春の名前

橘暮四

1.0 立夏に散る春、解夏に浮ぶ月

 きのう、恋人が死んだ。


 そんな、名作小説の二番煎じみたいな書き出しから始まる僕の現実は、やっぱりありきたりなものだったんだろうと思う。彼女だって、本当に死んだわけじゃない。この国で1日1600件以上も起こる交通事故のひとつに巻き込まれただけだ。現実は小説より珍奇になんてなりえない。最後に大逆転の結末が訪れることも、みんなが幸せになることも起こらない。ただ空気みたいに、底の薄い終わりがゆっくりと僕たちの肺に充満するだけだ。現実はどこまでいっても現実的だからこそ、現実たりえるんだ。それでも、いや、だから、僕は彼女が死んだと表現しよう。この救いもない、結末もない、僕たちのどうしようもない現実を、少しでも正しく表現できるように。少しでも正しく愛せるように。


 きのう、恋人が死んだ。春が終わった日のことだった。彼女はその際に、記憶の一切を失った。

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