1.7 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 梅雨が明けた次の日、つまり金曜日の朝に、僕はさっそく風井と会う約束をとりつけた。休日の僕には珍しく朝の9時前には目を覚まして、『会って話がしたい。近く空いてる日はある?』とメッセージを送信した。きちんと送信されているのを確認して、アプリを閉じようとしたそのときに既読が付いた。そしてすぐに、『今日の午後』とだけの素っ気ない返信が返ってきた。『近く空いてる日』と言ったのは僕だけど、まさか今日とは思っていなかった。きっと風井にも話したいことがあるのだろう。僕は待ち合わせ場所にとあるカフェを指定して、15時に集合しよう、と送った。今回も送信した瞬間に既読が付いたけれど、なぜだか返事は返ってこなかった。そして大体10分後、朝食のシリアルを食べてスマホを確認すると、たった2文字『了解』とだけ返信があった。奇妙な風井の行動に、一応僕たちは喧嘩中だったことを思い出した。きっと即返信するのが気恥ずかしいんだろうな。そういうところも風井らしい。僕は少しだけ意地悪して、デフォルメされたキャラのかわいらしいスタンプを送りつけた。


 父さんは仕事だからひとりで適当な昼食をすませて、13時すぎに僕は家を出た。一歩外へ出ると、うるさいくらいの蝉の声と暴力的な夏の暑さが感覚器官を通して僕の脳に強く訴えかけてきた。明日はもう8月だからか、つい最近まで雨ばかりだったのに今日は夏真っ盛りだ。

 僕は絶えず額に流れる汗を拭いながら、大通りを歩く。僕が向かっている方は待ち合わせのカフェとは反対側だ。こっちの方向にあるのは大学。風井と話をする前に、僕はまたあの図書館で手紙を書かなければならない。

 天国みたいに冷房の効いた図書館で火照った身体を冷やしながら、僕はあの『古今和歌集』の本を取って席に座る。まわりにほとんど人はいなかった。少し前のテスト期間中はどの席も人がいっぱいで、隣の人も、ついたてを挟んだ向かいの人も、熱心にペンを動かしていたのに、今日はただ2、3人だけが静かに本をめくっている。僕はどちらかというと今日の方が好きだ。時間がゆっくり流れているみたいで、図書館らしい。

 そんな静かな図書館で、僕はまた濁りのない言葉を読んで、返事を書く。この文通の習慣はテスト期間中も、夏休みに入ってからも途切れることはなかった。というか僕たちの言葉のやりとりは、大学のイベントや、お互いの生活に対して全く無関係に行われていた。『テストが近いですね』だとか、『夏休みはいかがお過ごしですか』だとかそんな話題は一切出ないし、どこかに遊びに行った、とか家族や友人がこんなことをしていた、とかいうような、おおよそ大学生がするような会話さえなかった。ただただお互いに、月や花の綺麗なこと、文学作品の鑑賞なんかを伝えあっていた。だからもちろん、恋人が記憶を失ったこともこの文通相手には伝えていなかった。この数ヶ月、大きく変わった僕の生活において、この文通だけが一切変化しなかった。

 30分ほどかけて、返事を書き終えた。いつものように、実際の『僕』とは無関係な話を書いた返事。あとはこの便箋を、本歌取り元の歌が載っているページに挟むだけだ。だけど。僕はじっとその便箋を見つめる。こんなことは訊くべきではないと思いながらも、どうしても相手に尋ねたいことがあった。それは、『いったい僕たちのこの関係とはなんなのか』ということ。きっと、文通相手という簡単なひとことで済ませてしまうこともできるのだろう。だけど文通というのはやはり、言葉を通して相手のことを知りたいという気持ちが根底にはあるのだと思う。それこそ平安貴族みたいに、お互い顔を合わせないうちに恋愛感情を育むということもある。対して僕たちのこのやりとりは、やはりそういう性質を持ったものではない。もう1年弱手紙の交換を続けてきたけれど、僕は相手のことをほとんど何も知らないし、特に知りたいとも思わない。恋愛感情なんてなおさらだ。そしてそれはきっと向こうも同じ。僕も便宜上は『文通』だんて言葉を使っているけれど、おそらくその言葉は本質を映しだしはしない。この関係の核心は、言葉がカバーできる範囲の外側にある。

 相手はこの関係のことを、どう思っているのだろうか。名前も顔もわからない人と美しいだけの言葉を交換する、この関係を。それは純粋な興味としてずっと持っていたけれど、今まで直接尋ねたことはなかった。繊細なこの関係は、無配慮な好奇心で壊れる可能性だってあるから。でも今の僕は、好奇心以上の理由を持ち合わせていた。それはもちろん、記憶を失くした彼女との関係についての問題。上手く名前の付けられない曖昧な関係という点で、このふたつの関係はよく似ていた。もしかしたら相手の考えを聞くことによって、記憶を失くした彼女との関係にも何か糸口が見えるかもしれない。そう思った。有り体に言って下心だ。

 僕は便箋の裏に小さく、『どうしてあなたは僕と、手紙のやりとりを続けてくれるのですか?あなたは僕の名前も顔も知らないのに』と書いた。そして、ページを開いただけではそのメッセージが見えないように、それを書いた面を下側にして、手紙を本に挟んだ。これだともしかしたら相手は気がつかないかもしれない。そんなことはもちろん分かっていた。結局僕の半分は、相手がこのメッセージに気がつかないことを望んでいたのだ。それはこの関係を曖昧で心地よいままで残していたいという、臆病な僕だ。


 そのあと僕はまた歩いてきた道を戻って家の前も通り過ぎ、集合15分前にはカフェへと辿り着いていた。少し早く着きすぎただろうか。そう思いながら店内に入って、ぐるりと店全体を見渡すと、角の席に風井が座っていることに気がついた。まさかもういるとは思っていなかった。僕は「こんにちは、早いね」と声をかけて座る。向かいの彼女は恥ずかしそうに目線を逸らしながら、小さく「こんにちは」とつぶやいた。

「ごめんね。急に呼び出しちゃって」

「いや、別にそれはいいんだけど…ていうか、なんでわざわざこのカフェにしたの?話したいだけなら大学の空き教室とかでもいいじゃない。このカフェすごくおしゃれだし、値段も高そうなんだけど」

「ここは夏樹に教えてもらったんだ。とても美味しい紅茶を出すから、ぜひ行ってみるといい、って言われてさ。今日の待ち合わせにはちょうどいいって思って」

「いまいち論理関係が見えてこないわね」

「つまり僕たちは今日、美味しい紅茶が似合うような話をしないといけないってことだよ」

僕がそう言うと、風井は少しの間だけ僕の目をじっと見つめた。そして、まだ少し釈然としないような顔をして、「なんとなくはわかった」とだけこぼした。

「まぁこのカフェに誘ったのは僕だからさ。風井の分は出すよ」

そんな様子の風井を見て、不用意にこんなことを言ったのが間違いだった。風井は僕のおごり宣言を聞くと、にやりと意地の悪い笑顔を浮かべながら楽しそうにメニュー表を睨みはじめた。そして結局僕たちの机には、ティーカップふたつと巨大なパンケーキが並ぶこととなった。僕はバイト2時間分のパンケーキが消えていくのを少し恨めしく眺めながら、内心ではほっとしていた。きっと彼女はパンケーキひとつで僕を許してくれたのだろう。女の子を泣かせた上に、その子を急に呼び出した僕を。そう考えるならやっぱり風井は優しい。まだ少し後悔はしているけれど。

 風井がパンケーキを食べ終えたのを見計らって、僕は「それでなんだけど」と話を切り出す。さっきまで緩みきった顔をしていた風井も、真剣な表情に戻った。

「まずは謝るよ。ごめん。一ヶ月前のこと」

「いや、こちらこそごめん。つい感情的になって、責めるようなこと言っちゃって。私のせいでお見舞いに行けなくなってしまったとしたら…」

「違うんだよ。それは君のせいじゃない。完全に僕の問題だ。僕自身が原因で、お見舞いに行かなかったんだ」

「その原因ってなに?」

「つまり僕は、風井の問いにきちんと答えを出すまではあの病室に行ってはいけないと思ったんだよ。どうして記憶を取り戻そうとしないんだ、あの子の何が好きなんだっていう、あの問いだ。答えを出せないと、僕はあの子と誠実に向き合うことはできないと思ったんだ」

「それで、結局その答えは見つかったの?」

「ううん、見つからなかった。夏樹に助けてもらって、いいところまではいったんだけど。見つからないままテストが終わって、僕は言い訳を失ってしまった。だから僕は不誠実のまま、彼女に会いに行ってきたよ」

そこまで言うと彼女は少し表情を曇らせながら、そうなんだ、とつぶやいた。できるなら本当は、この先話したくなんてなかった。話せば、絶対に風井は傷つくだろうから。さっきようやく風井の涙を拭ききったのに、僕はこれ以上彼女の泣き顔を見たくない。でも。風井の涙を見たくないなんていうのも、結局は僕のためだろ。僕のために、記憶を失くしたあの子を犠牲にしたいと言っているようなものだ。あの子がきちんと笑えるようになるために、僕は目の前の女の子を深く傷つける覚悟をつけないといけない。

「あの子はさ、君が泣いていることに気づいていたよ」

眼鏡越しに見えた風井の瞳が、細かく揺れた。やっぱり、覚悟していてもつらい。でも彼女から目を逸らすことは誠実ではない。僕は無理にでも彼女の瞳を見つめ返していた。

「嘘」

「嘘じゃないよ。あの子は知っていたんだ」

それを聞いて、風井は少し俯いて大きく息を吐くと、今度はぐっと天井を見上げた。3秒くらいそのままにしていたけれど、彼女も覚悟を決めたようにゆっくりと頭を戻した。

「わかった。続き、聞かせて」

「大丈夫なの?」

「あんただって、それを言うためだけに私を呼んだわけではないでしょう?私は続きを聞かないといけない。しかも今泣いてしまったら、美味しい紅茶も味わえない」

風井は真剣な表情で言う。そこに涙の色は無かった。僕は少しだけ彼女を誤解していたのかもしれない。風井は優しくて、弱くて、それでも強い子だ。

「そうだね、わかった。じゃあ話すよ」

僕も真剣な瞳を返す。ふたりの女の子に、誠実であり続けるために。

「僕たちはさ、ずっと彼女を誤解していたんだ。彼女は記憶を失って、僕たちのこと何も知らないと思っていた。確かに、記憶を失くす以前のことは何も覚えていないよ。でもそれより後のことなら、全部知っていたんだ」

「どういうこと?」

「そのままだよ。全部。君が泣いていたことだけじゃない。僕が彼女を名前で呼ばないことや、僕たちが、今の彼女ではなく望月千春を望んでいたことも」

「違うよ。私は別にあの子を認めていないわけじゃ」

「うん。そう思うだろうね。僕もそう思っていた。でも君は泣いて、彼女はそれを見たんだよ」

風井は開きかけていた口を閉じる。きっと僕たちは、あの子に対して反論できることなんてひとつもない。

「僕たちの深層心理では結局、彼女が記憶を取り戻すことを願っていたんだ。あまりにも当たり前な前提として考えていた。でもそこがいけなかった。そこから僕たちは間違えていたんだよ」

「どうして、それが間違いなの?」

「考えればすぐ分かることだ。記憶を失くした彼女は千春の人格とは別物だ。千春とは違うふうに考えて、違うふうに僕たちと接しようとしている。そう、あの子はあの子なんだよ。だけど僕たちはそれに真正面から接することなく、彼女の向こうの望月千春の影ばかり見ている。それがどういうことなのか、きっともう分かるでしょう。僕たちは今の彼女を否定していたんだよ。全力で。それがどんなに残酷で、彼女にとってどんなに辛いことなのか、僕たちは想像できたはずなんだ。でも僕たちはしなかったんだよ」

風井も自分のしたことに気がついたのか、険しく顔を歪ませる。どうしようもなく自分が悪いときに、人はそんな表情しかできない。彼女はなんとか「そっか…」とだけ絞り出して、黙り込んでしまった。僕も言葉を継げない。のこり3分の1くらいだけ残ったティーカップを眺めながら、僕たちはお互い口を閉ざしていた。でもこの沈黙は、気まずい、不必要なものではなかった。僕たちにはこの沈黙が必要だった。色んなことを理解して、受け止めて、消化するには時間と沈黙がいる。

「わかった。反省したよ、今までのこと。あの子を酷く傷つけたこと。でもあの子との関係を終わりにはしない。その罪を背負いながら、あの子とまた新しい関係を築いていくよ」

5分ほど経ったころだろうか、先にこの沈黙を破ったのは風井だった。彼女は大きなことを決めたような、誠実な目つきで僕を見つめていた。彼女はきっと前に進んだのだ。それなら僕も応えないといけない。僕も前に進まないといけない。

「うん、そうだね。僕も同じ」

「立花は、私と同じじゃダメでしょ」

「どうして?」

「私たちはスタートラインが違うから。私は前からずっとあの子のことを千春だと思ってきたけど、あんたはまだそう思えてないんでしょう?あんたにも思うところはあるんだろうから、それを責めたりはしないけどさ。でも結局はそれに、あんたなりの答えを出さないといけない」

そう言って風井は、残りの紅茶を飲み干した。僕は手元のティーカップに目をやる。透き通る飴色をした紅茶の水面には、こちらを見つめる僕の顔が映っていた。

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