水没世界に人魚と二人

どくどく

オープニング

水面の上で重る唇。絡めあう舌。響く水音

 赤い夕陽が世界を照らす。夕日は空も水面も、そして二人の女性も等しく朱に染めている。


 水面から上半身を出す女性。彼女は私の乗るイカダに手をかけ、行為を待つように瞳を閉じる。私はイカダの上で横ばいになって、その頬に手を当てる。顔が赤いのは、決して夕日だけのせいではない。おそらくは、私も。


 照れるようなゆっくりでもなく、性急なほど早くもなく。私は決まった速度で顔を近づけ、唇を重ねる。もう何度も繰り返したなれた動作。これまでも、今日も、そしてこれからも繰り返していく行為。


「ん、ぁっ……んくぅ」

「ぅ……ふぁ、あふぅ……ん、ちゅ」


 水面の上で重る唇。絡めあう舌。響く水音。片方の手は逃さぬようにと頭をつかみ、もう片方の手は相手の手をつかむ。指を絡めあい、ぎゅっと握り占める。絡み合う手の動きは唇を重ねる行為が続くたびに強く激しくなっていく。


「は……ぁ……」

「あ、ぅは……っ」


 唇が離れる。それはどちらの意志だろうか。物欲しげな吐息が熱く漏れた。繋がった証とばかりに、唇から唾液の糸が垂れて二人を繋いでいる。


「どうですか、香織かおりお姉さま」


 水面から体を出す女性が問いかける。香織。私の名前だ。皆川香織。十八歳。女子高生。今となってはこの名前も年齢も身分も意味はない。国籍なんてもう意味はない。日本の国土ははるかだ。


「ええ。もっとちょうだい、香魚あゆ


 香魚。私の事をお姉さまと呼ぶ女性。顔立ちも私に似ているけど、血縁の意味で妹と言うわけではない。だけどこの子は私の事をお姉さまと呼ぶ。愛おしく私の事を姉と慕ってくれる。私もそれを止めはしない。


「「ん……っ、んんんんんっ……!」」


 酸素を取り入れるために大きく息を吸い――そして待ちきれないとばかりに再び唇は重なり合う。求めるように強く、激しく舌を絡めあう。誰もいない水上で、二人は激しく求めあう。


 柔らかく温かい舌の交差。その度に力が抜けていく。瞳は緩み、体は上気していく。繋がっている場所以外の感覚が希薄になり、反比例するように繋がっている場所への意識が強くなる。互いの存在を意識するように、重ねあう力が強くなる。


「香織お姉さま、ください……香魚に、たくさんください……」


 舌を絡めあうたびに、互いの口内にある液体が交差する。相手の舌の形を確認するように舌を絡ませていく。その動きに合わせるように、香魚の舌は私に絡んでくる。そして私の口内にあった液体――唾液を飲み込んだ。


「ん……っ、くん! 香織お姉さまのが、体に染み込んできます……」

「香魚、私も……私も、ちょうだい。もう、限界……」

「はい。お待ちくださいね」


 息を切らすように懇願する私に、香魚はゆっくりと唇を重ねてくる。攻守交替とばかりに香魚の舌が私の口内に入り込んできた。力強く私の舌を抑え込み、回転するように絡み付けてくる。ざらざらとした長い舌の蹂躙。香魚の口から流れてくる液体。それが、私の中に注がれていく。


「んくぅ、んくぅ……!」


 香魚から注がれる液体の量は多い。注がれるたびに飲み込んでいくが、それでも追いつかない。息を継ごうと唇を離そうとするけど、香魚は逃さないとばかりに私の頭を押さえる手に力を込める。ちょ、と、ま。


「んんんんんんっ! は、待、って。あ、ゆ。はげし、んくぅ!」

「香織お姉さま、香織お姉さま、香織お姉さま……!」


 一瞬離れた唇。紡がれるのは私を呼ぶ熱っぽい声。一言ごとに蕩けていく理性。それは口を開く香魚もだ。私の名を呼ぶたびに消えていく遠慮。香魚は体を乗り出してこちらに抱き着こうとする。私をつかむ体に力を込めて、私を求めてくる。そして、


「すとっぷすとっぷすとーっぷ!」

「おねーさま!」

「ぎゃん!」


 勢いよく水面からイカダの上に上がってくる香魚。そのままイカダの上で二人抱き合い、重なりあった。香魚の水中活動に適したが私に覆いかぶさってくる。


 人魚。


 上半身が女性で、下半身が魚。誰もが思い浮かぶ人魚の姿。顔立ちや体格はいろいろ事情があって私に酷似している。生まれた時間を考慮すれば、妹と言ってもいいだろう。胸を覆う青いブラ状の水着。そしてお腹から下は青い鱗とヒレがある。


「ふへへへぇ……うぐぅ」

「ちょー! ばかばかおばか! 早く水の中に戻りなさい!」


 魚の尾をビチビチと振わせた香魚。そのあとすぐに陸に上がった魚のように――ように、っていうか魚そのものなんだけど――ぐったりし始める。私は慌てて香魚を抱きしめ、水の中に戻した。水中の酸素を取り入れて呼吸している彼女は、陸に上がると呼吸できなくなるのだ。


 水中に戻った香魚は、すぐに元気を取り戻す。さっきまでぐったりしていたのに、そんな事実がないかのように元気のいい笑顔を私に向けた。


「はふぅ。危ない所でした」

「もう。がっつかないの! もう少しで死ぬところだったんだからね」

「えへへ。ごめんなさい」


 可愛らしく頭を下げる香魚。そのポーズが可愛らしいんだけど、そんなことは絶対口にしてやんない。ドキッとした自分の心臓を戒めるように、心の中でいつもの呪文を三度唱える。


(私はノンケ。私はノンケ。私はノンケ)

(キスは救命活動。キスは救命活動。キスは救命活動)


 夕日の水面で自分をお姉さまと慕う女性と唇を交わす行為。もう日常となった行為。こんなことになったのも、きちんと理由がある。


 夕日が沈み、暗闇が支配する水上。周囲には何もなく、月と星が光源となる闇の世界。国家も文明も、全て沈んだ水没世界。私と香魚はその世界の生き残り。他に生存者はいるかもしれないけど、今ここにいるのは私達だけだ。


(お互いこの世界で生きるために、仕方なくしていることなんだからっ)


 私も香魚も、定期的に唇を重ねないと死んでしまう関係なのだ。

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