1.9 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 時計の針が止まって見える現象の名前って、何だったっけ。僕はリビングの時計を眺めながらぼんやりと考えた。クロノなんとかだったような。名前なんてどうでもいいけれど、僕は今それを体験してみることもできない。僕が見ている時計は、デジタル時計なのだから。それは1:50を示している。お昼ではなくて、深夜の。さっきたまたま時計を見たらその時間だったから、僕はあの病室のアナログ時計を思い出したのだ。一ヶ月前までは、病室の時計が午後1時50分を指すまでの毎秒、針が止まっているように思えた。でもそれはクロノなんとかのせいではなかったのだろう。きっと僕の心の持ちようで、気まずい彼女との時間が早く終わってほしいと願っていたせいだ。いざ振り返ってみるといかに自分が嫌な人間だったか分かる。そりゃ彼女も傷つくはずだ。でも今はそんなことは思っていない。『今の彼女』を知るために、『今の彼女』が心から笑えるようになるために、あの病室で過ごす一秒一秒が惜しい。むしろクロノなんとかが起こってほしいくらいだ。

 だけど。僕は最近の彼女の表情を思い浮かべる。たしかに、彼女は本当に表情が柔らかくなった。僕や風井に対して、こころを開いてくれるようになった。一ヶ月前とは見違えるくらいに。あの病室は、僕たちの目指すゴールに限りなく近づいていた。だけど。僕はまた心の中で繰り返す。やっぱり、完全なゴールには至っていないのだろう。僕たちは、『今の彼女』を完全に受け入れたことにはなっていないのだろう。彼女の態度がそれを示している。彼女はフランクになったとはいえまだ敬語で話しているし、僕たちのことを苗字にさん付けで呼んでいる。当たり前だ。未だに自分のことを名前で呼んでくれないひとを、気安く呼び捨てで呼べるはずがない。

 でもそれに至っては僕たちの問題ではない。ただひとり、僕だけの問題だ。風井や夏樹はもとから彼女のことを名前で呼んでいるのだから。呼んでいないのは、呼ぶ決断をしないでいるのは、僕だけだ。僕だけがまだそんな状態だから、彼女も完全に安心することができなくて、僕たち全員に壁を作ってしまっている。

 だからここからはひとりで考えないといけない。ひとりの力で僕は僕を克服しないといけない。今まで風井や夏樹、そして文通相手に助けてもらってきたのだから、最後くらいは責任をもって誠実に、けじめをつけなければいけない。

 そう考えて僕は、ダイニングテーブルの椅子に座ってひたすら思考の海に身を投げ出していた。もうこれで3時間くらいになるか。あまり眠くはないけれど、さすがに少し疲労がたまっているように感じた。僕はこめかみを軽く押さえて背もたれにもたれかかる。

「千秋、まだ起きていたのか」

急に声をかけられて、僕はこめかみから手を離す。ダイニングの薄暗くてささやかな照明では顔はあまり見えないけれど、この家にいるのは僕と父さんしかいない。

「うん、ちょっと寝られなくて。父さんは?」

「歳を取ると眠りが浅くなっていけないな」

父さんは少し笑いながらキッチンへと向かって、マグカップをふたつ取り出す。

「何か飲むか?」

「ミルクティー」

「紅茶はだめ。眠れなくなるから」

そう言って父さんは、ホットミルクをふたつテーブルに並べた。じゃあ最初から訊かないでよ、と小言を垂れながらマグカップに口をつけると、暖かいミルクと蜂蜜の甘さが口にじんわりと広がった。僕もさすがに反抗期は過ぎている。父さんの優しさがお腹に染み渡っていくのを感じながら、「でも美味しいよ、ありがとう」と素直にお礼を言った。すると父さんは恥ずかしそうに頬をかいた。思えばこういう風に父さんとゆっくり会話をするのも久しぶりだ。父さんは昔から仕事の忙しい人だった。

「何か、悩み事があるんだろう?」

父さんはホットミルクをすすりながら、そう尋ねてきた。少しびっくりする。

「どうして分かったの?」

「理由なんてない。強いて言うならお前の親だからかな。唯一の息子が何か悩んでたらすぐ分かるさ。俺はきっと、世界で2番目にお前に詳しいよ」

父さんは笑った。少しだけ悲しい笑い方だった。1番目が誰かは訊く必要もないことだった。

「明日はどうせ休みだ。よければ付き合うぞ」

「うん、ありがとう。でも大丈夫。これはきっと僕自身で解決しないといけないんだ。だからひとりで頑張ってみるよ。無理はしない程度に」

すると父さんはそうか、とだけつぶやいて、またホットミルクを口に運んだ。それぎり詮索はしないでくれた。静かで穏やかな沈黙が、午前2時過ぎのダイニングに流れる。ホットミルクはまだ冷めなかった。

「これはひとりごとなんだけどな」

突然父さんがつぶやく。少しびっくりして、反射的に「どうしたの?」と口が開く。

「おい、ひとりごとっていっただろ。返事をしちゃったらひとりごとにならない」

父さんは慌てた様子でそう言う。さっきまでは少しかっこよかったのに。不器用なひとだ。僕は父さんに合わせて口を閉じる。父さんは少し咳払いをした。

「それで、ひとりごとなんだけど。ある男には初恋の女性がいたんだ。男の小中の同級生だった。その子は目立つタイプではなかったんだけど、しっかり芯を持っていた。実直な女の子だった。男はいつの間にかその子に好意を抱くようになっていた。そして中学2年生の夏祭りの日、玉砕覚悟で告白したらなんとオーケー。付き合うことになったんだ。そして喧嘩したり仲直りしたりを繰り返して、彼らは大人になった。付き合って10年目の記念日、ちょっと背伸びしたレストランで男はついにプロポーズした。窓から見える空に大きな花火が咲いていた夜だった。そして数年後には彼らは子どもを授かった。誰かさんに似て、実直な子に育った。男の妻はその子を世界で1番愛していた。そして1番の座を誰にも譲らないまま、ある日突然死んだ」

そこまで言って父さんは口を閉ざした。マグカップを両手でつかんだまま、じっとその中身を見つめていた。これは父さんのひとりごとなのだから、僕はうなずいたりはしない。ずっとほの暗い照明を見つめていた。そうしていないと、涙があふれてしまいそうだったから。

「男はとてもつらい思いをした。『失って初めてその大切さに気がつく』だなんて月並みな言葉の意味を、その男は今まで理解していなかった。本当に、妻を失ってから初めてその意味に気づいたんだ。その点では、男にとって大事なひとを失うことは必要だったのかもしれない。だけど。それは、1回でいい。その意味を、大切さを、気づくことができたのなら、そのあとは大切なものを失わないように努力するべきだ。もし失っても後悔しないように、その大切さを常にかみしめるべきだ。男は妻が遺したただひとりの息子にそのことをきちんと伝えるために、妻のいない世界を生きていこうと決めた」

最後まで聞き終えないうちに、照明の輪郭がぼやけはじめた。テーブルの向かいに座っているはずの父さんの顔も見えない。そのまま固まっているうちに、マグカップがテーブルから離れる音、キッチンの方から水の流れる音が聞こえた。それがやむと、「おやすみなさい。早く寝るんだぞ」と小さな声が聞こえた。そして静かに、扉の閉まる音がする。それと同時に、僕はテーブルに突っ伏してしまった。顔をテーブルに押しつける。泣き声が寝室まで漏れないように。


 いつの間にか眠ってしまったらしい。ふと目を覚ますと、染みがついたテーブルにまぶしい太陽の光が差し込んでいた。僕は立ち上がって、カーテンを全開にする。夏の朝空が眼前に広がっていた。不自然な体勢で寝たはずなのに、妙に頭ははっきりしている。ここで僕は初めて気がついた。僕は何も、考える必要なんてなかったんだ。昨日文通相手からあの手紙をもらった時点で、答えはすでに出ていた。あと僕に足りなかったのは動機だけ。目の前にあるゴールテープを切るための動機だけだったのだ。本当に、ここまで来るのにどれだけ時間がかかったのだろう。散々回り道をした。途中で転んだりもした。きっと僕だけならば、そこで諦めていただろう。膝を折って、確実に道のりの先にあるゴールテープから目をそらしていた。

 でも僕には風井がいた。優しくて弱くて、だけど強い女の子だ。彼女はいつも僕に真正面からぶつかってくれた。

 でも僕には夏樹がいた。聡明で、一歩引いた目線から的確なアドバイスをくれた。思えば彼が、不安定な僕を支えてくれたのだと思う。

 でも僕には図書館の文通相手がいた。教養があって、とても繊細な言葉を扱うひとだ。直接この問題に関わった訳ではないけれど、その誠実な答えが僕に活路を与えてくれた。

 そして、父さんがいた。不器用なやり方だったけれど、最後に僕の背中を押してくれた。きっと僕は親孝行してもしきれない。

 いろんな人の助けを借りて、僕は今ここにいる。夏の朝に立っている。僕は最後に、この人たちに報いよう。あるひとりの女の子を笑顔にするために、この手で長かった夏を終わらせよう。


 僕はかばんにしまったままのスマホを取り出す。ひとつ大きな息を吐いて、メッセージを送る。それは、夏のはじめに吐いたものとは完全に違う種類の息だった。

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