1.5 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 あれから大体1週間弱、僕は彼女のお見舞いには行かなかった。いや、行けなかったと言う方が正しいかもしれない。風井の言葉が、心の深いところに大きく食い込んでいた。病室の彼女のことを考えるたびに、それが僕に訴えかけてくる。僕はきっと、このままでは彼女に会いに行ってはいけないのだろう。風井が投げかけた問いにきちんと答えを出すまでは、誠実に彼女と向かいあうことはできない。幸い、病室へ向かわない言い訳は持っていた。大学の期末テストがもうすぐそこまで迫っているという、学生としてはもっともらしい言い訳。実際テスト勉強しないといけないのは本当だったし、勉強に集中することで彼女のことを忘れることもできた。それでも結局、勉強が終わってシャワーを浴びているときや、電気を消してから眠りにつくまでの暗闇の時間には、それを思い出してしまうのだけど。

 そして日曜日の昼下がり、テスト勉強に一段落をつけてスマホを確認すると、夏樹から連絡が入っていたことに気がついた。夕飯を彼の家で一緒にどうか、というものだった。僕はオーケーの返事を送る。不自然なほどちょうどいいタイミングでのお誘いだった。

 日が完全に落ちた頃、僕は夏樹の家に着いた。少し余裕を持って家を出たのだけれど、今日は雨が降っていないから早く着きすぎた。もうすぐ梅雨も明けるかもしれない。呼び鈴を鳴らして少し待つと、ドアが開いて女の子が顔を覗かせた。僕が「こんばんは」と挨拶をし終えないうちに、その子は僕の手を引いて「お兄ちゃん、

千秋くん来たよー」と大きな声で呼びかけた。奥の方から、「いらっしゃーい」と夏樹の間伸びした声が聞こえる。思わず顔がふっとほころんだ。リビングに入ると、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。テーブルにはエビチリやバンバンジーなどが並んでいる。今回は中華がメインらしい。手を洗いおえたら配膳の準備を夏樹の妹と手伝って、大体10分後にはみんなで手を合わせていた。僕と夏樹、そして彼の妹の3人で食卓を囲む。この光景も見慣れたものだった。夏樹の家は母子家庭で、母親は仕事でなかなか忙しいらしい。だから彼は小さな頃から、母親の代わりに家事や妹の世話をしてきたらしい。夕飯も普段は夏樹が作って妹とふたりで食べているそうだが、いつもそれじゃ寂しいから、と定期的に僕にもごちそうしてくれるのだ。そんなこともあって、妹は夏樹にも僕にもよく懐いていた。特に夏樹は、妹にとって父親の代わりみたいなものなんだと思う。普通の中学2年生の女の子は、きっとこんなにもお兄ちゃんと仲がよくない。

 美味しい料理はあっという間に食べ終えてしまって、夏樹の妹は学校の宿題をするために引っ込んでしまった。残った僕らは紅茶を飲みながら、あの子は真面目だね、だなんて笑ってみせる。そこからもずっと、毒にも薬にもならないような雑談をしていた。何の悪意も苦悩もない、ただただ無害なだけの時間だった。でもきっと、夏樹は普段のように何の意図もなく僕を食事に誘ったわけではないのだろう。風井から何か聞いたのだろうか、あまりにもタイミングが良すぎる。多分夏樹は、僕に機会を与えているのだ。僕が何か抱え込んでいることを知っていて、彼はそれを相談する機会だけを与えた。実際に相談するかどうかは、僕に任せるということなんだろう。僕が相談しないと決めたのなら、きっと彼はこのまま、ただの食事会だけで終わらせるつもりなんだろう。本当に、それでもよかった。彼の優しさに甘えたまま、美味しかったねって笑い合って終わりにしたかった。でも、それができるほど僕は強くない。

「ねぇ、夏樹。少し相談したいことがあるんだけど」

「うん、冬佳のことかな」

「知っているの?」

「昨日聞いたんだ。最近千秋がお見舞いに来ていないって望月さんから聞いたらしくて、私のせいかもしれないって泣きついてきた」

やっぱり、風井は優しい子なのだ。ちょっと優しすぎるくらいに。

「そんな、風井のせいじゃないよ。これは完全に僕の問題だ」

「うん。それなら今度冬佳に謝ればいいよ。きっと許してくれる」

「そうだね、ありがとう。それで、相談なんだけど」

そのあと僕は、夏樹に話せる限りのことは話した。風井に言われたこと、投げかけられた疑問。それに対して答えが見つかっていないこと。それが原因で、記憶を失ったあの子との付き合い方がわからなくなってしまっていること。僕だって僕自身の感情や心情を理解しているわけではない。うまく言語化できないこともたくさんあった。それでも夏樹は何も口を挟むことなく、ひたすらに僕のつたない話を聞いてくれた。夏樹も、きっと風井とはまた違う意味でとても優しい。僕はその優しさに甘えてばかりだ。紅茶ももう完全に冷め切った頃、ようやく話し終えた。僕はその残りの紅茶を飲み干す。冷めていてもやっぱり美味しい。口論じゃなくて相談には、美味しい紅茶がよく似合っている。

「うん、なんとなくわかったよ。つまり千秋はときどきすごく違和感を感じることがあって、それが望月さんとの関係に何か問題を起こしているってこと?」

「大体そうだね。風井や千春のお母さんと話しているときに、ときどき胸がもやもやするんだ。それが何だか嫌な感じで、口を開けるのを避けてしまう。あ、あと、あの病室にいるときにすごく呼吸がしづらいんだ。なんて言うのかな、空気が薄いみたいで。あまり上手く言えないんだけど」

「なるほど。ちなみにその違和感って、いつも感じているわけではないんでしょう?いつもっていうのはつまり、冬佳とかと話している間、ずっとってこと」

「うん。本当にくだらない話をしているときなんかは、別に何も感じないんだ。ただ例えば、風井が記憶を取り戻そうとしているときにその違和感が頭をもたげてくる」

「じゃあ千秋は、望月さんが記憶を取り戻すことに違和感を感じている、ってことなのかな」

「どうなんだろう。それもそれで違う気がする。記憶を取り戻そうとすること自体は、別におかしいとも思わない。でもなんて言うのかな、それでも少し変な感じがあるんだ」

やっぱり、言葉にするのは難しい。そもそも、人との関係とか感情とかを、ひとつの言葉だけで表す方が無茶なのではないかとすら思う。僕たちはそれぎり黙ったまま頭を捻らせていたが、ふと夏樹が言った。

「ねえ、その違和感って、当の望月さん本人と話しているときは感じないの?つまり、望月さん自身が記憶を取り戻そうとするときは」

確かに、と思い当たる。あの子と話すときは空気の薄さこそ感じるものの、違和感は感じていなかった。

「うん、そう。言われてみれば感じなかった。いつも、風井や他の誰かと一緒にいるときだけだ」

「それってさ、もしかして望月さんが記憶を取り戻すことではなくて、望月さんが記憶を取り戻すのを他の人が手伝おうとすることに対して違和感を感じているんじゃない?例えば、冬佳があれやこれやを望月さんに見せたりさ」

そう言われて、すっと胸のうちに何かが落ちる感覚があった。喉に詰まっていた食べ物が胃に流れていくような。腑に落ちるというやつだろう。僕はようやく、あの違和感の答えを知ることができた。

「そう、そうだよ。僕はそれに対して違和感を感じてたんだ。ありがとう。ようやく分かった」

それを聞いて夏樹は、それはよかった、と笑う。でも。僕はあともうひとつだけ、分からないことがある。

「だけど僕は、どうしてそれに対して違和感を感じていたんだろう。どうしてあの子本人が記憶を取り戻すのは良くて、周りの人がそれを助けるのはだめなんだろう」

「それはオレの介入すべき問題じゃない。千秋がひとりで考えるものだ」

すると夏樹は、急に突き放すような言葉を言った。予想外でびっくりする。

「ひどいな、一緒に考えてくれないの?」

「だってさ、それは完全に千秋のこころの中の問題でしょう?そんなものオレには分からないよ。それすらオレに頼って答えを出してしまったのなら、きっと望月さんと誠実に向きあうことにはならない」

そう言われて、僕は言葉が詰まる。ぐうの音も出ないほどその通りだ。僕はつまらない感想しか口に出せない。

「やっぱり夏樹は、頭がいい」

「そんなことないよ、千秋の方がいろいろ詳しいでしょう」

「でも高校の頃は君の方が成績が良かった」

「お勉強のコツみたいなものを知っているだけさ」

彼はそう言って、少し恥ずかしそうに目を細める。そういう風に言えるところが、きっと彼の頭の良さなんだろう。僕も少しだけ笑って、また彼の目を見る。頭の良い彼に、最後にひとつだけ聞きたいことがある。

「ねぇ、じゃあさ。もしも君の妹が、あの子みたいに記憶を失くしてしまったら、君はどうする?」

少しだけ躊躇した。こんなものはただの仮定にすぎないし、それで何かしら夏樹が傷つく可能性もあった。でも、夏樹ならあるいは聡明な答えを持っているかもしれない。彼は僕の唐突な質問に少し目を丸くしたけれど、すぐ表情を元に戻して答えた。

「そうだね。実際にそうなったわけではないから、厳密な答えは出さないかもしれない。だけどやっぱり、オレも冬佳みたいに、記憶を取り戻そうとあれこれと手を尽くすと思うよ」

「それは、どうして?」

「理由はいっぱい出てくる。記憶を失くしたままじゃ生活も難しいし、分かんないことだらけじゃ混乱するでしょう。母さんだって離婚してからずっと忙しそうだったけれど、父さんの分も妹に愛を注いできたんだと思うよ。だから母さんは悲しい顔するだろうし、それを見た妹もきっと悲しくなる」

「うん、たしかに」

「だけど」

「だけど?」

「結局はそれも、ただの言い訳なんだろうね。本当はどうしようもなく、オレが悲しいからだよ。有り体に言えば、オレのためだ」

彼は椅子の背もたれに身体を預けて、そう言う。夏樹の透いた目は僕の影を映す。切実な目だった。まるで、本当に記憶を失くした妹を持っているかのように。そのとき、妹が自室から出てきて、夏樹の隣に座る。彼は優しく頭をなでた。そうだ、彼らは何も失くしてなんかいない。僕は「今日はありがとう、ごちそうさま」とだけお礼を言って、彼らの家からお邪魔した。

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