1.3 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月
木曜日はあいにくの雨模様だった。しとしとと降る五月雨が雨樋を伝い落ちていく。それを眺める病室の窓際に、僕は座っていた。
「その時さ、本当に面白かったんだよ。ジェットコースターを前に風井は明らかに青ざめてるのに、大丈夫怖くないって言い張るばかりで。結局4人で乗ることになったんだけど、風井はもうずっと夏樹にしがみついてた。それで終わればよかったのに、夏樹が『冬佳怖がってたねぇ』って言っちゃうもんだから、風井は真っ赤になっちゃって」
僕は手ぶりを使って、少し大げさに、おもしろおかしく語ってみる。ベッドに座る彼女は、軽く口もとを抑えて笑う。そういった細かな雑作のひとつひとつが記憶とすれちがって、僕は目を細める。今なら笑っているのだと思ってくれるだろう。笑顔をこんな風に使っているのはきっと僕くらいだ。
こんなことを考えながら、今日もあわせて3回、記憶を失くした彼女と接してきて、ひとつ分かったことがある。それは思った以上に、彼女との会話を繋げるのが骨の折れる作業だということだ。今の彼女はとても控えめな性格になっているので、こちらの話はよく聞いてくれるけれどあちらから話をしようとはしない。だから必然的に、僕がほとんど話をすることになる。以前は千春の話を僕が聞くことがほとんどだったから、やっぱり今の状況には慣れない。彼女のお見舞いに来て15分ほど経った今、もう話せるストックは残っていなかった。まぁ、これでも僕にしては頑張っている方だけれど。僕も彼女も一通り笑顔を示しあうと、自然と病室には沈黙が降りた。お互いなんとなく視線を合わせずにいる。窓の向こうの雨音すら大きく聞こえた。僕はこの時はじめて、彼女との間の気まずさを知った。
「千春、来てあげたわよ」
そのとき、病室のドアが開いた。大きめの紙袋をふたつ提げて、風井がつかつかと病室内に入ってきた。彼女は僕のことを認めて、「来てたのね」と呟いた。僕は平静を装って返事をしつつ、風井が来てくれたことに安堵していた。
「ふたりで話してたところ間が悪かったわね。もしお邪魔ならしばらく出ていくけど」
風井はベッド脇の椅子にかけながら言う。
「そんな気にしなくていいよ。ちょうど風井と夏樹の話をしてたんだ」
「へぇ、さしずめ私たちの悪口ってところかしらね」
「まぁそんな感じだね」
それは本人に言うものじゃないでしょ、と風井は軽口を叩く。少し懐かしい感じがした。千春を除く3人の関係はずっと同じ直線の上にある。そんな僕たちの会話を聞いて、ベッドの上に座る彼女は少し眉を下げて笑った。さっきとは違う笑い方だった。
「おふたりとも、仲がいいんですね。混ぜてほしいくらい」
「なに言ってるの。あんたもとっくに混ざってるわよ。ただ思い出してないだけなんだから」
そう言って風井は彼女の肩を叩いた。少し無理をしていることはすぐにわかった。夏樹じゃなくてもこれぐらいはわかる。そして風井は紙袋の中身をベッド脇の机へとひっくり返した。それは水族館のぬいぐるみだったり、遊園地のキーホルダーだったりととにかく雑多だった。ただそれらは、僕たち4人が遊びに行った際に買った思い出の品であるという点だけ共通していた。風井はそれらをひとつひとつ手に取って言う。
「あんたが本来の自分を思い出せば、すぐに寂しくなんてなくなるわよ。ほら、今日は色々持ってきたから。写真じゃ思い出せなくても、お土産なら何か思い出せるかもよ」
そう言われて彼女は、少し間をおいて「はい、ありがとうございます」と呟く。この場にいる全員が、何かしら無理をしていた。
次の日の昼下がり、つまり3限の時間は大学の授業があった。つまらない日本史の授業。授業の始まる5分前、僕は大講義室の端っこの席で、あくびをかみ殺していた。これが終われば今週の授業は終わりだから、頑張って真面目に受けよう。そう思って僕は軽くのびをした。まだ雨は降っている。そのときに隣に誰かが座った。ちらりと横を見やると、それは風井だった。
「最近よく会うね」
「まぁね。というか普通なら毎週この授業で会うはずでしょ。あんたサボりすぎなのよ」
「昼食後の日本史なんて、サボるためにあるようなものでしょう」
「立花ってさ、案外不真面目だよね」
そう言って彼女はため息をつく。また小言でも言ってやろうかという具合に風井がこっちを向き直した、ちょうどそのときに教授が教室に入ってきた。彼女は前を向いて黙り込む。助かった、という言葉を飲み込んで、僕も前を向いた。
長かった90分の授業が終わって、周りの生徒たちはめいめいに帰る準備を始めていた。僕と風井もそれに倣う。パソコンをリュックの中に入れながら、風井が訊ねてきた。
「ねぇ、今日はもう授業ないでしょ。なら今から千春のとこ行こうよ。今日は高校のアルバム持ってきたんだ」
そして彼女は立ち上がった。隣に座った時点で、なんとなくその予想はしていた。だけど今日は断らないといけない。授業中もその言い訳を考えていたのだ。
「申し訳ないけど、今日は行けないんだ。レポートをやらないといけなくてさ。今から大学の図書館に行ってくる」
座ったまま僕は両手を合わせる。すると彼女は、ならしょうがないわね、と呟き、手を振って去っていった。僕はその背中を見送ったあと、ゆっくり立ち上がった。嘘をついたのは申し訳ないけれど、こればかりは譲るわけにはいかない。毎週金曜日は図書館で、文通相手への手紙を書かなければならないのだ。
図書館の2階へ抜けて、左手の書架へと向かう。何千、いや何万もの本の林を通ると、貸し本特有のあの匂いがする。僕はこの匂いが好きだ。そしていちばん奥の本棚に向きあう。上から2列目の右から3番目。僕は『古今和歌集』の本を取る。その一冊だけを持って窓際の席に座った。周りにはあまり人がいない。ぱらりと本をめくると、あの古臭い匂いが鼻腔をくすぐった。雨の降る夕方の湿った空気に、よく似合っていた。続けてめくっているうちに、途中のページに手紙が挟まっていることに気がついた。これだ。僕はそっとそれを取り出し、栞を挟んで閉じる。丁寧に綴じられた手紙には、小ぶりで繊細な文字が礼儀正しく並んでいた。僕も姿勢を正してから、ゆっくりと読みはじめる。
こんにちは。先週もまたお手紙をありがとうございました。このお返事を書いている今日は夏の匂いがする五月晴で、気の早い鶏頭が咲いておりました。あなたがこれをご覧になっている今日はどんなお天気でしょう。
そういえば前のお手紙で、あなたは『花は散りかけが一番美しい』と仰っていましたね。なるほどその通りだと存じました。疾うに桜は散ってしまいましたが、地面に落ちて土埃の被った花びらのひとつに名前をつける、そんな感情は、きっと何よりも美しいのでしょう。花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは、とはよく言ったものです。この前も、泥んだ夕暮の空の端に、薄い月が浮かんでおりました。山の端に隠れかかっていましたが、触れれば砂のように崩れてしまいそうなその繊細な月のありようこそ、きっと私たちの心を惹きつけるのでしょうね。あなたはどんな月が印象に残っていますでしょうか。もしよろしければお教えください。ではそろそろ筆を置かせていただきます。またお返事を頂ければ幸いです。
夕月夜小倉の山に身をそへて鶏頭の咲く夏はさるらむ
僕は清流から汲んだ水をひと息に飲み干すように、この手紙を読み終えた。ふぅと息が漏れる。胸にはいつものように、涼やかな満足感が充満していた。僕は先ほど栞を閉じたページを開く。つまりこの手紙が挟んであったページ。そこにある和歌を右から順に眺める。そしてあるひとつの歌が目に留まった。
『夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ』
紀貫之の歌だ。今回はこれを引用したのか。いつも絶妙な歌を選ぶな、と感心する。2、3回この手紙を読み返したあと、ルーズリーフとシャーペンで返事を考えた。何回も何回も書き直すことはない。ただ、手紙を読んで思ったことを思ったまま、振り返ることなく書き連ねた。最後の文句を書き終えたあと、はじめて下書きを読み返す。そして漢字の間違いだとか、不自然な接続詞だけを軽く修正する。これで下書き作業は終わりだ。本来手紙というのは何回も推敲を重ねて、丁寧にラッピングされた言葉を届けるものだと思うけれど、この文通相手には何も誤魔化さず、思ったありのままを伝えるのが誠実だと思う。僕はリュックサックの小さいポケットからそれ用の便箋と万年筆を取り出して、なるべく丁寧に清書をはじめた。
こんにちは。お返事をありがとうございました。こちらの天気はあいにくの五月雨で、今も図書館の窓に水滴が鈍く落ちています。でも僕はこの季節の雨が嫌いではありません。好きと言ってもいいかもしれない。『うちしめり菖蒲ぞ香るほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮れ』という歌をご存知でしょうか?藤原良経の歌で、新古今和歌集に収録されています。僕はこの歌が、一番と言っていいほど好きなのです。五月雨の降る湿った夕方の空気に付きづきしく映える、鮮やかな菖蒲の色と時鳥の透いた声。これほどまで調和のとれた情景が浮ぶ歌は多くありません。この季節になると、この歌がよく脳裏に浮かびます。
そうそう、印象に残っている月でしたね。前置きが長くて申し訳ありません。僕は十六夜の月が好きです。満月を過ぎて、少し欠けた月。あの月はなまじっか満月に近いせいで、欠けているところがより目につきます。それがなんだか、とても美しく思うのです。それこそまさに、散りかけの花のように。たしか次の火曜日は、ちょうど十六夜の月のはずです。気が向いたら一度夜の空を見上げてみてください。では今回はこのくらいで終わりとさせていただきます。
雨晴れて涙を落とす菖蒲草鈍く映えるは十六夜の月
僕は出来るだけ丁寧に手紙を綴じて、『古今和歌集』を開く。そして、「時鳥鳴くや五月の菖蒲草あやめも知らぬ恋をするかな」のページにそれを挟んだ。本棚に本を戻し、僕は図書館をあとにする。この妙に間伸びした言葉のやり取りに、いつも微かな緊張を感じている。
この文通を始めたのは、去年の秋の頃だった。一回生の秋学期も折り返しに入ったあたりだと思う。僕は国文学の授業の中間レポートを書くために、大学の図書館に『古今和歌集』の本を借りに行った。その時はまだやる気のある大学生だったから、借りに行ったついでにレポートを片付けてしまおうと思った。そして今日のように窓側の席で、枯れ葉の降る空を眺めながら本をめくっているときに、あるメモを見つけたのだ。薄くベージュ色がかかったそのメモには、『秋来ぬと目にはさやかに見えつれど袖振草に君だけが見えず』とあった。風が吹けば消えてしまいそうなほど繊細な文字だった。僕は何度も何度も、この歌を読み込んだ。小さく口ずさんだりもした。これが藤原敏行の歌の本歌取りであることはすぐにわかったし、和歌としてそれほど優れているというわけでもなかった。でもなぜか、この和歌に目が離せなかった。この歌を読んだときに感じた、涼やかな満足感の意味を知りたかった。結局僕は、その歌のとなりに『たそかれと袖振草に問ふ秋に君を見るままわたしもひとり』と書いてそのメモをまた本に挟んだ。その本は借りることなく、また同じ棚に戻しておいた。このときなぜこんな行動を取ったのか、自分でもうまく言語化できない。だけどきっと、手紙の入った瓶を海原へ託すような、そんな気持ちがあったのだろう。有り体にいえばなんとなくだ。返事なんて期待していないけれど、針に糸を通すような確率でこのメモの持ち主に僕の歌が伝わればいい。そう思っていた。そしてだいたい一週間が過ぎたあと、図書館で自習をしているときにそのことを思い出した。あのメモはまだ残っているかな、なんて気楽な気持ちで『古今和歌集』の本を開いてめくっていると、あのメモを見つけた。僕の歌のそばには、「返歌ありがとうございます。すてきな歌ですね。」とあの繊細な文字で書いてあって、また違う歌が添えられていた。それを見て僕は、とても純度の高い喜びを感じた。赤ちゃんが自分の意志を両親に伝えられたときのような、根源的な感情だったと思う。それから僕は短い返事と返歌を書いた。すると次の週にもメモに新たな返事と返歌が書いてあった。いつしか週の終わりに返事を書くのが習慣になっていって、メモに余白がなくなってからはお互い便箋を使うようになった。そうして年が明けるころには、週のはじめに相手が、週の終わりに僕が、便箋一枚分の手紙と『古今和歌集』から本歌取りした和歌を書いてそのページに挟むという暗黙の了解ができあがっていた。
図書館を出た僕は、雨の降る大学構内を歩いていた。こうやって振り返ってみると、この文通の習慣は細い糸を紡ぐような偶然で成り立っているのだと認識させられる。もう半年ほど文字を通した交流を続けているけれど、相手のことは何もしらない。言葉の雰囲気からなんとなく女性だと思っているけれど、本当のところは分からないし、学部も回生も分からない。学生なのかもあやしいところだ。調べようにも、お互い名前を名乗っていないからお手上げだ。ふたりきりの会話に、基本名前はいらない。
だけど僕は、いまのところその状況に不満はない。文通するだけならそれらの情報はなくても問題ないし、逆に相手を知って、あまつさえ直接会ってしまうことは文通の終わりを意味する。それは避けたかった。どうしてこんな曖昧な関係に固執するのか、それはきっと、お互いの教養の上で美しい言葉を交換するだけの関係がひどく心地いいからだろう。それは恋愛とか友情とか名前がついた関係の外側にある。そのように、名前が形作る枠組みから自由である関係は、同時に不安定でもあるのになぜかとても安心するのだ。
そんなことを考えているうちに僕は大学の門を抜けて、大通りに出た。赤信号の前で、僕は立ち止まる。
「なら、記憶を失くしたあの子との関係はなんて名前なんだろう?」
僕の中の何かがつぶやく。信号が変わっても、僕は立ち止まったままでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます