1.2 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 「そうか、やっぱり望月さんは千秋のことも忘れちゃってたんだ」

鳥見夏樹はそう言いながら紅茶をすすった。僕もそれに倣って紅茶を口に含む。相変わらず美味しい。高校生のころから何回も、今日みたいに彼の自宅で紅茶を淹れてもらったけれど、夏樹はその頃から紅茶を淹れるのが上手だった。料理の専門学校に進んだ今は、湯沸かし器からこだわっているらしい。

「うん、本当に小説に見るような具合でさ。僕のことも自分のことも憶えていない。ずっと敬語で他人行儀だし、あの不躾な千春は見る影もないね、今のところ」

「へえ。控えめな望月さんか。少し気になるな」

「今度会いに行ってみればいい。付き添うよ」

すると彼は、ありがとう、と優しく笑う。夏樹はガタイだけ見ればアメリカンフットボールでもやっていそうなほどがっちりとしているけれど、物腰はすこぶる柔らかい。昔4人で遊ぶ中で、千春ともよく打ち解けていた。きっと彼なら、記憶を失くした彼女も安心して接することができるだろう。

「そういえばさっきさ、冬佳から連絡きてたよ。望月さんに会ってくるって。ちょうど今ごろ病院に着いたんじゃないかな」

「風井も会うんだ。少し心配だな。彼女、千春とだいぶ仲良かったから」

「そうなんだよ。きっと望月さんの前では平気ぶってみせるけど、裏で泣いちゃうだろうね。実はあの子、とても弱いんだ。昔からそうだった」

夏樹は風井冬佳のことになると少し口数が増える。幼馴染として、愛着というか、特別な思いがあるんだろう。きっとそれは僕と千春との関係とはまた違う。それこそ恋なんて言葉では収まらないくらいの多様な感情から出来上がっているはずだ。僕はそんなふたりの関係を、高校生のころからずっと好ましく思っていた。

「だからさ、このまま家に冬佳を呼ぼうと思ってる。報告会という体で。ついでにバウムクーヘンでも出してあげようか」

彼はそう言って笑う。やっぱり少し過保護な気もしてきた。


 それから夏樹の妹の話や、4人で遊んでいた頃の話をしているうちに玄関のチャイムが鳴った。きっと風井だろう。彼女が病院を出た時間から考えると少し来るのが遅いように感じた。はぁいと夏樹が気の抜けた返事をして、風井を迎えに行った。

 僕たちの向かいに座った風井の顔には、やはり泣いた跡があった。眼鏡の奥にある目は少し充血していたし、目の下は無理にこすったのか赤くなっている。それでも彼女は上手く隠せているつもりらしく、澄ました風にバウムクーヘンをかじっていた。

「それじゃあ報告会を始めましょうか。夏樹はまだ千春に会ってないけど、立花は昨日会いにいったんでしょう?」

「うん、まぁね。30分くらいだけど。やっぱり彼女は僕のこと憶えてなかったみたい。僕たち4人で遊んでたこともすっかり」

「私のことも忘れてた。今まで一緒に行った場所の写真とか、つい2週間前に食べたカフェのフレンチトーストの写真まで全部見せたのに、憶えてないって。風井さんごめんねって繰り返すだけで」

そう言いながら、風井の声は少し震えだしていた。よく聞けば普段よりも鼻声な気もする。すると夏樹はすかさず話を逸らした。

「ここで立ち止まっても仕方ないよ。その、記憶を失くした望月さんと今後どう付き合うのかを考えよう。千秋、どうする?」

「流石にまだわからない。だけどとりあえず、彼女の病室には出来るだけ通うよ。平日のうち2日くらいなら授業後に行けるだろうし、休日も必ず1日なら行ける。そのうちに彼女とどう関わっていくのか、決めていきたい」

「取り戻すしかないでしょう、そんなの」

そこで風井は、はっきりとした声で言った。充血した目でこちらを見つめている。

「取り戻すって、どういうこと?」

「決まってるでしょ。千春の記憶。1日でも早く全て思い出せるように、手伝うしかないよ。あの子のために、友だちとしてできることはしたい」

風井の言っていることは、全く非の打ち所もないほどその通りだった。少なくとも、その通りに聞こえた。でもなんだか、掴みどころのない雲のような違和感が胸に残った。言葉で表そうとすると霧散してしまう。結局僕は、そうだねと笑うしかできなかった。


 「冬佳、やっぱりショック受けてたね」

風井が帰ったあと、夏樹はティーカップを洗いながらそう言った。僕は夕陽の落ちる街を窓から眺めつつ、うんと返した。それからも夏樹は何か風井について話しているようだったけれど、僕はほとんど上の空だった。あれからずっと、あの違和感について考えていた。どうして僕は彼女の言葉を上手く飲み込めなかったのだろう。友だちの失くした物を取り戻す手伝いをするのは至極当然なのに、なんだか色々な過程をすっ飛ばしてしまっているように感じる。もっと言うならば、何かきちんと議論すべき問題を無視して進んでしまっている感じがする。でもその何かが分からない。僕は何を問題視しているんだろう。

 「千秋、聞いてる?」

ここで僕を、現実世界に引き戻す声が聞こえた。声の主はもちろん夏樹。僕は慌てて彼の方に向き直す。

「ごめんごめん、少し考え事してた。なんの話だっけ?」

「だからさ、千秋はこのことをどう思ってるの?つまり、望月さんが記憶を失くしたことを」

「いきなりどう思うって聞かれてもな。ちょっと曖昧すぎる」

「いや流石に、何か思うところはあるでしょう?2年半恋人をやってきた女の子が自分のことをすっかり忘れてしまったんだから。親友だった冬佳はショック受けてたけれど、恋人だった千秋はなんかショック受けてるって感じではないよね」

確かに言われてみれば、僕は彼女と会ったとき、ショックは受けなかったように感じる。悲しいとも違う。ただただ、空気が酷く薄く感じた。でもそれが全てでもない。言葉ではカバーできない、半透明な感情がそこにはあったのだと思う。でもそれをそのまま夏樹に伝えたところで、大きな意味はないのだろう。僕は苦笑いを浮かべる。

「まぁそうだね、確かに僕はショックを受けたというか、悲しかったのかもしれない。ただもしかしたら、あまりにも突飛で、まだ現実のこととして受けとめられていないのかもしれない。だから、悲しさとかを自認できていないだけなのかもね」

彼女が記憶を失くしてから、僕は嘘ばかり吐いている。


 週が明けて火曜日、僕は夏樹を連れて病院へ向かった。ゴールデンウィークを過ぎるともう夏がすぐそこまで迫っていて、病院に着いた頃には額に汗が滲んでいた。僕らはまたあの突き当たりの病室で30分ほど過ごしたけれど、正直目立った進捗は見られなかった。彼女は記憶を失ったままだし、やっぱり夏樹のことも憶えていなかった。僕たちにもあいかわらず敬語を使っていた。ただ気づいたことといえば、予想通り夏樹は上手く彼女と接していたことと、彼女は僕のことをあまり見なかったこと、そして窓の向こうの百日紅がまた花を咲かせていたことだろう。

 病室を出てロビーに抜けると、ひとりの壮年の女性が僕たちを見てソファから立ち上がった。僕はこの人に数回会ったことがあった。僕はすかさず頭を下げる。夏樹も僕に倣って大きな身体を屈めたあと、小さな声で「誰?」と聞いてきた。「千春のお母さんだよ」と答えると、彼はあぁ、と軽く頷いて去っていった。その後ろ姿を見送り、千春のお母さんは隣の席を促した。僕はまた軽く頭を下げて座る。

「お久しぶりです。長らくご挨拶できずすみません」

「いいのよ、謝らないで。むしろこっちの方こそ謝りたいんだから。ごめんねぇ、まさか千春がこんなふうになっちゃうだなんて」

そう言って彼女はぺこりと頭を下げる。歳上のひとに謝られると参ってしまう。

「そんな、顔を上げてください。このことに関しては誰も悪くないんですから」

「うん、そうね、ありがとう。一応今日は報告というか、立花くんにある程度のことは伝えておこうと思って」

「報告、ですか」

「そう。とは言っても、結局お願いになってしまうのだけど。まずお見舞いのことなんだけどね、私と旦那は少し仕事が忙しくって、水曜と日曜しか一日中いられないのよ、病院に。だから冬佳ちゃんにもお願いしたんだけど、できるだけ千春に会いに行ってほしいなって。もちろん無理はしなくていいのよ?できる範囲で」

「わかりました。僕もそのつもりでいましたし、時間も有り余っていますから」

「そう、ありがとうね。それであともう一つなんだけど、一応事故について伝えておこうかなって。千春が事故に遭ったのは先週の月曜日ね。大学の帰りに横断歩道で車に轢かれたらしくて。その車もスピードは出てなかったらしいし、正面からぶつかったわけでもないから身体の怪我は大したことないんだけど、頭をね、結構強くぶつけちゃったから。その結果はもうわかってると思うけど」

「それは、車側の過失なんですか。つまりその、信号無視だとか飲酒運転だとか」

「うん、うん。それはね、まぁ、分からない…かな。今のところ。その横断歩道が大通りから一本入った細い道にあったものだし、人も多くない時間帯だったから。第三者の証言みたいなものがなくてねぇ。当事者だってほら、千春は忘れてるわけだし。警察が今運転手の人に事情聴取してるらしいんだけど、やっぱり片側の話だけじゃ断定は難しいそうだね」

そうか、事故の様子がわからないようじゃどうしようもない。車の運転手の過失が決まっていれば僕も警察署に乗り込むくらいしていたかもしれないが、まだ決まっていない以上無理にその人のせいにするのも良くない。恋人が轢かれておいて、そんな冷静に判断できる方が良くないのかもしれないけれど。

「わかりました、ありがとうございます。また何か分かったことがあれば、可能な範囲で伝えてくださると嬉しいです」

「えぇ、そうね。一応、憶測されてることはあるんだけど…いや、辞めておこう。今、もしかしたらを話しても混乱しちゃうだけだね」

千春のお母さんは突然意味深な言葉を溢した。正直少し気になるけれど、ここで深掘りするのも無粋だろう。後半は聞こえない振りをした。

「ではもうそろそろ失礼します。色々お伝えいただきありがとうございました。こちらも何か分かったことがあればお伝えします」

「いいえ、引き止めちゃってごめんね。千春があなたのこと憶えていないのは辛いかもしれないけれど、あの子が記憶を取り戻すのを手助けしてくれると嬉しいわ」

そういうと彼女は廊下の方へと歩いていった。僕の胸にはまた、あの奇妙な違和感が蟠っていた。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る