1.8 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 それから僕たちは、彼女との関わり方を大きく変えた。風井はもう、過去の話をしなくなった。僕はもう、沈黙することはなくなった。どんなに文脈がちぐはぐでもいい。どんなに不器用に言葉を繋いでもいい。僕たちは一歩ずつ、『今の彼女』自身を理解することに努めた。今までで一番美味しかった病院食を訊いた。ベッド脇の小さなテレビで見てきた中で、一番好きな番組を訊いた。ときどきお見舞いに飾られていた花の中で、一番印象に残っているものを訊いた。彼女は五月以降の記憶しか持っていないから、一番を決めようにもそもそも知らないこともたくさんあった。そんなときは僕たちで、彼女の一番を見つける手伝いをした。あるときは高校の頃に使ったパレットと絵の具を持ってきて、とにかくたくさんの色を作って彼女に見せたりもした。彼女は深い群青の色が好きだと言った。千春の好きな色は明るいオレンジだったから、やっぱり彼女の嗜好も変わっていっているのだと思う。でも今は、彼女の好きな色を群青からオレンジに戻したいとは思わない。群青が好きなのも愛すべき『今の彼女』の個性だ。

 最初のうちは彼女は、僕たちの態度の変わりように戸惑っているように見えた。だけど少しずつ、彼女の表情が柔らかく笑顔になることが増えていった。以前までは僕たちの話を聞くだけだった彼女も、自分から話を始めるようになった。きっと僕たちの距離感は、一般に友人と呼べるくらいには近しくなれたのだと思う。僕と風井、そして夏樹が病室にそろった日なんかは、本当に会話が盛り上がって、4人仲良く看護師さんに注意されることもあった。

 それでも、やっぱり何もかもが上向いたわけではない。僕はまだ、彼女のことを名前で呼ぶことができなかった。それに彼女も気づいていたのだろう。打ち解けているなかにも、彼女はたしかに距離を保っているように見えた。僕たちはきっともう友人だけど、逆にそれ以上にはなれなかった。

 名前で呼ぶなんて簡単だ。何回も自分に言い聞かせた。たったひと言、ちはると言ってあげればそれでいい。僕にはできるはずだ。いや、できなければならない。たったひとりの女の子がきちんと笑えるように、それぐらいのことは。そう思って僕は、何度もそれを試してみた。でも結局毎回失敗してしまう。喉が完全に塞がれてしまったみたいに、言葉が出てこなかった。

 そんなふうにひとりで悩んでいるうちに、残酷に時間は過ぎていく。どんどん暑さは増していくし、蝉の鳴く声も日に日に変わっていった。病室に覗く百日紅は、散っては咲き、散っては咲きを繰り返す。それでもきっと、全ての花が散ってしまう日もさほど遠くはないのだろう。その様子が僕を焦らせた。

 

 そしてあっという間に一週間が経ち、また金曜日を迎えた。僕はいつものように図書館の窓側の席へ座っていた。でも今日はいつもより緊張している。それはもちろん、あのメッセージがあるから。相手はあれに気がついたのだろうか。もし気づいていたとして、相手はどう思い、どう返したのだろうか。あるいは最悪の場合、返さなかったのだろうか。僕は深く深呼吸をして、『古今和歌集』の本をめくる。すると、かなり後半のページに便箋が挟まっていることに気がついた。とりあえず僕は安心する。相手が僕の不躾な質問に腹を立てて、以降返事を書くのをやめてしまったということはなさそうだ。僕は便箋を開いて、その中身を読み始める。それは普段と変わらないように見えた。丁寧な挨拶から始まって、前回僕が投げかけた質問に答える。そしてそれに関連させて、また話を広げていく。今回は伊勢物語の歌についてだ。そのままつつがなく話は進み、何も無いままいよいよ最後の返歌まで来てしまった。結局、僕の疑問に関することは一切書かれていなかった。一応便箋の裏や、他のページも探してみたけれど、僕のメッセージへの返事らしきものは見当たらなかった。相手はあのメッセージに気がつかなかったのだろう。僕は小さくため息をつく。やっぱりものごとはそう上手くは運ばないな。僕の中の臆病な部分は少しこの結果に安堵していたけれど、今の僕にとってはやはり残念な気持ちの方が大きかった。


 そして、そのまま。僕たちの状況は前向きに硬直したままで2週間が過ぎた。お盆を過ぎると暑さの種類も変わってきた。蒸し暑い中にも涼しい風を感じることができるような、夏の終わりを感じさせる暑さだった。蝉の鳴く声ももうすっかり様変わりしてしまった。ミンミンゼミは鳴りを潜めて、ツクツクボウシが落ち着いた声で鳴いている。夜寝るときなんかは、開けた窓から鈴虫の鳴く声さえ聞こえた。それを聞くたびに、僕はベッドのなかで焦りを募らせていた。

 僕はまたいつものように、図書館の書庫の間を『古今和歌集』の本を抱えて歩いていた。相手があのメッセージに気づいていないと知ってから、もう2回手紙を交換しているけれど、僕は新たにまたメッセージを忍ばせるようなことはしなかった。やっぱり核心に迫るようなことは訊くべきではなかったし、もし答えが返ってきていたとしても、その答えが僕に何かを与えてくれるとも限らないのだ。そう思うようにしていた。今日も窓側の席で、便箋が挟まっているページを探す。それを見つけて、栞を挟んで本を閉じる。そのままのいつもの流れで、何も考えずに折られていた便箋を開くと、一枚の紙が挟まっていることに気がついた。『秋来ぬと目にはさやかに見えねども袖振草に君だけが見えず』と書いてある。文通をはじめるきっかけとなった歌だ。どうしてこの歌をわざわざ手紙とは別に挟んだのだろう。手紙の方にも目を通してみたけれど、これに関連するような話題ではない。終わりの返歌も、夏の歌を本歌取りしたものになっている。本歌取り。僕はふと頭に浮かぶものがあった。僕はこの手紙が挟んであった夏の部よりも後のページ、秋の部を一枚一枚めくってみる。すると、また違う便箋が挟まっていることに気がついた。そのページにある歌を見てみる。『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる』。やっぱり。回りくどいことをするなとは思ったけれど、よく考えてみたらこの方法が僕たちに一番似合っている。この文通には、本歌取り元の歌があるページに手紙を挟む暗黙のルールがある。僕はそっと、その便箋を開いた。この感覚は、はじめて相手からの返事があったときによく似ていた。


 煩わしいことをして申し訳ありません。本当はこの手紙も、本来のお返事と一緒に挟もうかと思っていたのですが、遠慮させていただきました。なぜかと申しますと、私の半分はこの手紙が気づかれるのを望んでいなかったからです。そういう内容をこの手紙にはしたためました。さだめてあなたは、すでにその内容に気づいていらっしゃると思いますが。

 あなたは少し前のお手紙の裏に、どうして私はあなたの顔も名前も存じ上げないのに、この手紙のやりとりを続けているのか、とお書きになっていたと思います。正直に申しますと、なぜ顔や名前を知らないことが問題になるのでしょうか。たしかに私たちは、お互い何者なのかは全く分かりません。あなたが学生なのか教員なのか、そもそも毎回同じ人がお返事を書いてくださっているのか、それすらも分かりません。私たちがお互いについて知っていることはただ、手紙の中の言葉だけなのですから。それでも私は、あなたと言葉を交わし続けたいと思います。なぜならあなたは、とても実直なこころの持ち主なのですから。私はそう思います。人というのは、生身の人間に対しては嘘を付けても、芸術には嘘が付けないものです。はじめてあなたの歌を拝見したとき、私はあなたのこころの、素朴で実直なことに感心いたしました。きっとあなたはそういうひと。私にとっては、それだけで文通を続けるには十分なのです。

 それでも、毎回同じ人が書いているとは限らないのに、どうして私は『あなたと』文通を続けるということができるのか、そう思われるかもしれません。では逆におたずねします。どうして顔や名前を知っている人なら、昨日も今日も同じ人だと思うことができて、知らないなら思うことができないのでしょう。その違いは一体何なのでしょうか。相手の顔や名前を知っていたとして、ある日突然相手が、見た目はそっくりなヒューマノイドに変わっていたとしたら?記憶だけが同じで、人格はまったく変わっていたとしたら?私たちはその変化に気がつくことができるでしょうか。そもそも『変化』とは一体何をもってそう言うのでしょう?髪の色や骨格、顔立ちが変わってしまったらその人は『変化』したと言って、ただ切り傷がついてしまっただけなら『変化』とは言わないのでしょうか?その違いは、その境界線はどこにあるのでしょうか?

 結論を申し上げますと、違いなんて、境界線なんてないのです。目の前のだれかが、手紙の向こうのだれかが昨日のその人と同じ人であるかどうかなんて、誰にもわかりはしないのです。人は大なり小なり変化し続けている。寝る前の自分と起きた後の自分でさえも必ずなにかは違っている。そんな『人間』に、同一性を求めることなんてできないのです。だから、相手がその人であるかどうかは、自分で決めればよいのだと思います。例えば、ある日ヒューマノイドになってしまった友人は昨日までの友人と同一人物なのか、ある日指の先に小さな切り傷をした友人は昨日までの友人と同一人物なのか、それはあなたが決めればよいことなのです。それぞれが好き勝手にそれぞれを決める、それしか私たちにはできないのです。だから私も、あなたはあなただと勝手に決めることにしています。私が決めたから、あなたは実直なあなたのままなのです。

 これで答えになりましたでしょうか。本当はもっとはやくこのお手紙をお渡しできればよかったのですが、誠実なお返事を差し上げようと文面を考えるのに四苦八苦しておりましたら二週間も経ってしまいました。お待たせしてしまい申し訳ありません。それでは、さようなら。


 長い手紙だった。普段の手紙はきれいに便箋一枚にまとまるように書かれていたから、少し意外に感じた。でも、その長さはきっと、僕のためを思ってだろう。手紙にも書いてあった通り、僕の問いに誠実に答えるために。この相手は僕のことを実直なひとだと言ってくれたけれど、それを言うなら相手だってそうだ。今までの手紙にあった言葉や和歌、そして何週間もかけて僕の不躾な問いに答えてくれたことからそれを推察できる。この文通相手は誠実なひとだ。もしかしたら言葉で誠実さを装っているだけで、実際は傲岸不遜な人間かもしれない。でも相手に言わせればそんなこと関係ない。僕が誠実だと決めたのなら誠実なのだろう。僕は大事にその手紙を鞄のポケットにしまって、本来の文通の返事を考える。そしてまた便箋一枚分の返事を清書し終わったあと、その裏に小さく「ありがとうございます」とだけ書いた。そしていつも通り本に挟んで閉じる。こんどこそ相手はこの控えめなメッセージに気がつかないかもしれない。それでもいい。今はメッセージが届くとか届かないとかはどうでもよかった。僕がメッセージを書いた、その事実だけが重要なのだ。きっとこの相手への態度には、それが一番誠実なのだろう。

 図書館をでると、見上げた空は茜色に染まっていた。暮れ泥んだ西の空に、鴉の飛ぶ陰だけが小さく浮かんでいる。もうこんなに日が短くなったのか。そう考えていると、夕暮れの陽差しを縫うように、涼しい風がそっと頬をなでた。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」

口からこぼれたその言葉は、誰の耳にも入ることなく夕方の空に消えていった。

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