1.6 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月
まもなくして、大学の期末テストが始まった。普段ならこの時期には梅雨が明けるのだけれど、今年は梅雨明けが遅いらしい。湿気を含んだ重い空気が大学に充満していた。金曜日の3限、あの日本史の授業ももちろんテストがあった。僕が講義室へ入ると、風井が一番前の席に座って熱心にノートを確認しているのが見えた。邪魔するのは悪いから、テストが終わったら話しかけようとしたけれど、彼女は解答用紙を提出し終えると、すぐに教室をあとにしてしまった。
そしてテストが終わり、夏休みが始まった。大学生の夏休みは宿題もないくせにやたらと長い。普段ならそれにかこつけて昼まで寝たり一日中本を読んだりしているのだけれど、今年はそうもいかない。テストが終わったということはつまり、あの病室に行かない理由がなくなったということでもある。
木曜日の昼過ぎ、珍しくカラッと晴れた青空の下で、僕はあの病室へ向かっていた。もう授業はないので、本当は午前中から行けたのだが、いきなり普段と違う時間に来ても彼女の方が困るだろう。だから今までと同じ時間にした。僕は言い訳ばかり上手くなっている。そんなことをぼんやりと考えていると、もう病院の前に着いていた。僕はロビーに入る。ここまで来たらあの病室はすぐそこだ。何だかいやに緊張してしまって、僕は自販機で適当な飲み物を買い、ソファに座る。安っぽいサイダーの炭酸が、炎天下に火照った身体を冷やしていく。なんやかんや最後に彼女と会ったのは一ヶ月弱ほど前になるな、と気がついた。彼女のお母さんを通じて、『テストのせい』でお見舞いに行けないということは伝えたけれど、彼女はそのことをどう思っているのだろう。怒っているのだろうか。安心しているのだろうか。それとも、僕のことなんてどうでもいいのだろうか。あぁ、もう。僕はサイダーを飲み干して立ち上がる。ここでうだうだ考えていても、ネガティブな思考に陥るだけだ。僕は覚悟を決めるように、ゴミ箱にペットボトルを投げ捨てた。また決心が鈍らないように、真っ直ぐ廊下を進む。あっという間に突き当たりへ辿り着いた。一ヶ月前のことを思い出して、力加減を間違えないようにしながらノックをする。ドアを開ける前に、以前みたいに大きく息を吐いた。それはきっと、ため息とは少しだけ違う種類のものだった。
やっぱりドアを開けてまっさきに目についたのは、窓の外の風景だ。百日紅の鮮やかな新緑に、燃えるような紅花がいくつも咲いている。窓は閉まっているはずなのに、爽やかな夏の匂いがした。その明るい空を背景に、あの女の子がこちらを向いていた。おだやかな微笑をたたえた顔に、黒髪のストレートボブが軽く揺れている。僕は違和感を感じた。この髪型は見慣れた千春のものだけど、記憶を失くした彼女のものではない。僕は目が離せなかった。
「立花さん、こんにちは。お久しぶりですね」
固まった僕に彼女は笑いかける。その笑いは諦めを含んでいるように見えた。僕は揺れる瞳孔を隠すように、少しうつむいたまま椅子に座った。なぜだか少し、泣きたい気持ちになった。
「髪、切ったんだね」
「はい、今までも前髪は切ってもらっていたんですが、この前全体的にばっさり切ってもらいました。似合っていますか?」
「うん、似合っているよ。とても」
軽くなったサイドをなでながら、ありがとうございます、と彼女は言う。彼女は相変わらず笑みを浮かべていたが、夏の日差しが影を伸ばしていたからだろうか、少し憂いを帯びているようにも見えた。
「どうして」
「はい?」
「どうして君は、髪の毛を切ったの?今までずっと伸ばしてきたのに」
僕は思いきって核心を突く質問をする。きっと彼女は、単なるイメチェンのために髪を切ったのではないのだろう。でなければ人はあんな風に笑わない。
「そうですね、もともとは、髪を切る予定はなかったんです。髪が少し伸びてきた頃にお母さんが、よく見ると千春の髪は真っ直ぐで綺麗だね、って言ってくれて。それが嬉しくて、せっかくならこの髪を伸ばしてみようかなって思ったんです。だけど」
そこまで言って彼女は口を閉じる。口をもごもごさせて、何か言葉を選んでいるように見えた。その様子には、千春には感じられなかった、人間的な躊躇いの感情が感じられた。
「だけど、お母さんや風井さんが持ってきてくれる写真には、髪の短い私が、いや、髪の短い望月千春が写っているんです。それを見てふたりとも、懐かしいねっていいながら写真の縁をなでたりするんですよ。ただそれだけです。それだけなんです。一向に記憶を思い出さない私を、責めたりなんてしないんです。だけどきっとみんな、私が記憶を取り戻すことを願っている。私が、望月千春に戻ることを願っている。だとしたら私は、きっと髪が長いままじゃいけないのでしょう?髪の短い、望月千春にならないといけないと思ったんです」
僕は声が出せない。声を震わせながらそんな切ないことを言う彼女に、胸が詰まる心地がした。何か言わないと。記憶を失った女の子に、これ以上こんな迫った表情をさせてはいけない。
「そんなことないよ。君のお母さんだって風井だって、ありのままの君を受け止めてくれているはずだ」
「嘘。ねぇ、きっと立花さんはとても優しいから、そんな嘘を吐くのでしょう。でもいいんです。分かってるんですよ。立花さんは知っていますか?風井さんがいつも、私のお見舞いのあとで泣いていること。風井さんもとても優しいから、トイレでこっそり泣くんです。私に知られないように。でも私はひどいから、それに気がついてしまって」
「そう、なんだね。うん、知らなかったよ」
「あとは立花さんもですよ」
「僕?」
予想外で思わず聞き返してしまった。思い当たる節がなくて、心臓がうるさいくらいに音をたてている。彼女は僕の知らない、僕を知っているのだろうか。
「そうです。立花さんも同じように、私より望月千春を望んでいるのでしょう?だからあなたは、私のことを避けているのでしょう?」
「違う、避けてないよ。君もお母さんから聞いてるだろ。テストがあったんだよ。長らくお見舞いに行けていなかったことは本当に申し訳ないし、謝るけれど、それは君のことを望んでいないからでも、避けているからでもないんだ」
「じゃあどうして、私のことを名前で呼んでくれないんですか?」
どきりとする。シャツに張り付いた汗が冷房の風で乾いて、少し寒気がした。目の前の彼女は僕を糾弾するような言葉を吐きながらも、表情は普段の穏やかな表情に戻っていた。それが余計に、僕のこころを締め付けた。
「ねぇ、立花さん。私の名前を呼んで。あなたが思う、正しい名前で」
何も言わない僕に、彼女は決定的な言葉を投げかけた。僕は苦しくなる。泣きそうになった。でもきっと、僕に泣く資格なんてない。自分よりつらい思いをしている人の前で泣く資格なんて。
「ごめん」
ようやくその言葉だけが口から漏れた。彼女は何も言わないまま、諦めたように微笑んでいる。そして軽く、顔にかかったサイドの髪を耳にかけた。その動作からは千春の面影が見て取れて、それだけが僕を責め立てているように見えた。
「いいえ、こちらこそごめんなさい。きつい言い方してしまって。私は怒っていないんです。本当に。むしろ怒られる側なんです。皆さんがそれを望んでいるのに、一向に記憶を取り戻そうとしないから。わがままを言ってしまったから。だから気にしないでください。でも、ただひとつだけ。もうあんな優しい嘘は吐かないで。そんなの、お互い苦しいだけ」
彼女がこんなことを言ってしまうのが正しいわけはなかった。でも僕は何も言えなかったし、言う資格を持っていなかった。
僕は適当なことを言って病室を抜け、裏の出入り口から中庭へ出た。一歩外へ出ると、さっきまでの冷たい病院構内が嘘に思えてくるくらい暑い。ジワジワと蝉の鳴く声が聞こえている。見上げると、高い入道雲が透明な青空を突き抜いていた。もうこんな季節なのか。僕は病院の周りをぐるりと一周するように、中庭を右回りに歩いた。
きっと僕は、いや、僕たちは、始めから彼女との関わり方を間違えていたのだ。僕たちは無意識のうちに、失くした記憶は取り戻さないといけないと考えていた。その前提の置き方からまず間違っていた。そんな、落とした消しゴムを探すみたいに記憶を取り扱ってはいけなかった。だって記憶を失くしたということは人格も変わってしまっていて、それを取り戻そうとすることは、端的に言えば今の人格を否定することになるから。冷静に考えれば分かるはずだ。人の痛みを想像する力を持っていることを僕たちは『優しい』と呼ぶのだから。そして彼女に言わせるのなら、僕たちはその『優しい』人間なのだから。でも僕らはそれができなかった。きっと、千春との思い出が強すぎたから。僕たちにとっては望月千春という存在はどうしようもなくまぶして、それゆえに今の彼女の姿が逆光で見えなくなってしまっていた。彼女のためだと思って、彼女を手助けするだなんて大層な大義名分を掲げて、彼女の前で堂々と彼女の人格を否定していたのだ。
『有り体に言えば、オレのためだ』
夏樹の言葉が胸に反響する。全くその通りだ。きっと僕たちも夏樹が言ったとおり、自分たちのために彼女と接していたに過ぎないのだと思う。そんなことは、やっぱりあってはいけない。哲学者のつまらない格言を言いたいわけでは無いけれど、人間の当たり前の倫理として、人を決して手段として使ってはいけない。記憶を失くした彼女は望月千春を取り戻すためのただの手段ではなく、それ自体が目的の、ひとりの女の子でなければならない。だから僕たちは、無批判に記憶を取り戻そうとしてはいけなかった。
この数ヶ月間僕を苛み続けたあの違和感もこのことが原因だったのだろう。本当はもっと、『今の彼女』との関わり方について議論をするべきだったのに、それをしなかった。僕のこころのずっと奥の、深層心理ではきっとそのことが分かっていたのだと思う。だからずっと、風井や千春のお母さんが彼女の記憶を取り戻そうとするたびにあの違和感が頭をもたげたのだろう。でもそれが免罪符になってはいけない。だって当の本人たちが表層心理で気づくことができなかったそれを、彼女が気づいてしまったのだから。いや、『気づかせてしまった』の方がいいかもしれない。トイレで泣いていた風井のことも、名前を呼ばなかった僕のことも、全部彼女は気づいていた。だから彼女は、あのとき笑ったのだろう。思いやりの形をした人格否定をされずにすむから。自分のせいでまた風井が泣く姿を、見ないですむから。
そう、あの子は全部気づいていたんだ。僕は心の中でそう反復する。当たり前だ。気づかないわけがない。ただ彼女はとても優しくて、言わなかっただけだ。でも僕たちはそれだけで、彼女を『記憶を失って鈍感になった女の子』として考えてしまっていた。望月千春はそういうことを隠さなかったし、隠すべきとも思っていなかったから。その意味では望月千春は優しい女の子ではなかった。ただ真っ直ぐな女の子だった。どちらにしろ、僕たちは今までその両方に甘えていたのだ。真っ直ぐな千春と、優しいあの子に。
そんなことを考えながら中庭を歩いていたら、急に視界が暗くなった。驚いて前を見上げると、あの百日紅の前まで来ていることに気がついた。百日紅の茂った木に少し傾いた夏の日差しが差し込んで、僕の頭上に影を作っていたのだ。僕はその幹に手をついて、花火のように僕の頭上に咲く紅花たちを眺める。あの病室で見るよりも、ずっとたくさんの花が視界に映った。でも逆に、ここからでは彼女の病室の中は見えない。僕は答えを出そう。いや、出さないといけない。彼女が投げかけた言葉に。彼女が正しく笑えるような答えを。この百日紅の花が、全て散ってしまう前に。
その日、ようやく梅雨が明けた。
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