現実はホントろくでもない

 DNA。デオキシリボ核酸。


 生物学に詳しくない女子高生の知識でも、それが遺伝情報を取り扱う物質であることはわかる。自分のDNAと相手のDNAを合わせて、子供を作るとかそういうことだ。


 つまり、私のDNAがほしいって、そういうこと? いや、待って。こっちの足を見て奇麗とか言ったり、お姉さまとか言ったり、DNA欲しいとか言ったり、そういう趣味なのこの人魚?


「ええと、お姉さま? なんでじわじわと距離をとってるんです?」

「ええ。うん。いいわ。さっきのあなたのセリフじゃないけど、性癖は仕方ないわね。でもそれは他人を不快にさせないことが第一条件。命を助けてもらって凄く感謝しているしできれば恩返ししたいけど、超えてはならない一線はあると思うわ」

「えへへ。感謝してもらってありがたいです。お姉さまの命が救えて本当に良かった」


 照れるように頭を掻く人魚。うん、悪い子じゃないのはわかる。だけど、まあ、貞操を捧げるというのはさすがに私も。


「そうね、その事は本当に感謝してる。でもその、子供とか性行為はできれば勘弁したいかな。私も初めては好きな人に捧げたいし。私ノンケだから女に興味はないし」

「はい? あの、子供とか性行為とか、えーと?」

「繰り返すようだけど、性癖を否定はしないわ。でも手を出したら犯罪だから。恩を着せて私の体を求めるつもりなら、そういうのには屈しないから」

「だからお姉さま、いろいろ誤解してません? 私が欲しいのはお姉さまのDNA情報で、お姉さまの嫌がることは一切するつもりは――」

「やだー! 私の初めては私が捧げたい相手に捧げるの! そういう世界はノーサンキュー! 女の子の体は女の子がよく知ってるの、とかそういうのは聞かないんだから! お姉さまとか姉妹関係とか禁断の花園とか百合とかそういうのは、知らないんだから!」


 ネットとかマンガとかで聞いたフレーズを口にする私。そういう行為に無知なわけではないし、ちょっとドキドキしたこともある。だけど、そういう趣味はないし憧れたりもしない。なんでこの子の要求は聞けない話だ。


「そんな! お姉さまと私は同じ遺伝情報なんです。姉妹関係であることは避けようがない事実なんですよ!」

「だからそんな呼ばれ方は――おなじ、いでん、じょうほう?」


 思わず一語一句確認するように問いかける。その言葉に、はい、と頷く人魚。


「同じ遺伝情報」


 大雑把に言えば、親から子供に受け継がれる情報だ。顔立ちだったり、体格だったり。よくわからないけど、病気になるとかそういうのも。


 私は目の前の人魚を見た。私に似た顔。私に似た体格。……若干胸はあっちが大きい。若干。あくまで若干。いいね、若干だから。


 下半身を除けば、確かに私とこの人魚は似ている。髪や瞳の色などの差異こそあるが、そこに目をつぶれば姉妹と言っても確かに納得はいくだろう。……いや、その下半身が大問題なんだけど。


「いや待って。それはおかしい。あのクソ両親に隠し子がいるとか言われても納得はするけど、さすがに人魚はない」


 私に兄弟姉妹の類はいない。双方不倫で離婚待ったなし。文字通り倫理観の無い人でなしだけど、それでも生物学上は人間なのは間違いない。或いは人魚と子供を作った? 浮気相手が人魚? そんなことある?


 仮にあったとしても、この人魚の見た目は私とそう変わらない。人魚の年齢が人間と同じとは限らないけど、どっちにしても姉妹だと言われて納得できるものではない。


「はい。私は厳密に言えば人魚ではありません」


 上から下までどう見ても人魚のそいつは、自己否定した。


「私の正式名称は『Adaptableアダプタブル Unitユニット』……環境や周囲に適応する存在。人間によって作られた、モノです」


Adaptable順応する Unitまとまり』……そいつは自分の事をそう言った。震える手を、自分の胸に当てて。


「私は、遺伝情報を取り入れてその生物に変化します。ある程度進化した生物の遺伝情報を取り入れて、体がそれに変化していきます。知性も、行動も、それにより変化していきます。

 今はお姉さまの遺伝情報があるからこうして人間のように会話ができますが、動物や植物を多く取り入れればそちらに体が流されてしまい、その分人間としての思考力が消えていきます」


 初めて人魚――人魚ですらない海産物の塊――を見たことを思い出す。


 頭に角のようなサンゴを生やし、体中にゴツゴツしたフジツボを生やしたゾンビのような存在。ぐちょぐちょになった体は崩れ落ち、たくさんの眼球がくぼみから零れ落ちていくあの姿。


「あの時――初めて会った時は、大量のDNAを取り入れてぐちゃぐちゃになってたの?」

「はい。水と一緒に流れ込んできた遺伝情報。量としてはともかく数が膨大だったのです。あのままだと人間としての理性が消えて、海産物のキメラになる所でした」


 自分が自分じゃなくなる。理性が消えて、よくわからないバケモノになる。


 その恐怖を私は想像すらできない。私は何と声をかけようか迷い、


「ですけどお姉さまがいて助かりました! 遺伝情報を採取して人間の遺伝情報をゲットです! お姉さまから得た情報の多さが功を奏して、どうにか人間としての意識と知性を維持できました!

 なんで遺伝にはお姉さまはお姉さまなんです! ほぼ同じ遺伝情報を持っている個体で生年月日は上。ほら、これをお姉さまと呼ばずしてなんと言うんですか、お姉さま!」


 急に明るくお姉さまを連呼する人魚。とりあえずその恐怖に関しては、自力で乗り越えたらしい。


「いや、まあ、りくつはただしい」


 とりあえず言いたいことは理解した。確かに同じ遺伝子情報を持つ以上、兄弟姉妹と言うのは正しい。親がどうとか倫理的にいろいろあるだろうけど。


「あー、もしかして私のDNAが欲しいっていうのも、そういうこと?

 でも見るに初めて会った時みたいなぐちゃぐちゃは収まったみたいで、もう大丈夫のように見えるだけど」


 改めて目の前の人魚を見る。厳密には人魚じゃないモノ。遺伝情報を取り込んで、その姿になる存在。そんな非現実なと言いたいけど、それを否定する材料よりも肯定する材料の方が多いのだから納得するしかない。


 一応言うと、割り切ったわけじゃない。むしろ全力で否定したい。全部夢だったとかそう思い込みたい。実は気が狂ったんじゃないかな、私。実は本当は水に飲まれて死んでいて、今見ているのは死に間際の夢とか。


「そうでもありません。未だに私の中でDNAの暴走は続いています。油断すると下半身の魚部分が上半身まで迫りそうなんです。

 お姉さまのDNAをいただいて、どうにかこの形態が維持できるんです」


 下腹部に手を当てる人魚。鱗の部分。魚の部分。私のDNAがないと、その魚部分が上半身まで浸食するという。すでに胸部は鱗でおおわれている。聞けば内臓関係も似たような感じだ。呼吸器系も水生生物に近いらしい。


「つまり、私の唾液がないと完全に魚になっちゃうってこと?」

「はい。それも対処療法です。根本の解決にはなりません。

 遺伝子情報の暴走を止めるには『施設』に行くしかないんですが……この洪水です。さすがに水の中で設備が生きているとは思えません」


 彼女を『作った』場所に行けば元通りになるだろうけど、その施設が生きているとは思えない。うわ、詰みじゃん。


「何でお姉さま! 貴女のDNAが必要なんです! お姉さまがいないと、私は壊れちゃうんです! どうか、どうかお慈悲を!」


 すがるように胸に手を当てる人魚。地上に上がってこれないのか、水面ぎりぎりまで身を乗り出してくる。嘘を言っている様子はない。本当に私の唾液がないと魚になってしまうのだ。


「泡になる人魚ならず、魚になる人魚かぁ……」


 現実はホントろくでもない。私は頭を抱え、深くため息をついた。

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