となってしまったのだ」


 ただ、その認識に達してさえ、酒を喉に流し込む以外に、なしうることを見出せなかった。




 かつては自らの目を確かに楽しませたもの。他の商人たちと競う如くにして、集めたもの。


 その異様なほどの細やかさこそが、神の限りなさに通じると――かつては確かに想えた金・銀細工の皿や壺――これらは比較的近い地で手に入れた。




 遠く金国にて造られたと聞く品々もあった。


 蛇に足を生やしたごとくが雲間に舞っておる様が、青色で描かれた白磁の壺。

 

 黒磁の皿は、その内に得も言われぬ文様をたたえる。そこに、この地のモスクをいろどるモザイクの醸し出す美しさに劣らぬものを見出した。

 

 前者はランプの光の下で無限の移り行きを見せ、後者は陽光の下でという違いはあれ。


 遠き東の地にあって、神の恩寵を知らぬにもかかわらず、これらを作り出す者たちの技巧――見る度にそれを賛嘆し――また己が物にし得た喜びにひたることが、確かにできたのであったが。




 今はずっとタングート(西夏のこと)産のラクダの毛織りの衣――しかも、より高価な白ラクダの毛のみを用いたそれ――をまとい、暖を取っておった。これだけは役に立ったが、他のものは全てガラクタと化しておった。




 否、酒杯に用いておる銅製のカップも、また例外であった。その内には、常に赤ワインが満たされておった。飲み干すたびに、自ら注ぐゆえであった。


 それは、己が初めて遠隔の交易に加わり、タラスのバザールにて買ったもの。決して高価なものではなかったが、記念の品であり、お気に入りであった。


 宋国より流れて来た銅銭を溶かして造った珍しきものとの触れ込みを、売り文句としておった。もちろん本当かと疑いはしたが、いずれは己も宋国にとの想いがあって、その機縁となればと、買ったのだった。


 結局、宋国に行くことはなく、己が至った東の果ては、ウイグルを経てのタングートの首都たる中興府であったが。




 まさに、そのウイグルやタングートに赴いたのも、あのモンゴルのチンギス・カンの勢力が伸びる前のこと。己の若かりし頃のことであったが。そうしてみれば、あの者は、ずい分以前より、我の人生に影響を与えておったことになる。


 ならば、果たして、これから起こるであろうこと――それは神ならずとも、予言者ならずとも、つまり我でさえ、十分に予測しえるものであった――それが我とあの者の終章ということであろうか。神はそのような終わりを望まれておるというのか。否、それに留まらず、既に定められたというのか。

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