水没世界で、二人

その日、世界は水没した

 その日、世界は水没した。


 何故? と言われてもわからない。激しい衝撃が地面を揺らしたかと思うと、数秒後に訪れた水がすべてを攫って行った。親も、友達も、学校も、街も、何もかも。逃げるなんて思う間もなく襲い掛かる水。私はそれに巻き込まれた。


 気が付くと、私はビルの屋上にいた。正確に言えば、濁流に流されて水面上に顔を出していた建物に乗り上げていた。街にあった5階建てのビル。その屋上に体を横たえてる形で助かった。そして、変貌した世界を見る。


 街並みなはい。全て水に飲み込まれた。

 人間はいない。全て水に飲み込まれた。

 

 水。水。水。


 周り一面水だらけ。空はいつの間にかどんよりと暗く、降り注ぐ雨がさらに水かさを増していた。この屋上も少しずつ、立てる範囲が狭まっていく。見回してみても、陸地のようなものは見えない。まだ複数のビルらしい物は見えるけど、それだってこのままだといずれ水に沈むだろう。


 水泳の授業程度には泳げるけど、だからこそ泳いで生き残るのは無理だと理解できる。未だ降り続ける雨の中、荒れ狂う水の中を泳いで生き残れるわけがない。偶然生き残ったとはいえ、数秒命を伸ばした程度。


 水没を前に、私は何もできなかった。絶望もしなかった。すべてが現実離れしすぎて、理解ができなかった。ただ、座り込んで俯く。増えていく水を他人事のように見ていた。いっそ何も知らずに死んだほうが幸せだったかも。そんな場違いな事を思っていた時に、


「…………アアアアアアアアア」


 に気づく。


 水が浸食してくるビルの屋上。水面から上半身だけを出したそれは、私の方を見て唸っていた。酷く高い音。ソプラノを思わせる悲鳴。或いは、鳴き声をあげていた。


 その姿は、酷くただれていた。ゾンビ映画のように身体中の肉が腐り、頭部からは角のように珊瑚のような何かが生えている。伸ばしてくる手にはフジツボのようなごつごつした凹凸があり、眼球は眼窩から零れ落ちるように沢山湧き出ていた。


 怖い、と言う感情はこの時浮かばなかった。世界の状況が特殊だったということもあるのだろう。数秒後の死が確定したこともあるのだろう。


「タス、ケテ……」


 だけど、一番の理由はこの声を聞いてしまったから。


 かすれたような、だけど助けを求める声。その声を聞いてしまったから。


 だから私は立ち上がり、その手を取った。どう見ても人間じゃないその手を。岩のようなフジツボの感触なんかその時気にならなかった。その手を引っ張りあげる。軽いその身体は水から引きあがって私に抱き着き、


「んんんー!」


 いきなり私の唇をふさいだ。軽い身体を引っ張り上げた私の成果と思ったけど、後にして思えば狙ってやがったなって感じの動きだ。当人を後で問い詰めたけど「記憶にないですあのとき必死だったからてへへ」とか目をそらした。絶対嘘だ。


「っ!?」


 いきなり奪われた唇――しかもファーストキスだったんだぞ、これ!――に驚いたこともあったけど、増えてきた水かさに足を滑らせる。なんとか頭を打つことは回避したけど、それに唇を奪われたまま覆いかぶされる形になった。


「っ、ぅ……ぁ、はぁ……!」


 口の中を蹂躙してくる生暖かい何か。どろりとした粘液が奪われていく。それは私の舌に絡みついて、それにより生まれた唾液を絡みつかせて舐めとるように蠢いていた。


(はげ、し……!? これ、これ、どう、言うこと……!)


 混乱する頭。いきなり水が世界を襲ったかと思ったら、よくわからない何かに襲われてる。しかもその舌遣いに翻弄されている、とか……! 冷静になる余裕などなかった。仮にあったとしても、どうこうできるものじゃなかった。


(水、が!?)


 それまでじわじわと足場を奪っていた水の浸食。そのペースが増したのだ。水は一気に私の体を包み込む。同時に水圧でビルが倒壊したのか、背中の感覚がなくなった。私は完全に水の中に放り出されてしまう。


 浮遊する感覚が体を襲う。同時に水を吸った服の重さが体力を一気に奪っていく。予想以上に体力を奪われていたのか、腕を動かすこともできない。上も下もわからなくなる。


 そんな状況の中でも、舌から伝わる温かさだけは確かだった。水の中、よくわからない何かに抱きしめられながら舌を絡めあっていた。その事実が私を混乱させ、同時に諦念を吹き飛ばしていた。


(なにこれなにこれなにこれなにこれっ!? っていうかどういう状況なのよこれ!?)


 この出会いがなければ、水に飲み込まれた瞬間に死を覚悟していただろう。仮にどうにかしようという意思があったとしても、水と言う自然に勝てるわけもない。無意味に抗って、死んでいただろう。


 唇が離れる。お互いの顔が確認できる距離まで、顔が離れた。


 そこにいたのは、私だった。私の顔。私の髪。私の体。色や髪型など多少の差異こそあるが、顔立ちは間違いなく私だった。鏡を見ているかのような、そんな感覚。


 しかし、下半身は違う。おへそより下は青い鱗を持つ魚の姿だ。童話に出る人魚そのものといってもいいだろう。すらりと伸びた魚の尾部。ドレスを思わせる長くきれいなヒレ。


 先ほどまでのゾンビもどきの姿はそこにはなかった。サンゴのような何かは崩れ落ち、手はきれいでフジツボはない。眼球もちゃんと存在している。ずっと唇を重ねていたから、先ほどのゾンビもどきがこの人魚なのはまちがいないんだけど。


「ごぼ、っ」


 間抜けなことに、目の前の現象に気をとられて水の中だってことをすっかり忘れていた。でもこれに関しては言い訳させてほしい。仮に目を奪われてなくても、この時私がどうこうできる状況じゃなかったのだ。


 口から空気をこぼす私を見て、人魚は慌てたように私をおんぶするようにして泳ぐ。振り回されるような感覚が来たかと思うと、ずんと重い感覚。水中から水面に出て、浮力がなくなったのだ。


 そして咳込んで、空気を吸い込む。


「あ、けほっ! けほっ!」


 口内にある水を咳きこんで吐き出し、酸素を吸い込んだ。降り注ぐ雨が冷たいけど、おんぶしてくれる人魚が温かい。私は冷えと浮袋の代わりとばかりに人魚を抱きしめる手に力を込める。


「大丈夫、です。あなたを助けますから」

「うん……」


 人魚の言葉にうなずく私。そこで少しパニックが収まったのか、周りを見回す余裕ができた。


 見渡す限りの水平線。降り注ぐ雨、荒れ狂う波。まるで海の中に投げ出されたかのような錯覚を覚える。いつか見た船が沈没する映画を彷彿させる光景だ。


 周りには私達以外誰もいない。人影もない。建物もない。乗り物もない。今水面に浮かんでいるのは、私たち二人だけ。


「大丈夫、大丈夫」


 そう呟く人魚の声。それは自分に言い聞かせているようでもあった。


「大丈夫。大丈夫」


 私も、同じように自分に言い聞かせるように呟いていた。頭の中の冷静な部分が、死を強く意識しているのを無視するように。


 何時しか私の意識は途切れ、深い眠りに陥った――

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