記憶にないですあのとき必死だったからてへへ【Mermaid Side】

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 体内を流れる塩基。DNAを構成するヌクレオチドの結合。アデニンシトシングアニンチミン。この塩基配列によりDNAはタンパク質を形成し、最終的には肉体を構成する。いわゆる遺伝子における設計図の文字列。


 大量に取り込まれたDNA。それは体の中で暴れ、渦を巻く。制御できる容量はすでにオーバーし、肉体はただそれに合わせて変化していく。海洋生物。状況に応じた最適解。生き残るために必要なものを優先し、不要なものは切り捨てられる。


 そこに自分の意志はない。自分の意志など始めからない。なんにでもなれるのだから、それに不要なものは初めから要らない。むしろ決まった形は変貌の妨げだ。未曽有の大洪水。世界が変わるほどの水量。取り込んだ遺伝子情報から、それに適した肉体に変貌する。


 水をはじく鱗。水中移動に適した尾びれ。水中から酸素を取り入れるエラ。地上活動に必要な足や肺呼吸の機能は削られる。ただ水の中で生きることに特化していく。人間部分は削られ、海産生物の肉体に変わっていく。


 変貌は止まらない。海で効率よく獲物を狩るために、肉体が硬化する。海水でも活動できるように内臓器官が変貌し、水中での狩りに特化するために肉体が硬化する。取り込んだサンゴやフジツボが鎧のように身にまとわり、舌も歯も変貌していく。


 人間であった部分が削げ落ちる。人間だった部分が失われていく。


 海で生きるバケモノとして変わっていく。バケモノになっていく。


 それが『Adaptableアダプタブル Unitユニット』……環境や周囲に適応する存在。人間によって作られた、モノ。環境下にあるDNAを取り込み、最も適した形になる存在。


 もっとも、製作者はこんな大災害は想定していなかった。だが作られた機構は発揮され、体は変貌する。否、暴走する。ただ遺伝子のままに従う怪物になる。


 消える。自分が消える。


 もとから無きに等しい己の意志。作られたモノとして命令に従い、教育されたままに動くだけの存在。そんな小さな意志。消えると知って初めて自覚した程度の、そんな自分自身。


 それは自覚して数秒後にバケモノになって消えてしまう。遺伝子の波にのまれて、DNAの奔流に巻き込まれて、水で生きる魔物になってしまう。本能のままに暴れ狂うケモノとなってしまう。それが分かっただけの、自分。


 消える。自分が消える。


 怖い。消えるのが怖い。自分がバケモノになるのが怖い。訳の分からない何かになって、知恵も意思もなくなってしまうのが怖い。それは生物として根底にある恐怖。そして自分が自分じゃなくなる恐怖。


 だけどそれは長くは続かない。もう自分の力ではどうすることもできない滅び。怪物になってしまう自分。変貌はもう自分の意志では止まらない。こみ上げる吐気と頭を揺らし続ける頭痛に翻弄されながら、最後の力を振り絞って手を伸ばして声をあげた。


「タス、ケテ……」


 生まれて初めて自分の意志で行ったこと。誰にも命令されたわけでもない。自分自身と言う意思を自覚して、初めての行為。数秒後に消える自分の、最後のあがき。


 報われるなんて思ってなかった。自分は何者でもない存在で、バケモノになりつつある存在で、救われる価値なんてない存在で。だからこのまま力尽きると思ってた。


 思ってた、のに――


(あ……)


 温かい温もりが、手のひらから伝わってきた。


 フジツボで覆われた岩のような手をつかみ、か細いながらも必死にこちらに引き寄せようとする手。その気になれば水の中に引きずり込んでしまえそうな、小さな小さな人間の手。


 だけどとても大きな手。とても大きな力を感じた。こんな形のバケモノに手を出してくれる人。こんなちっぽけな存在を助けようとする人。自分の命さえも危ういのに構わず助けてくれた人。


 その手に引っ張られるように私は飛び込む。そして――


※     ※     ※


「……ねえ、あの時唇奪ったのってわざとでしょう?」

「記憶にないですあのとき必死だったからてへへ」


 目をそらし、答える。だってちょっと気恥ずかしいですから。

 あの時、お姉さまが差し出してくれた手。それを一生忘れません。


 きっとあの瞬間から、『私』は恋に落ちたのです――

 この想いが、『私』を人間にとどめているのです――

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