餅巾男子と長葱女子

森林公園

餅巾男子と長葱女子

 高橋たかはしは鍋が苦手だ。あるグルメ漫画よろしく、茹だった葱を噛んだ瞬間に、喉の奥を火傷してしまったり。冷ましたつもりで食べた餅巾着で、舌の表面の感覚を無くしたり……。とにかく良い記憶がなかった。突然の熱さの来襲に、裏切られた気分になるのだ。


 この研究室(映像を主に学んでいる)に関わる生徒の中で、二年生の男女の生徒が二十歳になった。佐藤さとう鈴木すずき。ともに『サ行』の二人は出席番号も連番で、男女なのにまるで親友のように仲が良い。


 佐藤は、黒髪ロングの古風な顔立ちをした美少女だった。少し陰があるので近寄り難かったが、内面は下品なことが大好きな小学二年生みたいな女の子だ。休日偶然逢ったときに、全身ゴシック・アンド・ロリータ・ファッションに身を包んでいてインパクトがあった。


 鈴木の方は、いつでもチェックのシャツをボトムスにインしていて、図書館に籠って古い映画のアーカイブばかり観ているような、典型的な映画ヲタク眼鏡だ。そんな二人の後輩は、好きなアニメが一緒だとかで、とても気が合い、いつも一緒にいるのだ。


 それが、一年先輩の高橋にはどうにも面白くなかった。佐藤が作るものはアニメーションを基礎とした作品で、高橋も似た傾向の作品を制作していて、まるで兄妹弟子のようにある教授に師事している。いつの間にか、高橋は、佐藤に恋情を抱くようになっていた。


 大学内で毎年恒例の、インフルエンザの大流行。そのドタバタ騒ぎで『祝い』が遅れた。佐藤は七月には二十歳になっていたので、彼女にとっては遅れにおくれた祝いの会となった(鈴木は先月の十一月に、誕生日を迎えていた)。


 皆、クリスマスと忘年会も兼ねて、一回でやっつけちまおうと必死になって予定を空けた。授業が休みに入った十二月後半、ようやく小人数で集まることができた。季節にならって、皆で取り囲んでいるのは、いわゆる『鍋』である。


 掘りごたつの上、土鍋の蓋を開けて湯気の中を皆で見つめる。出汁のために沈んでいる昆布を取り出してからの、鈴木の『ご指示』がまぁ、凄かった。鍋を囲んでいる皆がゴクリと緊張する。そんな中、彼のフチなしの眼鏡が光る。


「ちょっと出汁の量が足らないんじゃないでしょうか、あ、佐藤。駄目だよ春菊をそんなに早く入れてしまっては」


 言葉尻は柔らかいが、鈴木はいわゆる『鍋奉行』というやつだった。食材を切るとき、長葱の長さまでも指定された。餅巾着を止めるのに楊枝を使うことも許されず、高橋は『かんぴょう』なんてものを初めて買って来させられた。


「いやぁ鈴木がいると助かるよ、僕らは『待ち奉行』でいいもの」


 院生の先輩が眉を下げながら微笑む。高橋はそれに何だかちょっとだけ文句を言いたくなった。後輩の鈴木が仕切るのが良く思えなかったからだ。だから少し瞳を伏せる。「ちょっと口五月蝿いですけどね」と辛辣に呟いた。


「『鍋将軍』よりはマシですよ」


 佐藤は鈴木に言いつけられた通り、白菜の固い部分や人参から出汁の中に入れつつ、高橋に聞こえるようにそんなことを言う。可愛らしい黒いニットを捲り上げて、白い肌に目を奪われるが、内容がまるで鈴木を庇っているようで、高橋はまた面白くない。


「なんだよ、『鍋将軍』って?」


 鈴木は湯気で曇ってしまった眼鏡を拭きながら笑った。現れた素顔は、まだ中学生のようにあどけない。すると佐藤が、まるでお姉さんみたいに鈴木に微笑んで答えた(片手にはスマートフォンが握られている)。


「『厳しい仕切り役のこと。少しでも自分のやり方にそぐわないと怒ったりする人』のことだって」

「何だいそれ、たんなる嫌な奴じゃあないか」


 佐藤と高橋の間で、いつものツンツンとした空気になる。すると、それまでにこにこと見守っていた教授が「ちなみに私は『アク代官』ですよー、そぅれそれ」と言って手際良く灰汁あくをすくい始めたものだから和んだ、実になごんだ。


 この、ごちゃ混ぜお誕生日会は、教授の家で執り行われていた。掘りごたつがあり、とても広く綺麗である。鈴木と佐藤は今時の子にしては小柄な方だ。寄り添うように並んでちまちまと鍋をつつく姿は、まるで双子の幼児のようにも見える。


 だもんで、教授に差し出された日本酒を、佐藤がぐいっとあおったときは、高橋は驚きと動揺で思わず箸をポロリと片方落っことした。鈴木の方はと言うと、「これ、エタノールの匂いがしませんかぁ」と苦い顔をしていて、よっぽど可愛げがあった。


「エタノールもアルコールだからなぁ」

「理科の実験を思い出します」

「慣れると食事が美味しく感じてくるんだよ、寄越せ。鈴木にはまだ勿体ない」


 案の定鈴木は、鍋が終わるころにはすっかり寝入っていた。先輩が苦笑する。鈴木の丸い眼鏡を丁寧に取って卓の上に置いてくれていた。先輩は男性だが、こんな風にとても気が利いて、研究室のお姉さんみたいな存在だった。


「残念だなぁ、せっかくケーキも用意したのに」

「鈴木のお兄さんが迎えに来るそうだから、切り分けて持たせてあげましょう」

「それにしても佐藤、お酒強いねぇ。凄いねぇ」


 先輩にあやすように褒められて、佐藤は酒のせいだけでは決してなしに頬を染めた。高橋は今晩何度目か分からないモヤモヤに、苦虫を噛みつぶしたような表情になる。佐藤が酒を呑めるのも、寝入っている鈴木のお守りをさせられているのも、何もかも不満だった。


 奥で洗いものをしていた先輩が、ケーキを運ぶ教授の後からにこにことやって来る。何か箱を携えている。「せっかくだからさ、こんなのも買ってみたんだよ」と言って、先輩は小振りで美しい箔押しがされている箱から、小さな瓶を出した。佐藤がそれに目を輝かせる。


「わぁ、何ですか。それ」

「『ドルチェワイン』って言うんだ、デザートみたいに甘くて美味しいよ」


 甘いものにあまい酒。何とも言えないセンスに、うえーっと高橋は心の中で舌を出した。普通に考えて珈琲か紅茶が良い。可愛い後輩がわずかに頬を染めて嬉しそうに先輩を見上げているものだから、それについては何も言えなかった。


「こいつ……結構呑んでたはずなんだけどな」


 思いつつ、じろじろと後輩を観察する。目の前には白いクリームのふわふわのケーキが運ばれて来ていて、佐藤はさらに目を大きくしている。普段気怠気な彼女の黒い瞳に、高橋は思わず見とれて動きを止めた。


 すると、ケーキを見つめていた佐藤の顔が、こちらに同意を求めるように向けられた。途端に目が合ってしまって急いで逸らすと、高橋も目の前のケーキに集中するフリをする。緩く泡立てられた軽いクリームがふんだんに使われている、ショートケーキはとても美味しかった。


「わ、ちょっと」


 先輩の焦った声に振り返ると、後輩が指の先までも真っ赤に染めて後方に倒れていた。思わず彼女の方へ向かって立ち上がってしまって、膝の上に乗せていた鈴木の頭が座布団の上に転げ落ちた。佐藤は洋酒が苦手だったのだ。



* * *



「……たく、何で俺が」


 生まれたての子猫のようにぐったりと背中にかる後輩は重たい。高橋は冬の寒空の下、白い息を吐きながら佐藤を背負っての帰路である。彼女が履いている革張りの黒ブーツが、身体にぶち当たって痛い。


 彼女の体温はひどく高く、着ている黒いケープは高橋ごと包み込むようで、寒さはそんなに気にはならなかった。佐藤はこの春から、大学の傍のアパートに一人暮らしをしていた(それまでは結構遠方の実家から、大学へ通っていた)。


 高橋は違う学部の男子生徒ばかりと寮生活である。大学の作業が遅くに及んだときに、家の近くまで送ってやったりしたことはあったが、アパートの敷地内に入るのは初めてだった。そこはとても古びていて、何かの折に聞いた衝撃の家賃価格が妙に納得いった。


 アパートの錆びれた階段を、人を抱えてのぼるのは相当な骨である。一歩ずつ足を進めるたびに、チリチリと錆屑が階下に落ちるのが隙間から見えて肝が冷えた。一度佐藤が背中から滑り落ちかけて、よいしょと抱え直したときに、彼女の柔らかさに今さら気づいてドギマギした。


「ほら、降りろ……部屋の前まで着いたぞ」


 器用に後ろ手でパシリと後輩の頭を叩くと、佐藤は何かもごもご言って頭を高橋の肩に擦りつけてくる。「鍵渡すんで、このまま入ってくださいよ。……降りるのが面倒臭い」っと、肩越しに甘ったるく、酒の匂いがする白い息を吐かれた。


 後ろ手に金属を渡されて、ため息を吐いてから仕方なしに年期が入っていれづらい鍵を開けると入室した。好きな女の部屋に初めて訪れるというのに、アパートの古さのせいで、『ホラーの幕開け』みたいな雰囲気は何なんだ。


「……何と言うか、薄暗くて湿っぽい部屋だな」


 部屋はとても綺麗だったけれど、何となく気恥ずかしい気持ちが優先して悪態を吐いてしまう。入口付近に小さな炬燵があって、佐藤がそこを基準に生活しているのが何となく想像できた。灯りをつけると、部屋に背を向けて玄関にしゃがみこむ。


「おい、今度こそ降りろよ」


 先ほどは甘やかしてしまったので、今度は少し強めに言ったのに。佐藤はぎゅーっと高橋の首に縋ると、「しないんですか」と突然直球で一言問うた。その一言でホラーが裸足で逃げ出した気がした。高橋の体温がぎゅるりと上がる。


「おくりおおかみ……」

「馬鹿を言え、俺がそんなことするわけないだろう」

「じゃあ、私がすればいいんですか? 『送り狼』」


 そう言って、おぶわれている背後から後ろ髪を避けると、高橋の無防備な首にちうっと吸いついてくる。思わず腰を捻って佐藤を振り落としてしまった。後輩は玄関のフローリングにごろりと仰向けに転がる。厚手のカーテンのようなスカートが捲れて、毛糸のパンツが見えた。


「……っバカ!」

「もぅ、乱暴だなぁ」


 佐藤はクスクス笑うが、そのままぐったりと動こうとしないので、高橋は仕方なしに少女の傍に腰を降ろした。口の中に溜まった唾を飲み下す。その音が無様に彼女に聞こえてしまわないか、そんなことが気がかりだった。


「……酔っていやがるな」


 指の端で、幼さが残り過ぎる頬に触れた。しかしその指先は、ファンデーションでわずかに白く濁るのだ。「酔ってやしませんよ」と、指先が触れた瞬間、佐藤は突然笑うのを止めて、空中にぼんやりと言葉を逃した。


「高橋先輩はあれだなぁ、『餅巾着系男子』だと思ってたのに……」

「……その心は」

「『巾着の中は熱々の情熱』みたいな」

「それを言うならお前は『長葱系女子』だな」

「は?」

「噛んだら飛び出してきて、俺を攻撃しそうだろ」

「なんですかぁそれ。もしかして女の子とのいちゃいちゃの仕方、分からないんですか」

「な、馬鹿を言え。お前俺を何だと思ってんだよ」

「やっぱりどうせ触るなら、出るとこボインボインと出てる女の子が良いってことでしょうか?」

「んなこと言ってねぇだろ」

「どうだか……」


 佐藤が急に弱々しく返したので、高橋はつい投げ出された彼女の手のひらを握った。冷たい、はやく暖めてあげないと……。でもその前に色々と順番があるのではないか? 真面目な高橋の頭の中を、欲望と理性が真剣でしばき合っている。


「でも、俺は……ちゃんと。お前のことが、好きなんだからな」


 言った、いってしまった。顔中に熱が集まるのを自覚して、高橋は後輩の黒ブーツを俯いて見つめた。佐藤は足だけ玄関に降ろして、寝転がっている。そういえば二人ともまだ靴を履いたままだ。規則的な呼吸が耳に入ってきたので顔を見下ろすと、案の定後輩は寝こけている。


「……何だよ」


 苦々しくも思ったが、何も用意していなかったもので、少し安心もした。「とんだ狼だな」と、高橋はそう笑いながら呟いて、黒髪をわずかに拾い上げると、軽く唇だけ落とした。外は雪が降り始めたようで異様に静かである。


 その雪が消えても、春が訪れても。高橋と佐藤がくっつくのはまだまだ先のようである。



<了>

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