1.1 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 病院の待合ロビーの窓から、鮮やかな新緑が顔を覗かせた。春の桜はとうに散って、木々は来たる夏に想いを馳せているように見えた。それをぼんやりと眺める僕は、春過ぎて夏来にけらし白妙の、と呟いてみる。続きを詠むのは辞めた。今僕がいるのは少し薬品臭い病院の中で、夏の緑も白妙の衣も、なんだか他人ごとのように思えたから。

 僕は腕時計に目をやってお茶を濁す。受付を済ませてからもう20分は経とうとしていた。事前に病院に連絡はしていたけれど、記憶喪失の人間に会うには色々とすべきことがあるらしい。記憶喪失。僕はポケットからメモ帳を取り出して、その言葉を文字に起こしてみる。視覚的に認識できるようになると、それはなんだかとても寒々しい感じがした。こんな、小説や映画に見るような言葉が僕の目の前にあることがにわかには信じられなかった。今でも、たちの悪い夢を見ているのではないかとすら思ってしまう。

 ちょうどその時に、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。どうやら見舞う準備ができたらしい。現実は淡々と、これが夢ではないことを僕に突きつける。

 僕はひとつため息をついて立ち上がった。好きな女の子に会いにいく態度としてはおおよそ最低だけれど、それが記憶を失くした女の子なら割と妥当だろう。ロビーを抜けて、薄暗いリノリウムの廊下を歩く。自分の足音だけ響いて消える。もしもこのまま彼女の部屋まで辿り着かなかったら、とふと思う。本当に、それでもよかった。決定的な瞬間までの時間がどこまでも薄く間伸びされたまま終わらないとしたら、それはきっと不幸とは呼べないだろう。だけどそんな、悲観的な幸福は有り得ない。僕は廊下の突き当たりに着いて、右側のドアに目を向ける。そこにあるプレートには、「望月千春」と書かれてあった。ここだ。僕は身体を向き直し、こんこんこん、と軽くノックする。そしてドアの向こう側にその音が聞こえないように注意しながら、小さく深呼吸をした。ゆっくりと顔を上げて、すっとドアを引く。ガラリと音がする。無機質なこの音は、何かを諦める音によく似ていた。


 まず目に入ったのは、向かいの大きな窓の向こうにある空の青さと木々の緑。あの木は百日紅だろうか。そしてその手前に、純白のベッドの上に座り純白の病院服を着た女の子。黒髪のストレートボブに巻かれた包帯だけ痛々しい。じっとこちらを見つめる端正な顔立ちには、窓から差し込んだ初夏の日差しが大きな影をつくっていた。

 僕は、ちはる、と声をかけようとした。なのにどうして、音が出ない。喉が締められたみたいに感じる。そんな僕の様子を不審に思ったのか、彼女はきゅっと閉じられていた唇を少し開いた。何を言うべきか戸惑っているようだった。僕はこの表情を知らない。僕は急いで表情を作って、「こんにちは」と笑ってみせる。そして彼女が「あ、はい」と言い終わらないうちに、彼女の側にある椅子に座る。彼女の顔をなるべく見ないように変な方向を向いたまま座ったから、少し椅子の位置とずれてお尻が痛い。僕は彼女の顔を直視しないように、だけどあまり不自然ではないように顔をあげる。彼女は見たことのない虫を見たような表情をしていた。自分が巨大な毒虫にでも変身したような気分になる。変身したのは君じゃないか、という言葉を飲み込む。すると彼女は、小さな声で、

「あの、申し訳ないんですけど、あなたは…」

と尋ねてきた。大通りの通行人に道を尋ねるみたいに。もしも嫌だったらそのまま立ち去っても構わないですよ、とでもいうように。きっと僕が自分の何か大切な人であることを予見した上で、あまり僕を傷つけないように配慮しているんだろう。

 でもね、違うんだよ。僕は心の中でそう呟く。本来の君なら、望月千春なら、そんな回りくどい配慮なんてしないんだよ。人の裸の心にずけずけと無遠慮に、自分も裸の心を以って触れてくるんだよ。それが千春の最も愚かで、最も美しいところでもあり、そして最も僕が愛したところなんだ。だから君は、僕を傷つけないようにすることによって僕を傷つけているんだよ。

 もちろんそんなことは言えない。僕にも人としての倫理観みたいなものはある。僕は作り物の笑顔を崩さないまま、声も偽装して返事をする。

「そうだね、急にごめんね。僕は立花千秋って言います。花が立つで立花、千秋楽の最初の2文字で千秋。つまり千春の秋バージョン。こんな名前だから秋に生まれたんだとよく思われるんだけど、実際は春が誕生日なんだ。僕自身も秋より春の方が好きだしね。実をいうと秋の七草はひとつも言えないけれど、春の七草なら全部言えるんだ」

 こんな、心にもないつまらない冗談をすらすらと宣うことができる自分にまず驚いた。彼女に対して心を偽るのはいつぶりだろう?彼女に嘘をついても気づかれるのは明白だから、僕は今まで彼女との間に嘘を置いたことはなかった。だけど今目の前にいる彼女はこの嘘に塗り固められた声も顔も見破ることはなく、「そうなんですね」と軽く愛想笑いをしてみせた。この顔が愛想笑いをするのも僕は初めて見て、なんだか下手な合成写真でも見せられているかのような心持がした。

「それでなんですが…私と立花さんはどんな関係だったんでしょうか?」

「関係か。少なくとも、立花さんって呼ばれるような関係ではなかったね」

「もしかして不仲だったんでしょうか?」

「いや、きっと逆だよ」

ここで彼女は、くっと目を見開いた。その表情は少しだけ見覚えがあって、余計心が締め付けられる。僕は覚悟を決める。つまり、大事なものを諦める覚悟を。

「僕と千春は、恋仲だった」

 僕はあえて、目線を外した。このタイミングなら恥ずかしがっていると思ってくれるだろう。本当は、それがどんなものであれ、彼女の顔なんて見たくもなかったからだけど。きっと僕らの関係は、そんな簡単な二文字で収まるようなものじゃない。今までの色んな過程の上で僕らの関係は複雑に形作られていって、どのひとつも大事でないものはない。恋仲だなんて窮屈な枠からはみ出したものを、僕は無視できない。でも目の前にある彼女はその過程を全て失くしてしまって、それを今すぐに取り戻すことなんてできないのだろう。だから僕は無理矢理にでも何らかの言葉を彼女に与えないといけない。そんな、不完全な言葉を僕たちの全てだと思ってしまうような女の子の顔なんて、見たくもないだろ。そんな感情すら諦めてしまえたら、僕はこの女の子と話す意味さえ失ってしまう。

「なら、教えてくれませんか。あなたのこと。私たちのこと」

 すると、彼女はさっきよりもはっきりした口調で聞いてきた。少し意外だった。でも同時に安心した。彼女は僕の不完全な言葉を、不完全なままで受け取ってくれたから。僕は今日初めて彼女の目をまっすぐ見る。その深い瞳の色は変わっていないように感じた。

「そうだね、じゃあちょっと話そうか」

僕は口を開く。これからも、彼女と話す意味を失わないように。


 僕たちが出会ったのはちょうど3年前、高校2年の春だった。出会い方は本当に平凡で、ただ新しいクラスで隣の席になっただけ。僕自身も、いたって平凡な高校生だったと思う。だけど少しだけ、僕は人より不幸だった。先に少しだけ、僕の話をしよう。

 僕はその3ヶ月ほど前、つまり高校1年生の冬休みに、母親を交通事故で亡くした。その日、普段は一年に一度も雪が降らないようなこの地域に大寒波がやってきて、2、3センチくらい雪が積もった。それでも小学校の先生をしていた母親は仕事に遅れることができず、とりあえず車のタイヤにチェーンを巻いて出勤した。そして事故に遭った。曲がり角で車がスリップして、電柱に衝突したのだ。きっと慣れない雪の中での運転に、その場しのぎの対応では間に合わなかったのだろう。割と派手な事故だったのですぐ通報がなされたらしいけれど、雪に慣れていないのは救急車も同じだったらしく、平均よりは搬送が遅れたそうだ。それが遠因となったかはわからないけれど、母親はその日のうちに死亡が確認された。

 母親の訃報から葬式まで、全て冬休み中の出来事だった。幸運にも、とは言えないけれど、事故現場自体は高校からかなり離れていたし、僕にはさほど友達もいなかったので、母親が死んだことが高校の人たちに知られることはなかった。先生たちと唯一の親友にはそのことを伝えたけれど、何でもないように接してほしいとお願いしていたから、残りの高校1年生の学校生活も表面上は何も変わらなかった。

 でも、もちろん僕も血の通った人間で、16年間愛情を注いでもらった母親が死んだことはかなりショックだった。冬休みは基本沈んで過ごしていたし、僕はもしかしてこの世界で最も不幸な16歳の部類に入るんじゃないかと本気で思ったりもした。だけど慰めに交通死亡事故について調べているうちに、この国だけで1日に大体10人以上の人が事故で亡くなっていると知って、僕の不幸がありふれたものであるとわかってしまった。それからは悲しみを表に出すこともなんだかいやらしいような気がして、父親にすら平気なふうに装った。そんな生活に慣れてきたころ、僕は2年生になった。

 望月千春とは、その時に出会った。新しい教室に入ると、彼女はぴんと背筋を伸ばして座っていた。背景に見えた桜の降る窓に、よく似合っていたのを覚えている。僕が隣に座ると彼女はこっちを向いて、「よろしくね」と笑った。先ほどまでの生硬な雰囲気からは想像できない表情に驚いた。そうして流れのままお互い自己紹介をすると、下の名前が似ていることに気がついて、少し話が盛り上がった。僕は自然に話しているつもりだったけれど、5分ほど話した時、急に彼女は

「立花くん、なんで無理してるの?」

と訊いてきた。正直、驚いたどころではなかった。だって彼女は自分でも忘れかけていた心のうちの辛さを見抜いた上に、出会って5分の人間に躊躇なくそれを尋ねたのだから。僕は平静を装って、

「何でもないよ」

と笑ってみせると、彼女は真剣な顔で

「そんなことないでしょう」

と返した。強引な彼女に少し苛つきつつ、

「どうしてそう思うの?」

と逆に尋ねたら、彼女は

「こうやって話していて、私はあなたが辛いということを隠しているって分かった。それに理由なんていらないよ」

とまるで当然のように答えた。そして僕があっけに取られているうちにHRが始まって、会話は中断されてしまった。だけど彼女が諦めることはなく、HRが終わってもしつこく僕に尋ねてきた。30分の格闘の末、僕は母親が死んだことやそれを隠して過ごしていたことを認めることとなった。

 こうやって言ってしまうとまるで尋問されたみたいだけれど、出会って1日目の女の子に隠し事を曝け出すことで僕の気持ちは幾分楽になったのだと思う。ずっと身体の奥に燻っていたしこりがとれたみたいで。彼女は

「人間って助け合って生きていくものなんだから、辛いものは辛いって言わないと生きていけないよ」

と言った。僕は、

「どうして今日初めて会った僕すら助けようとするの?」

と聞いた。彼女は、

「だから、理由なんてないんだって」

と笑った。どきりとした。きっとその感情に名前をつけるのなら、恋になるんだろう。

 そこからは、割とよくある恋愛が展開されたと言っていいと思う。僕と千春はよく話すようになり、いつの間にかお互い下の名前で呼びはじめた。しかもそれぞれの親友同士が幼馴染であることが分かって、その4人で遊びに行くことも増えた。会うたびに、距離が縮まっていくのを感じた。そしてクリスマスイブの夜に、僕は千春に告白した。お互い想いあっていることは半ば分かっていたのに、オーケーの返事を貰うまでの数秒間は心臓を吐き出しそうになるくらい緊張した。付き合いはじめてからも4人の距離感は変わらなかったけれど、2人の距離感は確実に恋人のそれへと変わっていった。手を繋いで、ハグをして、キスをして。違う大学に進んでからも僕たちは恋人を続け、付き合って2年目のクリスマスイブには初めて身体を重ねた。他の恋人たちの事情なんてわからないけれど、僕たちはきっと順調に恋愛をしていたのだと思う。2週間前のあの日までは。つまり、千春が車に轢かれた、あの立夏の日までは。


 「本当に、千春はどこまでも馬鹿で、どこまでもまっすぐだった。あまりにもまっすぐすぎて、この歪んだ社会では逆に歪んで見えるほどに。だから他人と衝突することもたくさんあったけれど、それでも千春は全く歪まなかった。社会に染められなかった。それが、どうしようもなく美しかった」

僕がそう言い終えると、彼女はぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございました。丁寧に教えてくださって。その、立花さんが私のこと好いていてくださったこと、よくわかりました」

そう言った彼女は、少し頬を赤らめていた。目線を斜め下に泳がせている。僕は席から立ち上がり、窓の側へと足を進めた。視線を百日紅に向ける。紅花が一輪だけ咲いていた。

「まぁ僕はこう言ったんだけどさ、あまり気にしないでほしい。今日急に出会った男が彼氏だって聞いてもすぐには飲み込めないでしょう。だから彼氏彼女とかは気にせず、何でもない2人としてとりあえずは接しよう。うん、それがいい」

僕はひと息にそれを言い終えると、彼女の方を見ないまま扉へ向かう。半分だけ顔を戻して、「じゃあまたね」と残してドアを抜けた。後ろ手にドアを閉めて、何でもないように数歩歩く。そこで僕はようやく、大きく息を吐いて地面に座り込んだ。呼吸が荒い。あの病室は空気が薄かった。

「千春…」

その声は響くこともなく消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る