ふわふわ浮くようで、落ちるように溺れていく【Mermaid side】
恋は落ちるものだという。
恋は溺れるものだという。
恋はふわふわ浮かぶようだという。
恋は宙を舞うような感覚だという。
ならばそれはこの水の中のような感覚に似ているのかもしれません。上も下もなく、浮遊感に満ちた水の中。そこで揺蕩う感覚こそが、恋なのだ。五感で感じつ感覚と、心の中の感覚。成程それは同じなのかもしれません。
「香織お姉さま」
水の中で名前を呼ぶ。それだけで、香魚はすごく幸せな気分になります。
『香と魚で香魚。私の名前と、アンタの今の見た目を合わせたわ。それで香魚』
香織お姉さまは香魚に名前を与えてくれました。
『香魚にも意味はあるわ。貴方は私を助けてくれた』
香織お姉さまは香魚に生きる意味を教えてくれました。
小さな事かも知れません。ですがその小さなことを気付かせてくれた。小さいけど、とても大事なことに気づかせてくれたのです。
想えば想うほど、落ちていきます。溺れていきます。浮かんでいきます。どこかに飛んでいける気分になります。全く逆なのに、そうとしか言いようのない。上も下もわからないのに、目指す先はわかっている。
指先が唇に触れる。触れた感覚を思い出し、笑みを浮かべる。
柔らかく、温かい。漏れると息がくすぐったく、触れる舌先が甘美に蕩けそうになる。動作一つ一つが香魚の心を振り回す。愛おしいという感覚にあふれ、その感情に行為が加速する。もっと、もっと、もっとお姉さまが欲しくなる。
「一日三回は少なすぎます……。お姉さまの意地悪」
香魚はいつでもどこでもお姉さまと触れ合いたい。地上で活動できるなら、一緒に寝袋に入ってもいいぐらいなのに。お姉さまが水中活動できるなら、ずっと水の中で触れ合っていたいのに。
でもそれはどうしようもないことだ。そして水に適した身体だからこそ、香織お姉さまを救えたのだ。それを言うのはいまさらだ。体内で暴れる海産生物のDNA暴走を抑え込んで、人間型になれれば――この関係は終わるのだろう。
香織お姉さまとの関係は、DNAと水の提供で繋がれた関係だ。
香魚は暴走しないように香織お姉さまからDNAをいただき、香魚はそのお礼に飲水を与える。そんな生存的な共依存。どちらかに代替……正確に言えば正当な手段での供給先が見つかれば、この関係は終わりを告げる。
「一日三回は少なすぎます……」
もっともっと、香織お姉さまと繋がっていたい。
だってこの関係は、長くは続かないのだから。洪水の被害はわからないが、人間が絶滅したとは思えない。地球全部が水に埋まったという事はないだろうし、船舶や高台にいる人間が、真水を精製する技術を持っていてもおかしくない。
こんな形で水を得るよりも、普通に水が飲めるならそちらを選ぶだろう。そうなれば、自分は捨てられる。香織お姉さまは人間で、香魚は人間じゃないのだから。
「仕方ないですよね。それが普通ですから」
ですから、それまでは香織お姉さまに尽くします。この落ちるようで溺れるような、浮くようで飛ぶような、でも確かにあるこの気持ちが心地よいから。香魚と言うバケモノがそうしたいから。
尾ひれを動かし、水の中を進む。目的は町があった場所。香織お姉さまのために、新たな物資を確保しなくてはいけません。
光の届かない水中ですが、視覚ではない感覚がまるで見ているかのように状況を脳に伝えてくる。微弱な電流を感知する
感じるのは、木やアスファルト。そしてその先にある大量のビル群。
おそらくですが、ここはもともと山道だったのでしょう。それが水に埋まった。そう考えると香織お姉さまがいる場所は、洪水前は山の頂上付近。道路があるという事は、山には人間が作った施設がまだあるかもしれません。そこを探してホームにできれば、生存率は高まります。
「もしかしたら、他の生存者が逃げているかもしれませんね」
そうなったら、そこで香織お姉さまとはお別れするかもしれません。お姉さまの安全が確保されて、めでたしめでたし。幸せに生き延びてください、お姉さま。
「……あれ?」
それが正しいことだと分かっているのに、胸が痛い。
それが一番だと分かっているのに、涙がにじみ出る。
顔を何度もふいて、胸を押さえる。そうあるべきだと分かっているのに、その事を考えると苦しくなる。作り笑顔をうまく作れない。
香織お姉さま。
心の中でお姉さまの事を想うほど、その痛みは増してくる。心の中でどんどん膨れ上がってくる。いつかお姉さまと別れないといけないという事実に、潰されそうになる。だったら誰もいない場所を探して、そこに運んでしまえば――
「だめだめだめだめ。変な事考えちゃダメ」
だめな方に走りそうになる思考を、首を振って振り払います。ずっと一緒にいたいけど、だからと言って香織お姉さまを騙すなんてことはできません。騙したくなんかありません。
バケモノである私に、まっすぐに付き合ってくれる香織お姉さま。仮初でも妹なのだから、そこから逃げるのは間違っています。お姉さまにはかないませんけど、せめて真っ直ぐに向き合いたいのです。
不安と憧れで揺れ動く心。ふわふわ浮くようで、落ちるように溺れていく。これが恋。誰かを想うこと。水の中を泳ぐように進めればいいのに。恋という海を泳ぐ尾びれも背びれもない。それでも泳ぎたい。それでも想いは捨てられない。
時速60キロで水中を進み、街だった場所に泳ぎ着く。耐久性の高いアスファルトはまだ残っているが、車などの『軽い』物は水流により流されて横転してます。数か月後には漁礁となっているのでしょう。
激しい水流に逆らいながら、落ちている物資を拾います。一度目よりも多くは拾えませんでしたが、これ以上は危険と判断して帰路につくことにしました。水圧による身体影響もありますが最大の理由は、
「水の流れが、酷くなっていますね。いいえ、様変わりしている……?」
香織お姉さまの為に食べ物やキャンプ用品を拾ったのは十数時間前。その時はここまで水流は激しくなかったです。流れも何か意図的なものを感じます。誰かが水をかき回しているような、そんな意思を。そして、
「これは……?」
水流の中心に何かがいるのを香魚の感覚器官が捕らえました。大きさは10m近く。複数の触手を持つ軟体生物。一番近い生物はイカでしょうか? イカと判断したのは頭部が錐状になっているという程度ですが。どちらかと言うと魚の下半身部分がぐねぐねした何かになっている巨大魚の方が近いかもしれません。
それは動かず、水流に巻き込まれた生物に触手を伸ばして食らっていました。通りかかった魚、流れてきた車、街路樹……何もかもを食らい、自らの中に取り入れています。
どう見ても、自然の生物はない存在。何もかもを取り入れる存在。それを私は一つ知っています。
『
何もかもを取り込んだ存在。もしかしたら、私もああなっていたかもしれない。そういう存在。私は気づかれないように背中を向け、そこを去ろうとしました。
『待テ』
耳に届いたのは微弱な音波。それは人間の言葉として、私の脳裏に届きました。
『着様モ、我ト同ジ者。遺伝子ヲ、喰ラウ存在。アダプタブル・ユニット』
人間の言葉が理解できるのは、人間のDNAを大量に取り込んで脳の機構を維持できたから。あれだけの巨体になるぐらいに遺伝子を取り込んでも人間の精神を維持できるほど、人間を取り込んだから。
きっとこのあたりに住んでいた人間は皆、『彼』に取り込まれたのでしょう。洪水に巻き込まれた遺体が一つも見られないのは、そういう事なのでしょう。
完全に人を食らえば、あれだけのDNAを取り込んでも知性を維持できる。なら、香魚もお姉さまを完全に食らえば。いずれ別れてしまうなら、いっそ香織お姉さまを全部取り込んでしまえば――
「違う。私は、貴方と違う」
否定しながら、私は陸に向かって進む。声の主は追ってこない。ただ、音波だけが私の脳に届く。
『同胞同士、協力シアオウ。同ジ能力ヲ持ツ、仲間トシテ』
同胞。協力。仲間。
人間とバケモノ。いずれ来る別れ。そして胸を締め付ける想い。
揺れ動く心をぎゅっと抱きながら、香魚はにげるように地上へと泳ぎ進みました。
香織お姉さまの元へ――
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