1.10 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 病院の待合ロビーの窓から、濃やかな深緑が顔を覗かせた。でもそれは夏の初めに見るような色ではない。少し落ち着いた、渋い色をしている。今日は8月の31日。世の学生は宿題に追われている頃だろう。かくいう僕も、この日に大きな宿題を残している。あの病室で、僕は答え合わせをしなければならない。

 そんなことをぼんやりと考えながらロビーのソファに座っていると、そっと肩をたたかれた。僕は振り返る。風井と夏樹が僕のうしろに立っていた。ふたりとも、薄手のカーディガンを羽織っている。夏の終わりの朝は少し肌寒い。

「おはよう、ふたりとも。何だかペアルックみたいだね」

「別にわざと似せたわけじゃないよ。オレたち、なぜかよく服装が似るから」

「そうよ。ていうかそもそも、なんでこんなに急に私たちを呼び出したの?朝スマホを確認したら『今日できるだけ早く病院まで来てほしい』ってメッセージが来てて、びっくりしたんだけど」

そう言いながらふたりは僕のとなりに座る。それに関しては、本当に申し訳ないと思っている。

「いや、ごめんね。なるべく早くふたりには集まってほしくて」

「別に怒ってはないけどさ。もしも私たちに予定があったらどうするつもりだったのよ」

「まあまあいいじゃない。オレは内定がほぼ決まって暇だったしさ。どうせ冬佳も暇だったでしょう」

それを聞いて風井は、あんたと同じにしないでよ、と軽く夏樹の肩を叩く。そして自然と僕たちの間に笑いが生まれる。数年前から見慣れた光景に、本当に心が落ち着く瞬間だった。少し前の僕だったら、このままこの無害なだけの時間が続けばいいのに、と願っていたかもしれない。決定的な瞬間までがどこまでも薄く引き伸ばされた、何も足されない、何も引かれない時間。きっとそれは本当に魅力的なのだろうけれど、そんなものは天国によく似た無間地獄みたいなものだ。結局、傷つかないことに傷つくだけだろう。だから僕はこの時間を終わらせなければならない。決定的な瞬間に、自分の意志で足を踏み込まなければならない。

「それで、今日急にふたりを誘った理由なんだけど」

僕がそう言うと、ふたりの顔が引き締まる。誠実な4つの目が僕を見つめている。

「出せたの?答えを」

「うん。あのカフェで話してから、ずっとこのことについて考えていた。ようやく、僕はあの子の問いに答えを提示するよ。それに花丸をつけるか、バツをつけるかはあの子次第だ」

「じゃあオレたちはさしずめ試験監督だね。最後まで見届けるよ」

そう言って夏樹は風井に目配せする。風井も少し恥ずかしそうに目線を逸らしたあと、たしかにうなずいた。僕は立ち上がる。

「じゃあ行こう。あの病室に。彼女に会いに」

「いいの?そんなに急で。心の準備とかいらない?」

「大丈夫。しかも早くしないと、百日紅が散ってしまう」

それを聞いてふたりは少し驚いているようだったけれど、にわかに夏樹は微笑んで、「そうだね、行こうか」と言って立ち上がった。風井も慌てて自分のかばんをひったくる。もう歩き出していたた僕たちを、急ぎ足でついてきた。

「ちょっと待ってよ、それってどういうこと?」

「千秋も変わり続けているってことだよ、たぶん」

後ろからそんな会話が聞こえてくる。うん、きっとその通りなんだろう。月が形を変えるように、花が咲いては散るように、僕たちは常に変化し続けている。


 3回ノックをして、ドアノブに手をかける。ドアが開いた瞬間、僕は大きく息を吸った。もうあんな、自分とあの子に嘘を吐くような息は吐かない。作り笑いも愛想笑いもせずに、僕はこちらを向いた女の子に「こんにちは」と言った。僕の真顔の挨拶に、彼女は笑顔で「こんにちは、というかおはようございます?」と答える。その笑顔はやっぱり偽物ではないけれど、本物でもなかった。

 そして僕たち3人はベッドを囲むように椅子に座る。ベッドの上の彼女は両手を膝に載せて礼儀よく座っていた。

「みなさんめずらしいですね。こんな早くに来るなんて」

「そうだね。もしかしてまだ起きたばかりだった?」

「いいえ、私は6時くらいには起きていたんですけど。むしろ朝早くに起きてもすることがなくて暇なので、みなさんに来てもらってよかったです」

「いやに起きるの早いわね。眠くならないの?」

「ここにいても疲れないので、あんまり寝る必要がないんですよ。することと言っても、テレビをぼんやり眺めるか、窓の外を眺めるくらいで」

彼女はそう言って窓に視線を向ける。そこにはもちろん百日紅の木がある。深緑の葉々を背景にして、紅花が一房だけ健気に残っている。

「いつの間にかこんなに散っちゃったんだね。オレがこの前お見舞いに来たときは、もう少し咲いていたのに」

「はい。夏も終わってしまいますね。私にとってはじめての季節なのに、結局何にもできなかったです」

「じゃあ来年の夏こそ、色んなことをすればいい」

僕がそう言うと、彼女は少しはかなげにつぶやく。

「はい、そうですね。でも私は、できれば皆さんとそういうことがしたかった」

「来年の夏も、僕は君と一緒にいるよ」

口からそんな言葉がこぼれる。でもそれは自分の意志で、きちんと目的をもってこぼしたのだ。

「来年だけじゃない。再来年も、その次の年も、さらにそのあとも。僕は君と一緒にいる」

「どうして、そんなことが分かるんですか?」

「僕がそう決めたからだよ」

僕がそう言うと、彼女は少し目を丸くした。風井と夏樹も、名前をつけがたいような表情をしている。当たり前だ。僕の言葉に論理関係も何もない。

「僕がこの先も君と一緒にいるかどうかは、僕が決めた。だから、君がこの先僕と一緒にいるかどうかは、君が決めればいい。君が選んだ方がきっと正解だ」

「じゃあもしも、私たちの意見がすれ違ってしまったらどうするんですか?」

「そんなの大きな問題じゃないよ。僕たちは矛盾を抱えたまま前に進んでいけばいい。それはとても難しいことかもしれないけれど、できないわけではない。少なくとも、矛盾を無理矢理解消してしまうよりはずっと優しい」

「いいえ。きっとあなたは、いや、私はそれに耐えられない。そんな不安定な関係を私たちは許容できない。理由はあなたが1番よくわかるでしょう?だって私は結局」

「ニセモノだ、って言いたいんでしょう?」

僕は口を挟む。僕が出した予想に、彼女は何も言わなかった。きっとその通りなのだろう。その代わり彼女は、またあのときみたいな迫った表情をした。彼女がこんな顔をするのも、今日で終わりにしよう。魔法みたいに劇的でもロマンチックでもないけれど、確かにひとりの女の子を笑顔にする言葉で。

「君はニセモノなのかもしれない。見た目だけを今までの望月千春に似せた、精巧なヒューマノイドみたいなものなのかもしれない。でもそれがどうしたっていうんだ。そんなの、君に限ったことじゃないだろ。僕も、風井も、夏樹も、みんな常に少しずつ変化している。僕たちは毎秒ごとに僕たちではなくなっているんだよ。ねぇ。一体僕と君は、何が違うというのだろう?君が記憶を失くすことと、僕が目の前の女の子を受け止められるようになることの、一体何が違うというのだろう?」

そこまで言って僕は口を閉じる。目の前の彼女は微動だにしないまま、その瞳孔だけがかすかに揺れている。その瞳に、僕はようやく答えを示す。


「ねぇ、千春。君は望月千春だよ。どうしようもなく。ニセモノなんかじゃない。僕が君と出会ってから今に至るまで、ずっと千春のままだったんだ」


 すると千春は、大粒の涙をほろほろと落とした。端正な顔をゆがませて、赤く染まった頬をぬらしていく。それは笑顔ではなかったけれど、きっと笑顔と同じ意味を持つ表情だった。僕はそっと、千春の頬に触れる。温かかった。この子はこの子だけの身体やこころを持っている、ひとりの人間なのだ。

「今までごめんね。ずっと。最初から。何度君を傷つけてきたかわからない。今も傷ついているのかもしれない。今更君を名前で呼ぶことができたって、その傷が完全に癒えることなんてないのでしょう。それでも僕は、君を千春と呼ぶよ。君と一緒にいることを選ぶよ。それは罪滅ぼしとか、義務感によってなんかじゃない。僕がそれを願って、それを自分で選び取ったんだ」

「本当に、いいんですか?私で。私のままで。私は、ニセモノの春なのに。不完全な春なのに」

千春の声が、身体が震える。彼女の頬に触れた手からそれが伝わってくる。でも僕はその震えを止めようとは思わない。それだって『彼女の』震えだ。今生きている、望月千春の震えだ。

「いいって言っているでしょう?さっきも言ったけど、まず君はニセモノじゃない。僕がそう決めたんだから。あと、不完全がどうしたというのさ。じゃあ逆に聞くけれど、この世のどこに完全な人間がいるっというの?みんなどこか欠けている。その大小なんかは個性って名前でもつけたらいい。そんなもの本質的じゃない。むしろ、欠けたところにこそ人間の本質は存在する。君も、欠けているところが美しいんだよ。ちょうど、十六夜の月のように」

僕がそう言い終えるころには、千春の涙は止まっていた。そしてその代わりに、僕の胸元へと飛び込んできた。柔らかい肌の感触と女の子の匂いが、感覚器官を通じて僕の脳内へと伝わる。優しい感覚だった。千春は僕の腕の中で少し身動きして、顔を上げた。鼻先が触れてしまいそうなほど近づいて、僕の顔をのぞき込む。

「千秋」

千春の声で、僕の名前が呼ばれた。ただそれだけなのに、なんだか泣きそうになる。名前を呼ばれることって、こんなにも嬉しくてはかないものだっただろうか。

「私もずっと、君のことを名前で呼びたかったの」

千春はこう言って笑う。初めて見た種類の表情だった。僕はずっと、この笑顔が見たかったのだと気がついた。


僕たちが気がつかない間に、百日紅の最後の花も散っていた。その日ようやく、長かった夏が終わった。

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春の名前 橘暮四 @hosai

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