僕は学校が嫌いだった

逢雲千生

僕は学校が嫌いだった


 学校が嫌いだという人はとても多い。

 勉強が嫌い、友達と喧嘩した、先生が苦手、授業がわからない、などなど。

 例を挙げればキリがないだろう。

 僕もそうだった。

 小学生の時はまだ楽しかったけれど、中学生になったら途端に大嫌いになったんだ。

 特定できるような理由はなかったけれど、強いていうなら、世界が嫌いだった。

 朝は母親に怒られながら起こされるし、朝食は苦手なトーストと甘いジャム。

 そこに父親が好きなコーヒーが付くと、ダイエット中の姉が買い込んだ豆乳入りのカフェオレが出てくる。

 スクランブルエッグだけは美味しかったけれど、肥満気味の父親が食べなくなってからは卵料理が朝ご飯から消えてしまって、唯一の楽しみがなくなってしまった。

 僕は毎日お腹を鳴らしながら家を出ていたっけな。

 和食ばかりの朝食にうんざりしていた友人が羨ましかった。

 通っていた中学校は規則が厳しくて、週に三回は校門検査が行われていた。

 そこで引っかかると、放課後に部活動そっちのけで反省文を書かされたし、授業態度が悪くても書かされていた。

 テストの結果なんて大嫌いだったよ。

 赤点はもちろん、半分も取れなかったら、強制的に補習をやらされていたんだからね。

 ……今、誰かが昭和の話なのかなって思ったでしょ。

 違うよ。これは平成後半の話。

 変な感じだろうけど、平成にだって昭和の考えを持った学校があったんだよ。

 高校だって同じようなものだった。

 右向け右で先生に従いなさいってほどではなかったけれど、誰も自分らしさを持っていなかった。

 僕だってそうだった。

 中学まではなんとか持っていたと思う自分が、高校に上がったら急に消えたんだ。

 マジックみたいだと今なら思う。

 一人だけ変わったことをするって勇気がいるし、みんなから陰口を叩かれるのが嫌だったから、僕が変わらなくちゃって思ったのかもしれない。

 今じゃもう覚えてもいない、そんなどうでもいい理由だったのかもしれないね。

 もちろん、みんなと一緒に行動するのはすごいことだし、素晴らしいことだよ。

 同じ目標に向かって進んでいくのは楽しいし、達成した時の嬉しさは何倍にも膨れ上がることだろう。

 だからこそ、必ず一人はこう言うんだ。

「みんなで一緒にやろうよ」ってね。

 僕はこの言葉が大嫌いだった。

 今になってそう思うよ。

 みんな同じじゃないとダメだ、みんなが平等じゃないとダメだと、どうしてそればかりを求めるんだろうって考えたりもした。

 みんなができないことをやろうとか、だったら僕は偉くなってやるとか、すごくイキってたりもしたな。

 恥ずかしいけれど、そんな時期があったからこそ逆に冷静になれたのかもしれないんだ。

 みんなと同じスピードで歩くのは、僕には苦しかった。

 時にはゆっくり歩きたかったし、早く進みたい時もあったからね。

 だからこそ僕は、自分だったらどうすればいいのかを考えたよ。

 そして選んだのがこの道なんだ。

 マイクから音声が途切れた瞬間、彼の背後にスクリーン映像が映し出された。

 多くの人が笑い、悲しみ、怒り、涙する瞬間が切り取られているかのように流れていく。

「令和生まれの皆さん。僕は平成生まれです。皆さんにとっては昔の人に見えるでしょうが、僕も皆さんくらいの年齢の頃は、昭和生まれの人が昔の人に見えていました。昭和生まれの人も歳をとり、だんだんと去っていく今の時代、今度は皆さんが次の時代を生きていく番です。いつか皆さんが僕くらいの年齢になった時、『そういえば昔、こんな人がいてこんな話をしていたよね』と語り合えていることを願います。本日は以上です。ありがとうございました」

 まばらな拍手に後押しされて壇上から降りる。

 スポットライトの暑さで汗が止まらないが、見上げた場所から見えたみんなの表情が少しは変わった気がする。

 生きづらい時代を生きた平成生まれの僕と、先が見えない時代を生きていく彼らが交わったこの境界線が、いつか次の時代へと繋がっていくことを願っている。

 個人、少数、マイノリティ。

 今まで見てはいたけれど見えていなかった透明人間のような人達が、胸を張って生きられる世の中になるといい。

 そう言っていた恩師が亡くなってからこれまで、多くのことが変わりそうだったけれど変わらなかった。

 世界を巻き込む大事が起こったにも関わらず、世間はいつも通りの過去に戻ろうとしている。

 それはそれで仕方のないことだと割り切ったが、僕はどうしても誰かに伝えたかったんだ。いつかの自分が言われたことを。

 僕はかつて世界を嫌っていた。世間を舐めていた。だから大学には行かなかった。

 あの頃は大学に行かなくても良かったし、そこそこの立場になることだってできると信じていたからだ。

 けれど現実は甘くなく、時代は厳しかった。

 大卒が優遇される時代に終わりはなく、学歴と職歴がものを言い、資格や証明が人を判断する。

 それを受け入れる人がいれば、反対する人もいて、いつまで経っても答えは平行線のままだった。

 親に言われて貯金だけはしっかりしていたものの、働けなくなったらすぐに消えてしまう程度の金額にしかならなかった。

 後悔しつつも意地を張っていた僕を救ってくれたのは、勤めていた会社で講演会を開いた大学の教授だったのだ。

 あれほど疎ましかった大学に興味を持てたのも、未来を見れるようになったのも、恩師である教授と出会ってからだったし、教授のいる大学を目指そうと思えたのは必然だったのかもしれない。

 三十過ぎのおっさんが何をする気だと笑われたが、それでも俺は大学に行きたかったんだ。

 あの教授の授業を受けたい。大学で学びたい。もっと世界を知りたい。

 その気持ちを糧に何度も受験してようやく合格できたが、働きながら送った学生生活は思い出したくもないほどつらかった。

 けれど留年することなく卒業できたのだから、人の情熱とは恐ろしいものだ。

 親には大学を卒業するまで黙っていたため、帰省した時に卒業証明書を見せて説明をした。

 最初は「親をからかうな」と怒られたけれども、最後には涙を流して喜んでくれたよ。

 あの時は本当に嬉しかった。やっと両親に感謝できた気がしたんだ。

 僕は大学を卒業後も教授のもとに通いながら勉強を続け、教授の推薦で大学の講師になることができた。

 勤めていた会社ではそこそこのポジションにいたけれど、不思議と未練はなかったから、辞める時はあっさりしたものだったな。

 さすがにしばらくは悩んだけれど、今は准教授になって好きなことを勉強しつつ、落ち着いた生活ができている。

 准教授になるまでが大変だったから、恩師である教授も今か今かと何年も待ってくれていたっけ。

 ようやくなれた時には、教授の助手として認められてから何年も経っていた。

 すでに退職していた教授に連絡した時、声も手も震えていたということは、教授の奥さんだけが知っていることだ。

 知らせを受けて間もなく息を引き取った教授は、嬉しそうに「おめでとう」と言い、最後に笑ってくれたと奥さんから聞いている。

 その話を胸に、僕は教授が亡くなった年まで生きてきた。

 そしてこれからも大学に通い、多くの人に教えながら学び続けるだろう。

 人生という名の難問を解くために。

 弱ってきた足を杖で庇いながら、舞台袖にあるパイプ椅子へと腰掛ける。

 心配そうに顔を覗き込んでくる助手に「大丈夫だ」と告げると、司会者が次の人の名前を呼んだ。

 鈍い靴音が鳴り止むと、スポットライトが若い女性に集中する。

 その一瞬の光の中に、出会った頃の教授が見えた気がした。

 

 

 

 

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僕は学校が嫌いだった 逢雲千生 @houn_itsuki

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