何故、最近のネット小説は低俗だと言われるのかを考えてみた

久野真一

何故、最近のネット小説は低俗だと言われるのかを考えてみた

 今朝、ツイッターを巡回していたところ、「最近のラノベやネット小説は思いついても恥ずかしすぎて書けない欲望をそのまま具現化しているので、低俗だ」といった趣旨の言説を見ました。


 「カクヨム」や「小説家になろう」に投稿されている作家さんやあるいはそのようなメディアを普段から使っている方はよく聞く陳腐な批判だと思います。


 それに対する書き手の反応もまたお決まりで「漫画だって昔は低俗だって言われてたし、さらに歴史を遡れば小説だってそうじゃないか」と。「自分の読んでいるものは高尚と思いたいだけだろ」と。細かいところは論者によって差はあれど、最大公約数的にはこういう反論になるのかなと。


 しかし、ふと思うのです。本当に「低俗」批判は的を外しているのだろうか、と。少なくとも部分的には当たっているのではないか、と少し思うようになっています。


 というのは、私自身もネット小説の書き手でありつつ、「あまりにも露骨な作家ないし読者の願望が投影された作品」には苦手意識があるからです。どうも、この「露骨な願望がそのまま描かれ過ぎると興ざめである」っていうのが低俗批判の根源にあるような気がするのです。


 実際、なろうの感想欄を見てもこのような露骨な願望充足の側面が強く感じられる作品は批判を受けやすいような気がしますし(カクヨムはシステム設計上比較的ネガティブ感想が出にくい気はしますが)、ネット小説の読者でも「ええ?これはさすがに露骨な願望が出過ぎてどうなの?」って思う瞬間があるから批判が出るのだと考えた方が妥当そうです。


 しかし、考えてみればネット小説の書き手の多くは小説の素人である以上、従来の小説作法的なものを知らない人が多いですし、趣味で書いてるのだし、そんなもの知るつもりもない、という人が大半なような気がします(かくいう筆者もその一人です)。ただ、そのような未熟な状態で執筆された作品には作者の願望が露骨に入ってしまう。言い換えれば作中の登場人物と作者の距離がとれないのも必然だと思うのですよね。


 一方、プロとして長年やっていて大成している人の作品を見れば(これは一般文芸でもライトノベルでも)わかりますが、作風というのはあれど、「自分」を作中の登場人物からある程度切り離す術を身につけてらっしゃる方が多いように感じます。


 小説や漫画が最初に登場した時にどうだったのかはちゃんとした調査をしないとわからないのですが、やはり同じように、作り手は素人だったでしょうし、願望があまりにもストレートに投影されていたものが多かったのではないか。そして、それ故に「低俗である」という批判を受けたのではないか。そう考えてみたりもします。


 ただ、時代が下っていくと読み手もあまりにも同じようなものが続くと飽きるのでより複雑で「高尚な」物語を求めるようになっていくでしょうし、書き手ももっと複雑な物語を書いてみたいと思うようになっていくのもまた必然です。小説については大昔なので進化の歴史はわかりませんが、漫画は今やかなり洗練された手法を用いていますし、高度な人間ドラマを描けることはもはや説明の必要すらないでしょう。


 つまり、新しい娯楽メディアが登場すると、その初期には願望が露骨に投影されるような傾向があって、それが批判の根源じゃないかという仮説ですね。加えて言うと、若年層は、蛸壺化した従来メディアの内輪ノリについていけなくなって、新しい場を求める結果、従来の層から分離されて、見た目には似ていても違うものを見ているというのもありそうです。もし、この仮説が正しいとするなら、「低俗」批判にもおそらく一定の理はあるのではないかと感じます。


 ただし、そのような批判をしている論者を見ると、ネット小説のごく一部だけを見て偏見の目で語っていることも多くて、その意味では的を外しているとも言えます。しかし、もっとマクロに見ると、この「新しい娯楽メディアへの偏見が湧いてくること」すらもおそらく必然なんだろうなと思います。


 というのは、批判する論者がわざわざ新しい娯楽メディアを網羅的に調査するモチベーションがないし、自分で色々な作品を読む必要もない以上、やり玉にあがるのは「ヒットした作品の一部」になるからです。その状態で正しい批判ないし批評が出来るわけもないですよね。


 だから、おそらく、いつかネット小説がもっと高尚だとみなされる時代が来て、その次には新しく台頭した別のメディアが「低俗」だと言われるようになって、その時には私たちも「低俗だ」という側(言い換えると老害)になっているのかもしれません。「私はそうならないぞ」と思っていても、どうも人間は必然的にそうなるような気がしています。もし、それを回避できる道があるとしたら、ひたすら新しいメディアに直に触れ続けることでしょうか。直に触れ続けていれば、少なくとも新しいメディアを「ばっさりと切る」のがおかしいことは実感できるでしょうし。ただ、それが容易でない道でないことは確かですが。


 ここまで考察して思うのは、たぶん人間の営みの本質っていうのは時代が変わってもまああんまり変わらない面が多いんだろうな、ということです。いくら技術が進歩して、技法も発達しても、欲望の根源が同じ以上、似た現象が繰り返される。


 マクロに見過ぎると「まあ、結局そういうものだよね」とかなってしまって身も蓋もないですが、理不尽な論者の発生・・すらもある種の必然だとわかっていれば、受け入れるのは容易なのではないか、という気がしたりしています。


 

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