たった二文字の、宝物
人助けだってわかってるけど
助けてくれた人魚は、実はDNAを取り込んで変化するSFチックな存在でした。
そいつはこの大洪水で大量のDNAを取り込んで暴走していました。
なので人間の知性を維持するために、人間のDNA――唾液が欲しい。
三行でまとめるとこんなところ。いろいろ受け入れがたいけど、嘘を言っているようには見えない。そして私も助けてくれた相手の願いを断れるほど、偏屈になったつもりはない。
「事情は理解したわ。協力してあげる」
「本当ですか!? ありがとうございます、お姉さま!」
私の言葉に喜びの笑顔を浮かべる人魚。
「じゃあさっそくいただきますね。こっちに来てください。はやくぅ」
言ってハグするように両手を広げる人魚。唇を薄く開けて、突き出してきた。キスしたい、と言うポーズ。キスして、と言う顔。一歩踏み出してから、理性を総動員させて足を止める。
「いや待って。DNAの採取って別にキスする必要ないわよね。血とかじゃダメなの?」
「――え?」
予想外のことを言われた、とばかりにぽかんとする人魚。
「だから、欲しいのは遺伝情報なのよね? それって髪の毛や血液にも含まれてるんじゃないの?」
マンガとかで細胞や血液からクローンを作れるっていう話があった。DNAが欲しいなら、そこからでも取れるはずだ。
「あー。えーと……血液内にはDNAの他に血漿や赤血球とかがあるんで、それを分離しないといけないんです」
「あ、そうなんだ」
「血を取るにしても傷口からの雑菌処理もありますし、後処理も大変です。
その分唾液と言うか口腔内はその処理は不要ですから、採取に容易なんです。ほら、効率効率」
「何かうまく誤魔化された気もするけど……」
でも理にはかなっている。こんな状況で下手に傷口が化膿したら、治療も大変だ。処理が悪ければ高熱を出しかねない。
「その……唾を入れ物に入れて渡すとか、そういうのはダメ?」
「駄目ですよ。入れ物の中に不純物が混じるとどうなるかわかりませんから。今の私の状況だと、小さな虫の羽が入っただけでもとんでもないことになりかねません。きっちり洗浄して滅菌したカップならいいですけど」
「……むぅ」
滅菌とかよくわからないけど、きれいな容器じゃないとダメなのはわかった。
「口から直接じゃないと、ダメ?」
「はい、それがベストです」
「ベターな案とかある?」
「唾液を口から垂らしていれるとか?」
「どんなプレイよそれ」
唾液を垂らしている姿を想像して、頭を振った。いろいろダメな扉が開きかねない。いろいろ覚悟を決めた。人助け人助け。相手は人じゃないけど人助け。
「そうよ。これは人助け。だからノーカン。人工呼吸と同じこと。だからファーストキスノーカン」
呪文のように唱える私。うら若き乙女として、いろいろ思うところはあるのだ。まあ、すでに何度か唇奪われてるんだけど。
「よっし、行くわよ」
「えへへ。嬉しいです」
覚悟を決めて水面に近づく私。水面から上半身を出す人魚に近づき、膝をかがめた。目線を合わせ、顔を近づける。
「…………う」
ニコニコする人魚。早く唾液頂戴と体中でアピールする。彼女からすればないと死んでしまう遺伝子情報。自分自身を保つためのお薬でしかない。だから早く欲しい。それは、うん、いい。
私も協力すると言った。その気持ちに嘘はない。ここまで献身的にしてくれたお礼ができるなら、それは返したい。なんでいろいろ気恥ずかしいけど、やっぱやめたとかいう気はない。無いんだけど……。
(口づけするとか……ハードル高い……)
自分によく似た顔を前に、思わず固まってしまう。私は他人に気安くキスできるような性格じゃない。欧米みたいに頬にキスとかも眉を顰めるような人間だ。10代の日本人女性なら当然の感覚だと思う。
改めて人魚を見る。私に似た顔。私のコピーとまではいわないけど、私の遺伝情報を元にした顔。これを美人とか可愛いとかいうのは自画自賛だろうか? でも感想を言うならそうとしか言えない。それが無防備に唇を突き出している。
(これはキスじゃない。医療行為。人助け。うん、そういうことだから)
数度深呼吸。割り切ってしまえばあとは勢いだ。唇をぎゅっとして一気に顔を使づけて――
「あいたっ!?」
「んぐぅ!」
ヘッドバッドするように頭をぶつけた。二人、頭をぶつけて蹲る。しばらく痛みに悶えた後で、ぶつけた部分を押さえながら体を起こす。
「ななななな、何するんですかお姉さま!? あ、やっぱり痛いのが好みとか? 私はそういうのはまだ理解できないんですけど、お姉さまがどうしてもっていうなら――」
「違うっ! っていうかその話はもう引っ張らないで!」
視線をそらして赤面し、もじもじする人魚。待って。その誤解はいろいろまずいから。私ノーマルだから。痛いのも痛くするのも好きじゃないから。
「ううう、でも……」
「悪かったわよ。でも人助けだってわかってるけど自分から口づけするのはハードルが高いっていうか」
この口づけがそういう意味じゃないというのはわかっているけど、それでもやっぱり意識してしまう。私は男性と付き合ったことないから、そっち方面に関しては少し潔癖なのかも。
「しょうがないですね、お姉さま」
言うなり人魚は手を伸ばし、私を引き寄せる。力強く引っ張られ、人魚の胸に抱き寄せられる羽目になった。私よりちょっぴり大きい胸。ちょっぴりだけ大きい胸。そしてそこを覆い隠す鱗の感触が肌から伝わってくる。
さらり、と髪を撫でられる。その後で顎をつままれて顔を上向かされた。視界一杯に広がる人魚の顔。それはゆっくりと近づいてくる。時間にすれば一秒にも満たなかったんだろうけど。
「「んっ……」」
重なる唇。柔らかく、温かい感触が唇から伝わってくる。サクランボとかミントとかコーヒーとかたばこの味がするとかそういうことはなかった。脂の乗った寿司を食べたような、そんな感覚。
(あ、これ……)
小鳥同士がくちばしを重ねるような、ついばむような行為を重ねてくる。その度に、ガチガチに緊張していた私は力が抜けていくのを感じていた。つんつん、つんつん。じわぁ、っと染み入る何かに溶けてしまいそうな感覚――
「ぬ、ちゅ、ぱぁ」
蕩けそうな感覚は、侵入してきた舌の感覚で一気に別の感覚に変わる。ぬめり、とする何かが一気に口腔内を支配する。支配される。ぬちゃぬちゃと、どろどろと、何かが私の脳をかき乱すように蠢く。
(蠢く、って春の虫って書くんだよね……!)
春先に虫が土から出て這うようにもぞもぞとする動き。子供のころにクラスの男子がいたずらしてた虫を思い出す。うねうねぐねぐねした動き。今私の中に入っている舌の動きは、まさにそれだ。
吸われてる。私の口の中の液体が吸われている。それが理解できる。口の中に侵入した人魚の舌が刺激し、それによって生まれる唾液を奪われている。水音が響くたびに、舌が絡まるたびに、私の情報が奪われていく。
「……っ!」
その感覚に耐えられなかった。肩をつかむ手に力を込めて、人魚から離れてしまう。
「…………あ」
物欲しそうな人魚の顔。寂しそうな人魚の顔。その顔に罪悪感を感じる。彼女からすれば、助けを拒まれたのだから。
「ごめん。これ以上は、無理」
目をそらし、それだけ言う。助けてくれた相手に失礼だと思うけど、これは受け入れられない。助ける行為だというのがあったとしても、ダメだった。
「……わかりました。しばらくは、何とかなりそうです」
どちらかと言うと自分を納得させるように、人魚はそう言った。どこか無理をするような、そんな表情で。
ずきり、と痛む胸。
だけど口づけを再開する気には、ならなかった。
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