努力と事実

東 哲信

努力と事実

 


 突然ですが目に見える成果とは何でしょうか。

 私はこの点を客観的事実の具合によるものだと考えます。客観的事実とはいささか固い言葉のように思われますが、

「テストで95点を取ったから(客観的事実)、成績はAとしよう」

「A君の営業売上が30万円だったから(客観的事実)、A君は昇給しよう」

 上のような場合を想像してみてください。

 テストで95点を取ったという「事実」は先生からみても生徒からみても、保護者からみても(客観的)な「事実」です。

 営業売り上げが30万円だったという「事実」は社長でも社員でも帳簿を見れば(客観的に)明らかな事実なのです。

 このように、後からは覆すことができない事実のことを客観的事実としましょう。そうして目に見える成果というものはこの客観的事実に対して正の相関性を持つものであると私は愚考いたします。

 では、目に見える成果と客観的事実の間には何故に相関性が生じるのでしょうか。統計データを引っ張ってくれば自明であるように思われますが、ここでは一つ馬鹿な手間をかけて考えてみましょう。

 例えば、我が国はお金というものを様々なモノやサービスと交換できるものとして取り扱っております。すなわち、あるモノやサービスを買うために必要なお金はそのモノやサービスと等価値であるといえるのです。そうして、モノやサービスというものは客観的事実に含まれるのではないでしょうか。尤も「サービスは人により受け取り方違う!」と怒られそうですが、それを言ってしまえばモノにしても個人によりその価値を異にします。しかしながら、先ほども申し上げた通り、我が国はお金がモノやサービスと交換できるシステムでこの国を回しております。このことが示すことは、

 「モノやサービスの価値について限定的ではあるものの値段という形で数値化している」

 ということです。そうして数値化されているということは客観的であるということではないでしょうか。店頭に並んだバナナに100円の値札が付いていたとして、いくら消費者が「このバナナには20円の価値しかない」と思ったとしても、私の知る限り大阪以外では値段という限定的な価値の数値化は覆しがたいものです。値段とは、限定された範囲内のだれが見ても(客観的に)モノやサービスの価値を示すものなのです。したがって、この客観化された価値がどれだけ売れているかという(客観的事実)が売り上げという目に見えた成果になるのですから、客観的事実と目に見えた成果は相関すると言えるのではないでしょうか。


 以上より、目に見える成果が客観的事実に相関することを馬鹿な手間をかけて説明しましたが、さて、これらに対する報いとは何でしょうか?。それは給料であったり、成績であったり、あるいは社会的地位かもしれません。企業の売り上げを配分するさいに、目に見える成果を挙げた人に高い給料を出そうと判断するのは自然なことで、逆のようなことがあれば会社は倒産しかねないでしょう。また、目に見える成果が高い人が良い成績を得ることは当然でしょう。点数が低い学生が、高い学生に対して良い成績が与えられていたらオカシイ話です。

 ところで、

 「ちょっと待った。しかし、目に見える成果にもシジツの努力、客観的に評価しえない価値を持つ努力が隠れており、給料も、成績も社会的地位もこれらに対する報いという意味が隠されているのではないか?」

 と、仰せる方もおられるかもしれません。しかしながら、努力をしなくとも目に見える成果を挙げる人もおります。努力をしなくとも良い成績をとる天才はおります。ゆえに、目に見える成果と努力の相関性は低いと言えるのではないでしょうか。さらいに言えば、いくら努力をしようとも点数が低ければ、売り上げが立たなければ、会社は客観的事実に基づいた売り上げを立てれませんし、学校はそのシステムとして良い成績を与えられないのです。したがって、努力と目に見える成果の相関性は必ずしも高いものではなく、あくまでも給料や成績というものは目に見える成果に対する報いとして考えるべきです。むろん、努力に対する対価としてこれらを捉まえることはその人の勝手ですが、少なくとも努力のみにより成績も社会的地位も給料も得られると考えるのはオカシナ話であると思います。

 しかし、目に見える成果にのみ拘泥し、まるで人間の価値までを目に見える成果に認めることは、もっとオカシナ話であると思います。目に見える成果とは、先述の通り限定された範囲内における客観的事実に過ぎません。したがって、いくら目に見える成果が高く、高い給料と高い成績があり、社会的地位がある人が在ったとしても、そのことから言えることは「その人がその道において能力がある」ということに過ぎません。目の前にある人間の価値、すなわち尊敬するべき人物であるかどうかを示すものは紛れもなく「努力」、一生懸命に生きているか否かの指標である「努力」であるのです。

 人間とは唯一無二の理性と実存性を有している生き物であり、そうして死ねば何もなくなるという儚い生き物です。ダラダラと暇つぶし(Killing time)のように生きていればあっという間に無に帰します。この限られた人生を一生懸命に生きている人、すなわち努力している人こそ、私は人間として尊敬すべきだと考えるのです。

 

 先日、教職員の一人が懸命に努力している学生に向かって、あざ笑うような発言をしている場面を目にしました。私はそれを見て「もし、私が多くの富と名声を持つ人間であるならば、たった今すぐにでも、学生を教職員より高給取りにしてやるだろう。」と義憤しました。しかし果たして?、富や名声を得た私は今の私と同じく教職員に義憤を起こせるのでしょうか。私は自身を訝りました。それどころか、結局は「富や名声を持つ人間ならば、」などと、その場で彼をかばう努力を怠っては能力だけをタラレバ諭で渇望する自分が非常に気分の悪い人間に感ぜられたのです。

 皆様はこの一見についてどのように考えますか。

 努力とは価値があるものだと私は信じたいものです。


 貴重なお時間を削って高閲いただきありがとうございます。

 本内容についてですが、むろん上の内容をもって一作と致しますものの、詭弁的な節もあり完結されたものとは言い難いところです。したがって2話以降ではこれまでの論述を検討する内容をまとめたいと思います。興味に足るものがありましたらご覧ください。











 

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