1.4 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 間もなく梅雨になって、そこから一ヶ月ほどは繰り返しの生活が続いた。火曜日と木曜日は授業後の2,3時間ほどを、土曜日は10時から15時くらいまでの約5時間をあの病室で過ごした。といってもそのほとんどは沈黙で満たされていた。はじめに僕が最近あった出来事を少し話して、彼女が少し笑ったあとは、自然とふたりとも黙ってしまう。そのあとも少しは会話をつなげようと努力するけれど、結局残りの時間、彼女は窓のむこうの梅雨空を眺めて、僕は本を読むことになる。はじめは小説を持っていっていたけれど、そんな状況で内容が入ってくるはずもなく、結局句集や和歌集をぼんやりと眺めることに落ち着いた。

 火曜日は風井もいるから、僕はまだ気が楽だった。風井は毎回いろいろな写真やお土産を持ってきていて、彼女が失くした記憶を懸命に探そうとしていた。そしてそれらに関わるエピソードや思い出を話して聞かせていたけれど、ベッドに座ったままの彼女の反応は芳しくなかった。彼女は毎回じっと考え込むように記憶を思い出そうとするが、終ぞ申し訳なさそうに眉を下げて、「ごめんなさい、やっぱり思い出せないです」とつぶやく。それを聞いて、風井はいつもからげんきに笑ってみせる。僕はそんな彼女たちから目をそらすように、一歩離れたところで百日紅を眺めていた。花々は雨の冷たさを忍ぶように身を寄せていた。

 本当は夏樹が一緒にいる日が一番病室の空気が軽かった。夏樹はなんだかんだ話し上手だから、会話が途切れることがほとんどない。彼女もなんとなくリラックスしているように見えたし、笑う回数も多かった。だけど夏樹は今年で専門学校を卒業するから、就活をしなければならない。その合間を縫ってなるべく通うよ、と彼はいっていたが、それでも一週間に一度、不定期にしか訪れることができていなかった。

 そして毎週金曜日は、図書館で手紙を書いた。不純物のない言葉を呑んで、それをこころのうちに反芻させて、そしてそれに応える言葉を紡ぐ。思えば一週間のうち、このときだけが心の安まる瞬間だった。このときだけは、僕は記憶を失った恋人を持つ立花千秋ではなく、ただのひとりの文通相手だったから。


 あっという間に六月が終わって、今日は七月の第一土曜日だ。彼女が記憶を失ってから、もうすぐ二ヶ月になる。それでもやっぱり、目の前で窓の外を眺める彼女の様子は何も変わらないように見えた。僕もふと、窓の向こうの風景を見やる。こちらも一ヶ月前から変わらずの雨模様だった。そんな空から目線を離して、今度は壁にかかっている時計に目を移した。無機質なデザインのアナログ時計は、13時の50分過ぎを指している。ああ、今日ももうすぐだ。もうすぐ長かった時間が終わる。

 ちょうどそのときに、病室のドアが開いて風井が入ってきた。もう1時間以上沈黙を保っていた僕たちははじけるように顔を上げて、風井を出迎えた。最近風井は僕と入れ替わるように、土曜日の14時くらいから病室を訪れるようになっていた。風井は軽く手を挙げて挨拶をすると、いつものようにベッド脇の椅子へと腰掛けた。

「千春、調子はどう?ご飯とかちゃんと食べれてる?」

「はい、おかげさまで。今日はお昼にそぼろご飯が出たんです。それがすごく美味しくて」

「そぼろご飯って、お米にそぼろだけがかかってるの?」

「いえ、ほかにも炒り卵とほうれん草がのっていたんですが…あれってなんて言えばいいんでしょう」

「君が食べていたのはどちらかというと三色ご飯だね。僕も好きだ」

風井がへえ、と小さくつぶやいて、僕から目をそらす。こういう上辺だけの会話はある意味心地よかった。すると風井は何かに気づいたように彼女の頭部を指さした。

「千春、あんた頭の包帯取れてるじゃない。もう大丈夫なの?」

そう言われて彼女は包帯があった場所を恥ずかしそうにさすりながら、少し笑ってみせる。僕も初めて気がついた。

「そうなんです。まあまだ退院とまではいかないんですが、外の傷は大分塞がったらしくて。おとといのお昼には包帯取っていいよって先生に言われました」

「よかったじゃない。なんやかんや回復してるんだね。なら、記憶も案外すぐ取り戻せるかもよ」

そしてふたりはいつものように、記憶を思い出す作業に取りかかったらしい。風井がスマホの画面をスクロールしながら彼女に何かを見せている。それから僕は少し離れた場所で句集を読んでいたけれど、やっぱりまた空気が薄く感じた。以前から感じている違和感も徐々にくすぶってきた。僕は本を閉じて、ゆっくりと席を立つ。あまりふたりの邪魔をしないように、小さな声で「じゃあ僕はそろそろ」と言ってドアへ向かった。普段と同じように、風井はこっちを向かずに声だけで返事をすると思っていたけれど、今日はなぜかこちらを振り向いた。そして何か言いたげに口を半分開いていたが、結局何も言わず「じゃあね」とだけつぶやいた。


 週が明けて火曜日、僕はひとりで病室へ向かっていた。普段なら大学で風井と待ち合わせてからふたりで向かうのだけど、今日は用があって行けないという。珍しいな、と思いつつ、少しだけ気分が重かった。それはもちろん、ここから3時間ほど、あの気まずい空気を過ごさなければならないからだ。

 大学から二十分ほど歩いて病院に着く。ロビーを抜けて、廊下を歩く。そしていつものように、病室のドアの前で深呼吸とため息の中間みたいな息を吐いて、ドアを開けた。視界が開けて、彼女がベッドの上でこちらを振り向くのが見えた。僕は笑顔を作る。もうこれにも慣れてしまった。

「こんにちは。最近雨ばかりで嫌になるね」

「こんにちは。そうですね。こんな天気なのにいつも来てくださってありがとうございます」

そう言って彼女はぺこりと頭を下げる。僕はおおげさに手を振って、いいんだよ、と答える。そのあとに「僕が来たくて来てるんだから」という言葉が喉から出かかったけれど、それは声にはならなかった。

「そういえば、今日は風井さんはいらっしゃらないんですか?」

「そうだね。何か用事があるらしい。残念だけど」

それを聞いて彼女は、そうですか、とつぶやいて少しだけうつむいた。以前はボブだった彼女の髪は今や肩まで伸びて、彼女の顔に影を作っていた。でも、その隙間から覗いた彼女の表情に僕は釘付けになった。


どうして、笑ってるの?


その疑問も、結局声にはならなかった。


 そのあとは何もなかったように彼女は過ごした。僕の話に軽く笑って、窓の向こうを眺めて。そこだけ切り取れば、本当にいつもと何も変わらなかった。僕はこの女の子のことを何も知らない。そんな彼女のことが気にかかったまま日は沈んで、僕も普段通りを装って病室をあとにした。廊下を歩きながらも、彼女の笑顔が脳裏から離れなかった。

 そのままロビーへ抜けると、ひとり女の子が座っていた。なんで今ここにいるんだ。僕はまた驚かされる。今日はこんなことばかりだ。

「風井、今日は用事があるんじゃなかったの?」

僕はそう問いかける。風井はロビーのソファから立ち上がり、きっと僕を見つめた。睨んだと表現した方が正しいかもしれない。

「嘘ついたのよ、それに関してはごめん」

「どうしてそんなことしたの?」

「あんたのこと、知りたかったから。もっと言えば、あんたと千春との、今の関係を」

「ごめん、話が見えてこないな」

僕がそう答えると、風井は少しだけ顔をしかめた。睨んだ目が少しだけ泣きそうになって、またすぐに元に戻った。その一瞬の動作には、躊躇いみたいなものが感じられた。

「だから、今日のあんたたちの様子を盗み聞きしてたのよ、ずっと」

「ずいぶんとつまらないことをするね」

僕はわざと、言葉に棘を持たせた。なぜか風井は苛ついているけれど、僕も今それなりに機嫌が悪いのだ。分かんないことばっかりだから。すると風井はそれに応えるように、目つきを鋭くした。

「つまんないことしてるのは立花のほうでしょ。何してんのよ。最初のちょっとだけ話して、あとはずっと黙ったままだなんて。あんた何のためにあの部屋にいるの?なんで千春と、関わろうとしないの?」

ロビーに声が反響する。受付の看護師さんが、諫めるような目線をこちらに飛ばした。僕は「場所を変えよう」と呟き、病院の駐車場へと向かった。風井もこれには素直に応じて着いてきた。僕らは駐車場の端にある自販機のそばまでやってきた。ミルクティーを2本買って、そのうちの一本を風井に手渡す。風井は目線を逸らして、短く「ありがと」と言った。僕はキャップを開けてひと口ミルクティーを含む。夏樹の紅茶の方が美味しい。でも口喧嘩のお供としては、美味しい紅茶はあまり似合わないのかもしれない。

「それで、さっきの答えはなんなのよ」

風井は両手でミルクティーを持ったまま、僕を睨みつける。その様子はなんだか、きのみを両手で掴む小動物を連想させた。

「関わろうとしていないわけじゃないよ。ただやっぱり記憶を失くす前と後で同じふうに接することはできない。あの子は僕のことを何も覚えていないし、性格さえ変わってしまっている。風井だって僕が話し下手だってことは知っているでしょう?ほとんど初対面みたいな女の子と、毎回何時間も話し続けろと言う方が無茶だ」

「違う。いや違わないけど、私が言いたいのはそういうことじゃないの」

「じゃあなんだよ」

自分でも驚くくらい低い声が出た。風井はびくっと肩をすくわせて、少し怯えるようにこちらを見る。少しやりすぎたと反省した。

「ごめん、ちょっとキツい言い方した。それで、風井は何を問題にしているの?」

今度は逆に不自然なほど柔らかい口調で言った。僕は人と口論するのが苦手なんだと実感する。すると風井は手前に構えていたミルクティーを少し口に含み、ゆっくりと話し出した。

「だから、あんたは矛盾してるように見えるのよ。ほとんど初対面って、そんなわけないでしょ。あの子はどうしようもなく、望月千春なんだから。それなのに初対面なんて言うってことは、あんたはあの子のことを千春だって思えていないんでしょう?千春が自分のことを忘れてしまっただなんて、認めたくないんでしょう?だから、記憶を失ってから一回も、あの子のことを名前で呼んだことがないんでしょう?」

その言葉に、僕は声が出せなかった。確かに、僕は2ヶ月前から一回も、あの子のことを千春と呼ばなかった。風井に言われるまで気がつかなかった。混乱して、声が出せない。

「それだけならまだいいのよ。いや、いいわけではないけど、それだけならまだ矛盾はしていないし私は許せる。ただ気持ちの整理がついていないだけなんだって。だけどさ、あの子のことを認められないなら、どうしてあの子の記憶を取り戻そうとしないのよ。今のあの子が気に入らないなら、どうして昔の千春に戻そうとさえしないのよ。あんたの態度はまるで、必死に千春の記憶を取り戻そうとしてる私を馬鹿にしてるみたいじゃない」

風井はそう言い終わらないうちに、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。頬に伝った水滴が彼女のブラウスに染みを作っていく。その様子を見て僕は、さっきまでのいらつきを忘れてしまうくらい戸惑ってしまった。何か言わないと。何を?あの違和感があるってこと、あの病室じゃ上手く空気が吸えないことをそのまま言うのか?ああもう、考えがまとまらない。そうこうしているうちにも風井は涙を落とし続ける。僕はますます焦ってしまう。

「風井、ごめんって。その、なんていうか、違うんだよ」

「何も違わないわよ」

そう言って風井はまっすぐ僕の目を向き直す。その目線に、僕は何も言えなくなる。


「ねえ、あなたはあの子の何が好きなの?」


風井が放った言葉は、とてもありふれた質問だった。でもこんな状況にある僕に対しては、それは決定的な意味を持った。風井は自分が放った問いへの答えが返ってこないと知ると、踵を返して夏の夜へと消えていった。僕は空を見上げる。いつの間にか晴れていた夜空には、十六夜の月が孤独に浮かんでいた。

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