年末年始

今衣 舞衣子

帰省

 車内の熱っぽさが外気に晒され、途端に頬を刺す冷気に思わず眉根を寄せた。今一度、ドアを閉じようとすれば、前席から冷気に似た声が耳をつく。


「何してんの。早く降りなさいよ」


 助手席から中途半端に向けられた母の横顔からは三時間十五分の疲労が感じられた。

 気づかれない様に吐息をつき、足を外に放り出す。足先から頭頂部まで一直線に芯が冷えた。はぁ、と吐き出した息は真白く、惜しみなく寒空に溶けていく。


 足場のおぼつかない砂利道を踏み込み、小高い丘から眺めた目下に広がる景色は、息を呑むほどに恐ろしく雄大であった。

 細々こまごまと家々が点在しており、その集合体を山々が囲っている。他を差し置いて抜き出た背の高い建物が一つもない。

 強いて言えば、この丘に位置する篠田家の日本家屋が都会のビルの役割を成しているのか。しかし、建物自体は平家で横に大きく、おそらく奥行きもあり、縦にも大きいに違いないが、高さを成すのは丘の上にあるおかげであって、都会のビルのような競争的で、他を萎縮させる冷たさは感ぜられない。

 まるで民の幸福を願うように豊かな自然を慈しみ、この土地を愛し、国を築き上げた将軍のような気持ちを抱かせる。

 遠くを見据えると、こんなにも空は広く、それに劣らず山は大きいのか。と感嘆の吐息が溢れた。


「相変わらず、絶景ね。あの山超えて来たのよ」


 砂利を踏み締める音と共に傍へやってきた母の横顔は嬉々としていた。口元に深く刻まれた皺が母の気持ちを透かしている。

 荷物を担ぎ、こちらにはやってこない父。ここからの景色を幼少期から幾度も目にしている父には、今更この感動を共有できるほどの心がない。


「帰りは頼む」


 父は母に向けて車のキーを揺らした。母は是とも否とも言わず、手を差し出し、受け取った。こうしたあっさりとした性格が二人の関係を良くしているのだと思う。


「ただいま〜」


 広々とした玄関で父は声を上げる。その声は少年のような垢抜けない響きを帯びていた。奥の方から小さな足音がこちらに向かってくる予感がした。

 父は靴を脱ぎ、土間に上がる。僕と母は、靴のまま突っ伏していた。この家の主が現れ、挨拶を終えるまでは土間に上がらない。家族になったと言えど、こうした何気ない瞬間に僅かな境界線が顕になる。


 最後にこの家を訪ねた十年前の夏。その日も僕は車内の冷気で冷えた母の手を握って突っ伏していた。先に土間に上がる父の背中が丸く小さく、日中の猛暑に喉が乾き、急いで家へ上がる少年みたく、あどけない様に見えたのをよく覚えている。

 今日こんにちの父の背も肩を縮こませ、丸くなっていた。暖を求め、居間へ駆けてしまいそうな気がした。


「あらあら、冷えるでしょう。早く上がって」


 まるで父が当たり前に家にいる様に軽く視線を交わし、玄関口で佇む僕と母のもとに駆け寄る、着物を召した女性は父の母で僕の祖母。


「お母さん。お久しぶりです」


  母さんは礼儀よく頭を下げた。僕もそれと同じく頭を軽く下げる。母さんが祖母をお母さんと呼ぶこの歯痒い違和感は幾つになっても払拭できないのだろうか。

 祖母は、まとめた白髪頭を下げる。淡雪色の着物に、こうした礼儀作法は様になる。


「元気そうでなによりです。どうぞ、来年もよろしくお願い致します」


 紡がれた言葉は抑揚が滑らかで、とても聞き心地が良い反面、何度目かに吐き出された言葉のためか、すーっと耳を抜けていく。


「さっ。そんなに、かしこまらなくて良いのよ。冷えたでしょう。上がって」


 祖母との挨拶を交わし、ようやく僕と母は土間に上がった。その頃にはもう父の姿はなかった。


 やはりこの家は奥行きがあり、廊下が入り組んでいた。熱を逃さない為か、通り過ぎる全ての襖は閉ざされており、中を覗くことが出来ず、何の道標みちしるべも掴めない。


 この家で一人で行動するには探索を楽しむ好奇心が無ければ、寒気で凍死を覚悟するしかない。はたして、十年前の僕ならば、楽しむことが出来ただろうか。否、相変わらず僕は母の骨張った手を掴んで離さなかったに違いない。


「それにしても、いっくん大きくなったわね」


 突然に目の前を歩く祖母がこちらに目を向けた。縁が青く白濁はくだくとした瞳は果たして僕を捉えているのだろうか。

 僕は何て言葉を紡げば良いか分からず曖昧に微笑した。


「こんな小さかったのに。こんなに」


 ね〜?、と祖母は母に視線を交わす。母は祖母との会話を跳ねさせる為か、僕に目配せながら「百七十六だっけ?」と伺う。

 僕は「そのくらい」と答えた。祖母は「まあ、立派なこと」と感嘆の声を上げる。僕はまた曖昧に笑った。

 実はこの冬、百七十八になったとは言わず、この会話を終わらせた。もし、この場が学校で同級生の前だとしたら豪語していたと思う。しかし、今はその張り合いの必要がない。

 目の前を歩く祖母と母のつむじがどちらに巻いているか、答えることが出来る僕に、二センチの違いはどうでも良い事だった。


「ここの部屋使って」


 襖を開けると、生暖かい空気が廊下に流れてきた。僕達が来ることを見越して、ストーブで暖められた部屋に僕は滑り込む。

 大人三人で寝そべってもかなり余裕のある間取りだ。その部屋に加えて隣の部屋も使って良いと祖母はそちらの部屋の襖を開けた。無論、その部屋に漂う空気もこちらの部屋と同等であった。

 僕は隣の部屋を使うことにした。僅かな荷物が詰められたボストンバッグと共に敷居を跨ぐと、どっと気怠さが全身に流れ込んできた。ストーブ前で座り込むと、もう立てる気がしない。

 隣室では母と祖母が言葉を交わしている。


「もう明希さんとこも里恵さんとこも広間に集まってるから、準備出来たら来て」


 祖母の言葉に母は「里恵さんは久々。明希さんは時々連絡取ったりしてます」と会話を途切れさせない。

 祖母は「あら、そうなの」と喜ばしげに声を上げた。

 母と祖母、どちらも声高である。


 僕は徐にポケットからスマホを取り出した。マスクを外し、ロックを解除すると緑のアイコンに赤背景白文字で数字の2が浮いている。タップして覗いてみると、"みつるが写真を送信しました"というメッセージが目に入る。長押しをして確認すると、あまりのくだらない写真に鼻で笑った。

 返事をする気力のない僕は、そのままアプリを閉じた。


「つむちゃんとあーちゃんが作ってくれたのよ」


 ふけるものがなくなった僕の耳に祖母の声が響く。つむちゃんとあーちゃん。僕は記憶にない名前を耳にした瞬間、広間へ行くことが億劫おっくうに感じた。


「あら、凄くわかりやすい」


 母の褒めそやす声は何に対してなのか、僕は気になった。不思議と気怠かった体も動き、母と祖母のもとへ向かった。

 母の背後から手元を覗くと白紙に濃い鉛筆でこの家の間取りが描かれていた。決して上手いとは言えない、遊び心で描かれた線はブレブレである。しかし、どこに何があるのか、それを紐解く為にはないよりはある方がましと思える出来具合であった。


いつき、あーちゃんと会ったことないっけ。つむちゃんはまだ赤ちゃんだったかな」


 母は上目遣いに僕をみた。この間取りを描いた製作者の一方は十年前の夏に顔を合わせたことがあるらしく、もう一方は存在を認めたことすらなかった様だ。


「記憶にない」


 僕は記憶を探る努力をしなかった。そうよね、と溜息混じりに吐き出された母の言葉をよそに、間取り図にスマホをかざし、フォルダーに収めた。


 祖母が去ったのち、僕は母が荷物の整理を終えるまで待った。母に「先に行きなさいよ」と言われても僕は「うん」と返事をしつつ、その場に居座った。

「そんなで親離れが出来るのかしら〜」と嫌味っぽく吐き出された母の言葉に僕は「うん」と鼻で返事をする。それから母は何も言わなくなった。


 ようやく荷物の整理を終えた母と廊下に出て、間取り図を頼りに広間へ向かった。

 手元の用紙に目を向けるよりも耳の方が頼りになると感じた。


「子供の声って頼りになるわ」


 母も同じ事を思ったようだ。どのみち、僕達を広間へ導いてくれたのは間取り図の製作者であった。


 子供の声が耳を突き破る大きさになった頃、僕の心臓はバクバクと鼓動を増した。母はそんな事を知らず、襖に手をかける。

 中に入ると一瞬にして、広間の温さが全身を包み込んだ。


「景子さん、お久しぶり!」


 甲高い声が母の名を呼ぶ。


「樹くん、こんなに大きくなって」


 僕を目にするなり、大人たちの第一声はお決まりの様だ。


「今、高三…?春から大学生?」


 僕に問うように眼差しが向けられた。僕は咄嗟に「はい、大学生になります」と答える。


「「ん〜立派」」


 二人の女性の声が同じ響きを持って囁かれる。


「うちの陽介、覚えてる?一個下。あそこにいんの」


 一方の女性が向けた視線の先には、長卓ながたくの端の方でタブレットに注視している青年がいた。


「もうずーっとアニメ見てんの。歳近い子がいないから退屈してんのよ。仲良くしてあげて」


 そう言葉を残して女性達は母を連れて広間から去っていった。微かな出汁の匂いから察するに台所へ向かったのであろう。


 ひとり残された僕は、まずどこに座るべきか考えた。長卓の奥の方では酒気を帯びた男達四人が固まっている。その中に父がいた。既に頬は赤らんでおり、湯に浸かる猿のようであった。

 真ん中には誰も座っていない。しかし、卓の上に包み紙のチョコレートやゲーム機が散乱しており、今僕の周りを駆け抜けた子供達の定位置であろうと悟った。

 結果的に僕は手前の端にいる陽介の隣に座った。向かいに座るのも良いと思ったが、人々が似たもの同士で群れる中、僕も誰かと群れる事で心が救われた。


「あ、ども」


 僕が傍に腰掛けると陽介はイヤホンを外し、軽く会釈した。この動作に少し救われた。もしかしたら陽介も僕と同じように群れたかったのかもしれない。


「覚えてる?」


 僕は自嘲じちょう気味に問う。


「一緒にゲームやったかも」


 陽介は首を傾げ、浅く笑う。僕は記憶を探るふりをして、あたかも思い出した様に「あー」とワントーン上げた声をだす。

 すると陽介は外したイヤホンを指先で転がしながら「高三でしたっけ」という。僕は積極的に話を広げる陽介に少し驚き、言葉なしに頷いた。

 咄嗟に「高二?」と知っている答えを聞き返した。陽介も同じく頷いた。


「今って受験勉強の時期じゃないんすか」


 陽介は話の主題を僕にしたいらしかった。僕は「あ、推薦で」と答える。

 すると陽介は得心したようで眉を持ち上げた。


「頭良いっすね」


 微笑を添えて呟かれた言葉に僕は「そんな事ないっす」と控えめに笑い返した。こうして僕達の会話は途切れた。陽介は再びイヤホンを耳に収める。

 僕はポケットからスマホを取り出した。今こそみつるに返事する場面であると思ったのだ。トーク画面を開き、くだらない写真に"翼授けすぎw"とメッセージを添える。そしてフォルダーに収めたばかりの間取り図を送り返した。


「チビたち〜、お菓子とゲーム片して〜」


 鼻をつく香ばしい匂いに顔を上げると、母さんたちが両手に大皿を持ち、卓に置き始めていた。寿司、焼き鳥、煮物など食卓を彩る香りに空腹を感じた。


「ゲーム捨てるよ!」


 無邪気に駆け回る子供たちに怒涛が注がれる。最終警告に流石の子供達もしおしおと席につき、お菓子やゲームを忍ばせた。


 途端に廊下の方で女性達の甲高い声が重ね重ねに響いた。何事かと開け放たれた襖の方に目をやると、祖母が満面の笑みを添えて「澪ちゃん来ましたよ」と奥の方で飲み交わす者たちにも届く様に声を上げた。

 その名前を耳にした瞬間、僕の心臓が一息に跳ね上がった。心の準備がままならないうちに現れた女性に僕は息を飲んだ。


「遅くなりました〜、お久です」


 柔らかな声が広間を静寂に導いた。しかし、すぐに「澪ちゃん!」と歓喜の声が上がる。たちまち広間は騒がしさを取り戻した。


「澪姉…」


 僕は誰にも聞こえないように囁いた。名を口にするだけで心臓がどうしようもなく鼓動する。

 澪姉は手前から挨拶を交わしていく様で「陽介!」と艶めいた大きな黒い瞳を隣に向けていた。陽介は軽く手をあげ、素気なく挨拶を交わす。

 僕の番だと息を飲んだ。澪姉はパッと驚きの顔を見せた。


「いっくん久々!まって、大きくなりすぎ」


 僕は気を張りすぎたせいで声が出なかった。何度か会釈し、微笑む事で精一杯であった。



 僕が澪姉に送る視線は、ぎこちない。斜め向かいにいる澪姉を直視できなかった。


「いっくん、かわ好きだったでしょ。塩?醤油?」


 突然に名を呼ばれ、僕は澪姉の指先を見た。大皿に乗せられた焼き鳥を指差す薄ピンクの爪。手が届かない位置にあるそれを小皿に取り分けようとしてくれているのだ。

 僕はどちらでも良かったが曖昧あいまいな返事で煩わせたくないと思い「醤油で」と答えた。

 この食事の場で僕が澪姉と交わした言葉はこれきりであった。とっくの昔に成人し、酒のたしなみを知る澪姉は自然と酒呑達の輪に溶け込んでいた。


 僕は澪姉を意識した為に気を張って、妙な疲れを感じ、自室へ戻った。スマホに収めた間取り図のおかげもあって、意外にもすんなりと自室にたどり着いた僕は畳に倒れ込む。

 澪姉の柔らかな声が僕の名を呼んだ。目尻が一層と垂れ下がる綻び。艶のある髪を耳にかける細い指先。相槌を打つたびに揺れるピアスの輝きは澪姉の美しさを際立たせた。

 全てが僕にとって胸を焦がす記憶になってしまったのだ。僕はふと、澪姉に恋した日の事を思い出そうとした。


 しかし、あの夏の日を思うにはまだ皮膚に感じる熱が足りない。部屋の片隅に控えめに佇む布団に目をやった。下から敷布団、毛布、掛け布団の順に重なったそれを、雪崩落ちない様に毛布だけを引っ張り出した。毛布につられて掛け布団が型を崩したが整えることが億劫でそのままにした。


 毛布に埋まり、目を瞑る。今日のために染み込んだ柔軟剤の爽やかな香りをいっぱいに吸い込む。すると、途切れない爽やかな香りの旋律に混じって微かな古びた香りがするのだ。それがこのうちに染み込んだ香りであって、本当に心地良い香りはこちらであったりする。そんな事を考えているうちに、ジリジリと眼を焦がす夏の日差しが過った。


「わぁ!いっくん!」


 背の高い向日葵が連なる畑を駆け抜け、青々しい香りが漂う野菜畑に突入した時、危うく、澪姉に衝突しそうになった。僕は恥ずかしさと申し訳なさで伏目になる。すると、目の前に真っ赤な艶めきを放つトマトが差し出された。


「トマト、美味しいよ」


 僕はトマトが嫌いであった。しかしこの時、素直にトマトを受け取った。差し出された瞬間、顔を上げると二つの夏の太陽が僕を照らしていたのだ。どちらも曇らせたくないという思いからであった。

 口を大きく開け、歯を思いきし食い込ませる。でなければ、跳ね返されてしまう弾力を帯びている。たちまち口中に広がる味は僕の想像を裏切った。


「どう?甘くて美味しいでしょ」

「・・・甘い」


 二つの夏の太陽が眩しく、思わず目を瞑った。


 熱がこもった息苦しさに意識が浮上し、毛布を投げやった。意想外のうたた寝に焦りを覚え、スマホに目をやると、ほんの十五分程度の時間が過ぎているだけだった。

 画面をタップした途端にメッセージの知らせが届き、誤ってトーク画面を開いてしまった。"夏戦争すかw"と想定したメッセージが綴られており、ふっと笑った。

 僕はもう一度、広間に戻ることにした。


 広間は思った以上に静寂に近しい落ち着きがあった。どうやら子供達は風呂に入っているらしく、卓に置かれた大皿も片され、代わりに山盛りに積まれたミカンが誰からも手をつけられず置かれていた。

 相変わらず、奥の方では酒呑達が群がっている。先程よりもグッと肩を寄せ合い、近頃の騒動で痛めた心を癒す様に互いを労わり、しっぽりと飲み交わすその姿は晩酌の終盤を感じた。


「いっくん、春から大学生なんでしょ?」


 ミカンを手に取ろうと座った途端に澪姉が傍にやってきた。僕は突然の事に手を引っ込めた。そして、卓下で手を擦り合わせ「あ、そうです」と答える。

 すると澪姉は喜ばしげに「おめでとう!」と声を上げた。

 チラリと澪姉に目配せると赤らんだ頬が柔く緩んでいた。艶のある瞳は酒のせいでより一層と艶を増し、色っぽく揺れている。


「しかも私の母校らしいじゃん。学部も同じなんでしょ」


 そう言われた途端、僕は恥ずかしくなった。下心丸出しではないか。

 しかし、澪姉は僕が真っ当な意義を持ってその道に進んだと信じている。その証拠に深々と頷きながら「優秀」と呟いた。

 閉ざされた瞳から溢れる折り重なったまつ毛は目尻に向かって長さを増しており、胸がざわついた。なぜこんなにも色っぽいのだろうか、と考えた途端、その答えはすぐに解った。無造作に髪が纏められているからだ。首筋に垂れる細い髪が曲線を描いて熱を帯びた首にピタリと張り付いていた。僕は喉の渇きを感じた。


「キャンパス、四谷でしょ」


 澪姉は卓に肘をつき、手の甲に頬を預け、僕を見つめる。僕は澪姉の瞳に囚われた。僕はぎこちなく頷く。すると澪姉がふっと笑んだ。


うち、近いから遊びにおいでよ」


 澪姉の艶っぽい瞳が一瞬、危うい輝きを放った。僕はバレない様に息を飲んだ。


「実家、川崎だよね。通うの?」


 澪姉の問いに僕は一拍遅れで「一人暮らしします」と答えた。


「そっかぁ」


 澪姉は何か考える様に天を仰ぎ見た。暫しの沈黙の間、僕は澪姉が躊躇ためらう言葉の続きを探った。この思惑は僕にとって都合が良い答えしか浮かばない。歯磨きは二個買っておこう。そう心に思った時、澪姉が僕に目配せた。


「彼もきっと喜ぶわ」


 にっこりと持ち上げられた口角に嘲笑ちょうしょうなど混じっていない。しかし、僕は澪姉の悪気ない企てにまんまと引っかかってしまった様で羞恥を感じた。これまでと異なった意味で心臓の鼓動が増す。

 澪姉は僕の思いをよそに心地良さそうに語り始めた。


「大学の同級生だったの。今は母国に帰っちゃってるんだけど」


 僕は澪姉の調子に合わせて「結婚とかするんですか」と会話を広げる。澪姉は首を傾げた。その拍子に揺れたピアスに輝きなどない。


「どうかな。彼の母国、事実婚が主流だから」


 これ以上の話題を掘り下げるほどに僕の心に余裕はない。今にも泣き出してしまいそうなくらいに痛みを帯びている。


「何飲んでるの」


 僕は意識を撹乱する為に聞いた。


「レッドアイ。トマト×ビールだよ。お酒だからいっくんまだダメかな」


 僕の視線はその真っ赤なグラスに注がれていた。その姿を認めた澪姉は悪戯っぽく笑いながら「飲んでみる?」と小声で言う。

 きっと澪姉は僕が慌てた素振りで断る事を予想しているに違いない。僕は澪姉の期待で膨れる好奇心を針一本を突き刺して萎ませたい衝動に駆られた。

 途端に澪姉のグラスを奪い取る。何の躊躇いもなく、口に流し込んだ。口に広がるビールの苦味とトマトの酸味に思わず眉を顰めた。

 ドンっとグラスを卓に置く。口端を手の甲で拭う。澪姉は目を丸くし、口を開けて唖然としていた。

 未だに口中に残る苦味と酸味。あの夏の日に味わった甘みはもう味わう事がないのであろうか。

 突然に澪姉は吹き出す様に笑った。

「まだ早かったか」と笑い混じりに放たれた言葉。

 澪姉の綻びに夏の日の太陽を感じた。口内には苦味と酸味が変わらず残ったままであった。

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年末年始 今衣 舞衣子 @imaimai_ko

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