リケ

喫痄

リケ

ろらぽが びよへん

いはつる あつぷて

しそばろ あせふしゃ

おのあの あだるわ


“きと きと きと きっと”

“きと きと きと きっと”

“きと きと きと”


えだらだ ひすでじゃ

ひいあな えたてな

あふすぴ あこてじ

ひいあな えたてな

あむらど あらばの

あもきろ まりびろ


小さい頃母の実家に泊まった際、俺は祖母から、地元で今も語られているという「リケ」という隠し神の、伝承と歌を聞かされた。夜になると活動を始め、家の外をうろついている子供を連れ去って寿命を吸い尽くす──というそれは、日が暮れても外で遊ぶのを止めようとしない俺を、脅して注意する意味合いが強かったのだろう。でも俺からすればそれは逆効果で、恐れるどころか好奇心のあまり、そんなものがいるなら実際に見てみたいと言って聞かず、大人からは呆れられたものだ。


ただその後の体験がなければ、まず俺の生き方は違うものになっていただろう。


「それで夏と言えば、怪談だけどさ…」


「あー出た、いいよもう、客前で。だって嘘じゃんそれ」


「嘘じゃねーんだって。いやね、もう20年は前の話なんですけど、母の帰省についていったときですよ──」


俺は会場の温度を一旦下げようと鉄板の怪談を始めるが、それは俺の話術が乏しくて、右に立つベース兼コーラス、加賀美伽奈のツッコミありきでようやく成り立つようなサムい話、という意味でもある。その後、空気が冷めてしまったので次の曲で盛り上がって皆で温まろう、というM Cの流れ。限られたタイムテーブルの中、客演である我々「The Pleasantest Wretch」にとって、披露する数曲の魅力だけでは新たなファンを獲得するのは難しい。ステージ上ではいやいやという態度を取っている伽奈だが、M Cを作り込もうと言い出したのは彼女だ。

スタジオでの練習時も「鷹尋は本気でいるときが一番口が回る」と言われていたので、俺はムキになっているとも取れるくらいの熱弁で、当時の思い出を語る。


俺は確かにその夜、「リケ」と遭遇した。話を聞いたその日の夕食後、俺は一つ下の従兄弟を引き連れて家をこっそりと抜け出し、半ば冒険気分で灯りも少ない田舎の夜道を散歩した。あまり遠くに行って時間をかけても大人たちに気づかれて大ごとになってしまうので、目的地は近所に立っていた地蔵とした。

その夜は、確かに様子が違ったように思えた。街灯はやけに点滅するし、日本の夏とは思えないほど空気は乾いていて、寒さすら感じられた。

こういった些細な違いの積み重ねに上乗せされた僅かな霊感を、流石の従兄弟も察知していたようで、震え上がった彼は早々に家へと引き返してしまった。でもそれを受けた俺の方は帰るどころか、むしろ意地になっていた。もはやただの肝試しでもなくなって、大きな口が顔の一面を占めるというその姿を見るまでは、何が起きようとも絶対に帰るまいと意気込んだ。

そしてまもなく、俺は本当に普通でない現象を体験することになる。俺が通過するたびに、脇の街灯は順に消えて行き、進む先が暗くなっていく。もちろん怖かったが、むしろ恐怖ゆえに、立ち止まれば何かに捕まるような気がして、歩くことを止められなかった。

本来なら地蔵へ到着していそうな距離を歩いても、暗いせいなのか何も見つからなくて、俺はそのまま歩き続ける。その足を遂に止めさせたのは、正面に現れた壁のような障害物だった。右には畑の広がる道路を道なりに来たはずが、そもそもあるかも知らない突き当たりのT字路にまで行きついてしまった。

動揺しているうちに、その壁に何かが貼られていることに気付く。周りの状況は一切判別できないままだったが、それに限っては目が慣れてきたかのように、ぼんやりと色もなく浮かび上がった。

それを目にしたとき、一連の現象をこの世ならざるものが引き起こしたと確信させた要素は、二つあった。

一つはそこに筆で描かれていたもの。話にしか聞いておらず、見たことのなかった「リケ」の、全身の絵だった。女性の体に痣のような斑紋が広がっていて、巨大で腫れぼったい口だけが鼻の辺りに取り付けられた顔──ちなみに後に調べて確認した資料には、このとき見たものと全く同じ絵の複製が添付されていた。

そしてもう一つはいよいよというもので、直後、俺の肩を誰かが叩いてきたという感覚。背筋が凍り動けなかった上に、絶対に振り向いてはいけないという思いだけが脳内を占拠していた。

肩に手の感触を感じたまま膠着していると、突如目の前の壁が跡形もなく崩れて、その向こうからはやたら熱い強風がこちらへと吹き込んできた。触れていると目が、耳が、脳が直接打ち付けられて溶けていくような気のする風で、振り向くことを促していたのだ。

でも、それは化け物側の余裕の無さを表しているようにも思えた。ただの恐怖では振り向かないから苦痛を与え始めたのだと、むしろ俺に耐え凌ぐ勇気を与えた。落ち着くように目を閉じて、もし帰ることができたなら、「自分はどんな大人も体験したことのない試練を乗り越えたことになる」と、「この武勇伝を意気地なしの従兄弟にどう話してやろうか」と、そんなことを前向きに考えながら熱風に身を打たれていた。

そうしてどれだけの時間が経ったか、肩に触れる手と風を感じなくなったことに気付いて目を開くと、なんの問題もなく点いている街灯の下、当初の目的地である地蔵の横に立っていた。


創作の怪談ではなく実体験なので、肝の冷えるような出来のいいオチもない。俺は話を終えて、表情を変えずに一度黙り込む。


「…いかがだったでしょうか。とても怖い話だったのでね、ここ常丘、少し冷え切った空気になってます」


客入りは疎らなので一人一人の反応がよく分かるが、大体は笑顔で、後ろの方で二人並んだ女子高生に関してはくすくすと笑っている。決して悪い反応ではなかったようだ。


「それでは次の曲──どんな形でも構いません、僕たちの音楽に応えられる人は応えて、一緒に熱気を送り合って行きましょう。『Hypnosis』」


もちろんメンバーとすり合わせた結果出来上がった曲ではあるが、俺の作った曲だ。コードもメロディも歌詞も、今奏でられているのはあの日、神秘を体験して以来育んできた俺の感性と表現の全てだった。



「何言ってんだよ鷹尋!まだまだじゃんか!」


そのライブの打ち上げ。俺は今日共演した先輩のフロントマンである隼人さんに対して辛気臭い相談を我慢できず、荒々しく肩を叩かれた。


「でも、どれだけ工夫してライブしても手応えがなくて、あっても結果に結びつく気がしないって言うか…」


酒に酔った気怠さのまま、俺は机に突っ伏すようにして小声で嘆いた。伽奈はライブハウスの女性スタッフ、ドラムを担当していた二見透は別のバンドの友達と、それぞれ別の席に固まっていたので、この弱音が聞かれることはない。


「勿体ないってそんなんで辞めたら!そんなこと言ったらもっと長く燻ってる俺らの立場はどうなんだ。てか、親になんか言われてんの?」


「特には言われてないですけど。というか大学卒業して無理矢理バンドに専念して以来、あんまり話もしてないし…」


「おい、ダメだよそれは。親とは仲良くしといた方が良いぞ?結局俺たちはな、人の子として生まれてきてんだから。ちょっとでもあの人達が正気に戻ってみろ、俺もお前も今すぐ就活始めなきゃならないんだぞ?」


向かいに座っていた隼人さんは俺の顔を両側から掴んで、自分の正面にまで持ち上げてくる。


「結局、辞めさせられるか飽きるかまでは続けるべきなんだって。まだお前らなんて、実家暮らしまでさせて貰えてるんだからいいよ。かじれるスネはかじっといた方が得だよ」


あまりに顔と顔が近かったので俺はそれを振り解いて、今度はテーブル席のソファにもたれかかった。


「…そう考えると先輩達、凄いですよ」


「何が?」


「だってここにいる人達みんな明日は一日中バイトで、早番の人もいるわけでしょ」


「あー」


「それで打ち上げまでフルサイズって、どういうバイタリティしてんだか」


「そりゃもう、打ち上げのために生きてるようなもんだからな。ある意味当たり前だよ」


「確かに。俺らの周りのバンドマン、みんなそのレベルですよね」


「バカ、レベルじゃなくて!マジに俺たちはな、この酒を美味くする為に長年売れもせずバンドやってんだよ!」


「…は?」


「いいですか鷹尋さん?普通のサラリーマンじゃね、どんな仕事を終えた夜でも、この味は味わえません。わざわざ安い給料で朝から夜までバイトして、その合間で制作して練習して、そこまでして、ちっぽけなライブハウスすら埋まらないような対バンライブをやってんですよ?そういうギリギリ生きてる罰ゲームみたいな人生だからこそ、極上の肴になるって思いません!?」


「──聞くな聞くな鷹尋クン!こんなアル中の言うことがもっともらしく聞こえるようになったら本当に終わりだからな!」


そう叫んで会話に割り込んだのは、てっきり隣で寝ていたと思っていた、今回のイベンターである谷下さん。急に目覚めて、隼人さんの肩をどついたのだ。


「おい、何すんだよ!」


「うちも小さいけどさ、呼んでもらってる店長の前で言い方ってもんがあんだろ?」


呂律の回っていない大声で激しく言葉を飛ばしている二人の向かい側で、俺は肩をすぼめる。ボーカルで作曲者、紛れもなくバンドの顔である俺の立ち振る舞いは、一つ一つがバンド全体のイメージに直結する。実際に飛び込んでみるまで、持ち得る才能だけが物を言う世界だと思っていた芸能の世界だが、実はどんな職種よりも人との関わり方が重要だった。しかし、あいにく俺にはそうやって自分の利のため他人に取り入るという才能がない。


「…ほら、こんな茶番やるために起きたんじゃないって!鷹尋クンが悩んでたみたいだから──」


もう6年の付き合いになる谷下さんだが、俺に対して特別親身に接してくれる人だった。しかし、それは何より情けない話でもある。下積みも良い加減長くなってきた今、本来は演者側こそ、求められる立場でなくてはならないはずなのだ。


「…いや。そんなに気にしなくて良いですよ。またバンドの三人で相談して、やり方考えて頑張ってみます」


「あんまり考えすぎない方が良いんじゃない?曲がダメってわけじゃないんだから、粘り強くやってれば大丈夫だって」


「あ、ありがとうございます…。でも曲にしても代表曲というか、キラーチューンがないのが問題ですからね。毎回構成考えるにも迷うことになるし。正直、お客さんにどういうのが受けるのかわかんなくなってきてて…」


「何言ってんだよ!お前が好きな音楽があって、客にもそれぞれ好きな音楽があんだから。好き勝手やってたら、自然とそれが好きな客も集まってくるし、それが好きな大物の業界人が目を付けてくるかもしれないだろ?インディーズなんてそんなもんで良いんだよ」


「おー、良いこと言う」


高まった熱量のまま、隼人さんは両手で俺の肩を掴んで、ゆらゆらとこちらを不快に揺すってくる。


「な!?お前も音楽好きでバンドやってんだろ!?」




その一言を最後に俺の記憶は飛び、自宅のベッドの上で俺は目を覚ました。

時計を見ると、朝の九時。スタジオを借りているのが昼の二時で、酔い潰れた割には随分と早く目が覚めた。

あまり具合は優れなかったが、例によって家にもいづらいので、俺はすぐに着替えて、急ぎの用もないのに外へ出た。

ひとまずスタジオの空く時間になるまではカフェにでも入って適当に時間を潰していようと、街へと徒歩で向かっていく。

昨日のことに関しては、記憶の飛んでしまう前までのことはやけにはっきりと覚えていた。

それまでに周りに辞めたいと言ったことはないし、自分でもそんな風には思っていなかったはずだった。でも、昨日はその言葉が出た──酒の勢い任せと割り切る割には、その考え方が腑に落ちる自分もいた。隼人さんのバンド、「She Loathes」はいわゆるミクスチャーロックという類のもので、バンドの音に乗せて、ラップを交えて自分たちのこと、世の中のことを直接的に表現し、訴える楽曲で活動している。ボーカルの隼人さんはそういった活動をするだけあって、特に自分の芯を強く持っている人だった。稀に大きめのストリートフェスに呼ばれるぐらいで、特別大きな求心力を持っているわけではないが、舞台裏からでも胸をぐっと掴まれるような、力強く熱のこもったM Cをする。自分達のやっていることがただの小細工にしか思えなくなる、完成された形を持っているバンドだった。それ以外にも周囲を見渡せば、実績に限って極端に売れているところはなくても、自分達と質の部分で違うところは数え切れないほどに見つかってくる。

オリジナルの曲を作り始めた高校の頃は、身内ではあったが周りから随分誉められたものだ。現メンバーの伽奈も小三からの幼馴染で、その身内の一人だ。熱い感情を表に出す性格ではないので直接言葉で伝えられたことはないが、今でも辞めずにいてくれるのは、俺の表現した音楽を認めて、信じてくれているから──なんだと思う。

でも、俺自身が抱いた自惚れは、その程度のものではなかった。俺が感性のままに書いた曲と詞は、たちまち世間に共感の波を呼んで、より広い人間に、音楽好きの中にも留まらず愛されるようなものになっていくべきだと。それこそが夢の終着点だと、当初は本気で思っていた。

「悪くはない」。昨日もそうだが、始めて以来すっと、飽きるほどそんな評価を聞かされてきた。フェスに出演しあまり縁のないライブハウスへ行けば、出番の後でスタッフから内容を忘れられるということもある。渾身の思いで出来た楽曲の数々は、客観的に見ると、ことごとく何も残さないものであったというのだ。

考えてみれば、あの日からそうだ。あの後俺が体験したことを話しても、大人達は恐怖を信じて慰めようともせず、外出したことを頭ごなしに叱るだけだった。俺の世界はたとえその形が音楽になったとしても、他人に響くことはない。

それが分かってしまったのなら、もうこれ以上は音楽を続ける意味も気力もない──本当のところ、それは既に悩みでもなくなっていた。


「…あれ?青野?」


「…小田」


駅前まで歩いて良さそうな店を探しているところで、見覚えのある男が正面から声をかけてくる。大学時代、同じ研究室の友人だった小田。中学時代は、昨日の『She Loathes』でベースを弾く先輩と同じバスケ部に在籍していた、という意外な繋がりもある。

在学中はかなり頼りあったし、俺の活動も全面的に応援してくれていて、それなりに信頼のおけた仲だが、卒業後は自然と連絡することも減っていた。


「あれ、お前仕事は?」


「いや、三連休だろ」


「あー…そう言えば。それじゃあまた飯でも──」


就職した小田と違って、俺は祝日に疎かった。再会は純粋に嬉しいと感じたし、話したいことなら立話では足りないほどにある。ただ、今だけはすぐにその場から離れたいという一心だった。俺は顔を僅かに背けて頭を掻いたあと、足早に小田の横を通り過ぎようとするが、彼はすかさずこちらの肩を掴んでそれを止めた。


「待て待て!俺、今日は床屋行くだけなんだよ。せっかくだし、どっかで話でもしようよ。それとも、何か用事でもある?」


「…いや、昼だけなら大丈夫」


「おー、それじゃ決まりな」


それ自体を嫌に思ったわけではない。突発的な思いは抑えて、俺は小田の歩く方へ振り返り時間を潰す場所を探した。



ファストフード店のテーブル席。経済的にも安いに越したことはないし、祝日のカフェに男二人というのを気にし過ぎた。要するに、どちらも俺の都合だった。


「ふーん。やっぱ難しいか、ミュージシャンって」


「まあね。いい加減、俺も身の振り方を決めないと…」


「いや、それは賛成できない。俺はもうちょっと続けてほしいな」


「もうちょっとって…。そう言いながらもう6年やってんだぞ?」


「俺はあんまり詳しくないけどさ、キャリア的には全然下積みでもおかしくないんじゃないの?簡単に辞めるとか言うなよ。お前は俺たちみたいなのの夢も背負ってるんだからさ」


「夢って…」


「そうだよ。一般の社会人なんて、みんな試せるような才能もないからそうなってるだけだよ。いいとこに勤めた金持ちの息子が先に結婚して子供を作って、家やら車やら買って──今から都会で働いたって、そんなくだらないものしか待ってないぞ?」


小田の言っていることが理解できないわけではない。ただ、この男からそういった言葉がつらつらと飛び出すことには、どうにも違和感があった。

俺たちの通った大学は決して一流ではなかったが、小田の場合学力があり、有名大学にも合格していたにもかかわらず、あえてそこを志望し進学していた。将来の夢を持ち、それに必要なものを大学で得るために一人の教授の講義を受けたいという一心で学歴を捨てた、強い意志の持ち主なのだ。そこまで芯の通った人物だ、流石の企業も学歴程度で見逃さなかったようで、簡単に第一志望の内定を勝ち取ったのだが、そのことを聞かされたとき、どれだけ俺が劣等感に打ちひしがれたことか。


「まあ気持ちはわかるよ。お前もさ、バンドに自信が無くなってきて隣の芝が青く見えてるんだよ」


「うーん…」


「でも、俺たちの方は結局、大多数の人間がやってることなんだから。尊敬できない上司だっているし、お前じゃ絶対にできないってことをやる人なんて、こっち側にはいないんだよ。その点、お前は違うだろ?」


やはり違う。以前の小田は、これほど自己肯定感の低い性格ではなかった。しかし、冗談が好きでないわけでもなかったので、もしかしたら大人の嘘、というものを覚えただけかもしれない。まだ就職してそれほどの時間は経っていない。これらが全て本心で、少し会っていないうちに社会に打ちひしがれることなど、あるはずがなかった。


「…まあ、辛いんなら仕方ないけどさ。もしチケットのノルマとかの話なら、俺も少し助けられるし、大学の頃みたいに」


「いや、いいよそんなことしなくて…」


俺の方は思っていた会話の流れと違っていることが気になって、どう話していいかわからなくなっていたが、そういう空気を察知した様子もなく、小田は食べながら何かを思いついたように話を続ける。


「そうだ。じゃあ辞める辞めないはひとまず置いといて。あのベースの娘…なんて名前だっけ」


「加賀美伽奈?」


「そう、それ!…あの娘とのケジメだけは付けないとダメだぞ?」


「は?ケジメ…!?お前、何か誤解してない?」


「誤解なんかしてないよ。全く進展してないんだろ?今のままでいい訳ないって、お互いに」


「だから、そうじゃないんだって!ただのバンドメンバー!家族くらいに付き合ってはいるけど、今更そうはならないよ!そういうモノだから!」


「お前頭が硬過ぎんだよな、職種に似合わず。どうせ、あれから彼女できてないだろ?」


「そうだけどさ。だからって…」


「あれ」、というのは、大学の付き合いで行ったコンパがきっかけで出来た彼女のことだ。バンドを組んで以降だと交際したのはその一人だけで、その一人も期間で言えば相当短いもの。恋愛を避けているわけではないが、バイト先も変わらずで、最近は出会い自体が少ないだけだと、自分の中では思っていた。


「これ、断言して悪いけどさ。お前に今後、加賀美より近い関係になる女なんか現れないからな?」


「そんなことないだろ。何を根拠に?」


「幼馴染だろ?何年一緒にいるんだよお前ら。口説いて一晩って付き合いとは訳が違うんだからさ。向こうにもし、付き合いの長い彼氏とか、片想いの相手とかがいるんなら分かるよ。でもそうでもないなら、加賀美って存在自体、お前が恋人を作る上での障害になってるんじゃないって話」


「意味わかんねー。…付け入る隙がない、みたいなこと?」


それを口にした自分で、俺はその心当たりがあることに気付く。当然、前の彼女にはバンドのことを話していたし、将来を考えた交際でもないので、彼女もひとまずは応援してくれていた。ただ関係というか、彼女の態度が変わったのは、その活動を実際に目の当たりにした後だった。


「そうそう。みんなな、頭の中に無意識でカプ厨の世界観があるんだから」


「え?なに、カプチュウって…?」


「芸能界、男女混合のユニットってのはいくらでもいるし、その中に既婚者がいることもあるけど、その相手が表に出てきて混ざったら、絶対に違和感があるだろ?」


「…そうか?」


「表は表、裏は裏ってことだよ。そうなるのは、俺たちが勝手にあるべき姿を投影してるから」


「投影ってことなら、まあ。フリーだと思って応援してた人が突然結婚発表してショック、みたいなことだよな?」


「大体はそう。で、それが厄介なんだよ。表で演出されるイメージって、お前たち演者がなんと言おうと本物になりうるんじゃないかって思うんだよ、客が嘘じゃないと言えばさ。それが客観的に収まり良さそうなら、周りがそうなるように作用してさ。だって、人間は自分の器官で好き勝手に世界のことを理解しているんだぞ?だから自分の持った鑑でしか世界のことを認識できない。そしたら、その鑑が本当のことと矛盾してても、偏見の方が秩序に合ってるからって世界の方へ働きかける方が自然じゃないか?」


「分かるような、分からないような…。俺自身がそのイメージを否定するのじゃ足らないのか?」


「当事者じゃなきゃ足りるだろうけど。でも、恋人なんて気分の問題じゃんか。言葉でお前の言ってることを理解できても、相手からどう見えるかの方が重要だろ。自分の職業を隠すのがベストだけど、そんなことしてちゃなおさら彼女なんてできないしな。あとはまあ、舞台上で仲悪そうにしてるか…」


活動するに当たって普通バンドとは、現実の腐れ縁を無理に隠してでもグルーヴを現出することを目指すものだ。ライブだろうと音源だろうとM Vだろうと、客に対してバンドの仲を悪く見せるわけがない。


「…でもそれを言うなら、俺たちは三人でいるのが一番だと思ってる。…万が一俺と伽奈の関係が変わったら、今度はドラムの透が蚊帳の外だろ。客観的に見ても、そんな形が似合ってるとは思えないよ」


「呑気なモンだな。二見が加賀美のこと好きだったらどうするんだ?」


「おい、さっきから勝手になんてこと言ってんだよ!ズレてるってはっきり言われなきゃ分かんないのか!?」


「いーや、ズレてないね。俺のツテとはいえ、大学のサークルから引き抜かれたのは二見自身が決めたことだろ?本当はそのとき何を思ってたかなんて分からないよな」


「あいつはそんな奴じゃないよ」


「…まあ、そうだな。でも、だからこそ俺の言ってることはズレてないんだよ」


「なんだよそれ」


「『本当はどう思っていたか』なんてことも、秩序はねじ曲げられる。お前の発言に従って、バンドの形を保つ為に自分自身に吐いた嘘が馴染んで、本物そのものみたく振る舞うこともあって当然だと思うんだよ」


「俺が本当は伽奈のことを好きで、透もそうかもしれないって?」


「それだけじゃなくて。冷静に、よく考えてみろって。小学生の頃からずーっとお前に付いてきた女のことだよ」


加賀美伽奈。彼女はあまり感情が動く様を見せず、「何を考えているのか分からない」と思うことがあっても、こちらが疑問に思ったり、意表を突く言動をするわけではない。小学生の頃は普通の仲だったのが、たまたま同じ中学と高校に通うことになり、自然と同じ軽音部に入部することになっただけだ。特別意識し合うこともなく、彼女は淡々と俺の決めた道に付いてきたはずだ。同じものを見てきたが故に、自分の意思で決めることが、たまたま俺と同じように成長しただけ。俺の方も──




「本当にそれだけ?」


小田と思いの外話し込んでしまって、俺は待ち合わせの時間に遅刻した。肌感覚で分かるが、今日の伽奈は、遅刻に対する怒りの前に、少し気が立っているようだった。


「…なんだよ。悪かったって」


俺はすぐに荷物を下ろしてギターの準備をしている間も、伽奈は珍しく苛立ちを隠さず、捲し立ててくる。


「頭も上がんない立場だけどさ、曲書いてるのはあんたなんだから、アレンジするにもアンタがいないと始まんないんだよ。そういう自覚は持っておいてよ」


「ああ、ああ」


エフェクターを弄るフリをして、俺はドラムセットの影に潜り、小声で透に話しかけた。


「なんで今日はあんな不機嫌なんだ?あいつ」


「あー、多分寂しいんじゃない?」


普段なら気にならない一言だったが、小田との話があって、どうも踏み込んだ見解が頭にちらつく。ただそんな邪念も一瞬の間に収めて、俺はあくまでも平静を装い、続きを尋ねる。


「寂しいって…。何が?」


「聞いてないの、『She Loathes』。解散するって噂だけど」


「え…」


何も聞かされていないことだった。「She Loathes」といえば、ボーカルの隼人さんが昨日、むしろ俺が辞めようとしているのを引き止めていたばかりのはずだ。あれほど熱意があって本気で音楽活動に取り組んでいる彼らが辞めるなど、昨日の今日で信じられるはずがない。あまりに意外な話で、感情が付いてこないというのが正直なところだった。


「そんなの、ただの噂だって。昨日の打ち上げだってそんな様子、全く無かったし…」


「でも、そんなデマが回るほど広い世界じゃないだろ?近日中に発表するんじゃないかな」


伽奈がこんな様子なのも納得で、「She Loathes」とはバンドぐるみで長い付き合いだ。だから、今の時点ではとても信じる気になれない。ある意味、それで終わる感情だった。

しかし、この時点でそれ以上に厄介なのが、自分たちの解散を提案するタイミングとして、今は明らかに不適切だ、ということだった。伽奈のいう通り、「The Pleasantest Wretch」の柱が俺である以上、意気消沈したまま活動を長引かせたところで、二人に迷惑をかけるだけなのだが、今それを切り出すのはあまりに恐ろしい。しばらくは今まで通り、自分をなんとか酔わせて続けるしかない。


とはいえ、この精神状態では大した成果が出るわけもない。普段通りでも売れていないといえばそれまでだが、自分はもちろん、伽奈や透にも気づかれるかもしれないと感じるほどの不調だった。途中からはむしろ、気が抜けてリラックスしたところからなら良いフレーズに出会えるかも、と淡い期待を込めて試行錯誤していたが、特別なものは生まれなかった。

先ほど小田は励ましてくれた。しかし実際は、俺の持ちうる表現の真髄こそがありふれたものだった。ありふれたものを愛し、ありふれたものに愛されたいだけの俺が、どれだけ突き詰めたところで、作品は決して「俺にしか作れないもの」などにはならないのではないか。


スタジオでの練習が終わり、三人で外に出る。


「じゃあ、今日は解散でいいか」


「…ん」


いつもこのあとは皆で夕食を共にするところだが、俺の口からそれを断った。若干の不自然さはあったかもしれないが、いちいち追及するほどデリカシーのない二人でもない。

そのまま三人はそれぞれの帰路につくことになる。

バンドとして時間を過ごすことへの気まずさもあったが、俺には別の狙いがあった。

今日のスタジオを借りると、家の離れている透だけが電車に乗って帰ることになるのだが、夕食のために駅の方へ一旦向かうと、俺と伽奈の帰り道は別になる。普段はそれがちょうどいい距離感になってありがたいのだが、今日は勝手が違う。少しだけでいい、二人で話す時間が必要だった。

並んで日の落ちかけた住宅街を歩く。伽奈は特に気を利かすつもりもないようで、何も言わず俺の横をとぼとぼと歩いている。


「…知らなかったよ、噂のこと。昨日の打ち上げで隼人さんと話したけど、そんなこと言わなかったし」


「そうなんだ。もしかしたら、直前に発表してさっぱり辞めたいタイプなのかもね」


確かに、隼人さんは飽きるかやめさせられるまでは続けるべき、と主張していたし、「She Loathes」が突然終了し姿を消すとなれば、その主張にも通じる潔さのようなものを感じられるだろう。しかし実際に、もうそのことは知れてしまっている。多分、彼らも俺たちのような身内に隠すつもりはなかった。ただ、あの場ではそれよりも先に俺が余計なことを口走ってしまっただけ。今俺が伽奈や透にそれを言いあぐねているのと、全く同じ気持ちだったのだろう。


「正直、羨ましいと思ってさ。あの人たちはバンドを辞めるってことで次のステップに進めるから。俺…停滞してるのが好きじゃないから」


「停滞って。コツコツやって報われるかもわかんない世界でしょ、そんなこと言ったら下積みしてる人みんなそうだよ」


「それは、俺も同じだよ」


「あー、でも何かやり方は工夫できるかもね。曲をサブスクで配信するとか、動画サイトにチャンネルを作って…とか、ウチは向いてないけど」


「そういう話じゃなくて」


「何?」


「バンドに限った話というより。今バンドをやってるってことも…俺たちの生き方の形の一つでしかない。もっと内面の部分から、いつまでも同じ関わり方で、腐れ縁でいるのも、なんかこう…気持ちが悪い」


伽奈は立ち止まった。ちょうど伽奈の家路と別れる十字路の上で、そのまま直進するだけの俺は気づかずに通り過ぎるところだった。

背後から声をかける伽奈の声色は、淡々としたままで変わらない。


「家族とぎこちなくなる訳だわ。私達のことも捨てちゃおうってこと?」


「いや…。二人と音楽やるのは楽しい。本当のところ俺だって、ここまで来たらバンドが成功するかなんて、どうだってよかった。透は途中加入だけど、もう大切な友達だし、伽奈は幼馴染で、ずっと親友で…。けど、ずっとこのままが理想なんて決まりは無い。捨てるんじゃなくて、その…逆、だよ」


まだバンドは続いている。今日のところは伽奈の考えを探りたかっただけのはずが、どういうわけか口が回りすぎた。


しかし。

俺が足早にその場を立ち去ろうとするところで、肩を掴まれて止められた。振り返ると、上目遣いの伽奈が、見たこともない表情を向けている。

いや、見たことはあった。中学か高校の頃、数回そんな眼差しを受けたことがあった。当時は気にも留めていなかったから、完全に忘れていた。少しだけ目を見開いて、怒りを収めているかのように顔がわずかに引き攣っている。今だから気づく、些細な違いだ。


「言ってる意味、分かりづらい。もう少し…直接的に言ってよ」


頭の中のあらゆる意識が揺動しているかのように、高まった心拍とちかちか共鳴りを始める。

俺は伽奈の腕を引き寄せて、その一回り小さな体に全身を被せた。


「…もっと、お前に近づきたい。お互いが、一緒になることを目指すようになりたい」


「うん、うん。でも…まだ分からない」


「ごめん、まだ色々と済まなきゃいけないことがあるから…これ以上は、その後にしよう」




俺自身、この関係の進展を停滞に対する刺激だと表現したが、それらしい新鮮なやり取りも、伽奈との間では不要だった。それまで目を背けていた、お互いに想い合っているそれまでの時間が反芻されて、新たな物語となって体に積みなおされる。その感覚だけで心地よくて、恋愛を深める過程がなくとも、寂しさのようなものは無かった。


「…そんな、知らない間にそんな関係になってたなんて」


次にバンドで集まったのは四日後で、昼食の際に、俺と伽奈はそれを透へ報告した。

そしてもう一つ。


「本当に勝手で、ごめん。愛想を尽かされても仕方ないと思う。…でも、俺はまだ、透にウチのドラムでいて欲しい」


俺は伽奈と頭を下げたが、反応が無いのでゆっくりと上目で彼の様子を確かめる。透は今ひとつピンと来ていない様子で、後頭部をぽりぽりと掻いていた。


「…え?今の話で、俺が抜ける要素あった?」


「いや、スリーピースバンドのうち二人がいきなり男女の関係になって、この先居心地悪く感じるかもしれないし、俺たちは誓ってそういう空気にはしないつもりだけど…」


「ははは!何言ってんの、二人なんてずっとおしどり夫婦みたいなものだったんだから、今更今更!」


「ほ、本当…?」


「ああ、俺だってこのバンドでやりたくて加入したし、それを続けたくて今までやってきたんだ。これからも三人でやるに決まってるし、二人がどれだけ仕事中イチャつこうとしても、むしろ俺がそうさせないよ」


「そっか…そうだよな…!」


透の言葉で、俺の心は一層晴れやかなものになった。いつか日本中を席巻するバンドになる、その夢は途絶えていないが、それだけではなくなっていた。俺と伽奈、そして透の三人で、ずっと変わらず、いつか老いて楽器が弾けなくなるまでバンドを続けていくことこそが、俺が心のどこかでずっと抱えていた望みだ。

こうなると心の靄は、それがたとえわずかに残るだけのものだとしても、とことん払い除けなければならないような気がしてくる。


「よし…俺たちだけじゃない。そうだ、先輩達もやっぱり俺、諦められない」


「『She Loathes』、引き止める気?あんま、よそのことに口出ししない方がいいと思うけど」


「…それは向こうだって同じだったはずなんだ」


「どういうこと?」


「ああそうだ、そのことで、謝らなきゃいけないことを忘れてた」


俺は以前からバンドを辞めようと考えていたこと、そしてそれを二人に相談しないままでいたことを話す。二人とも俺の変化に勘づいていたようで、それを打ち明けても思ったよりは驚いていなかった。


「まあ、最近モチベーション低そうだなーとは思ってたし、そんな予感はしてたけど…」


「でも、今はそんなことないんでしょ?」


「うん。それで隼人さんは、言ってしまえば他人事なのに、俺を真剣に引き止めてくれた。それって、多分あの人自身の音楽に対する未練みたいなものが残ってて、そうせずにはいられなかったってことだと思う。だから、まだ間に合うと思うんだ…俺たちも、本気で思いをぶつければさ」


伽奈の表情はあきれたと言わんばかりのものだったが、目には常に優しさのようなものが宿っていた。


「そうやって、かっこいいことも言うだけなら簡単だけどさ。あの人たちが辞めるなんて、何か事情があるに違いないよね。現実問題、それが何かを突き止めて解決しないといけないんじゃない」


「確かにそうだ。ということで、今回は俺が助っ人を用意した」


「助っ人?」


ちょうどテーブル席の横まで寄ってきたのは、俺があらかじめ呼んでおいた小田だった。


「よう、ひさしぶり」


「小田?今日平日だけど、仕事はどうしたの?」


「有給だよ。まあ、近いうち辞めるからなんでもいいんだけど」


「辞めるって、会社を?」


「ああ、業界のノウハウもコネも十分作ったし、そろそろ独立しどきだと思ってね」


連絡を取った際に聞かされたことなので、俺もそれを聞かされて間もない。

ある意味で、やはり小田は俺の思う器ではなかった。まだ就職して数年しかたっていないのに、彼はすでに人に使われるような人間ではなくなっていたというのだから。


「小田はベースの橘さんと同じ中学で、バスケ部の後輩って話はしたことあるよな」


「なるほどね。スパイしてくれたんだ」


「そういうこと」


小田は向かいの席に腰をかける。


「で、どうだったの?」


「よくあるパターン、なんじゃねえかな。最初に脱退を切り出したのがギターの間宮さんで、話しあった結果広瀬隼人さんも抜けると言い出して、結果的にバンドごと畳むしかなくなったという…」


「みんなが辞めることに納得したなら、厳しいんじゃない?」


「でも、中心だった隼人さんはまだ音楽を続けたいと思ってるんだよ。ダメ元でいい…俺が直接会って、話せば何か変わるかもしれない」


隼人さんと会うのは俺だけということだが、そこから四人は転じて、昼間から酒も入れずに、これからのこと、そして夢を語りあう。いつまでも元気のないこの国で、その場がどれだけ輝かしいものか。この輪にこそ価値があるようにも思えた。


そしてその輪の中に居てほしいもうひとりと、対面する時はすぐにやってきた。

呼び出した居酒屋で隼人を待ちつつ、俺は伽奈とメールでやりとりしていた。



『もしかして緊張してる?』


『緊張っていうか』

『やっぱり余計なお世話かもなと思って』


『ダメで元々って自分で言ってたじゃん』

『大丈夫。失敗したら、あとでなぐさめてあげるよ』


『あとでって今日?』


『明日も仕事ないからさ 今日はゆっくりできるし』


『そっか』



メールで伝わるものではないが、その発言を受けて俺が感じたものこそ、まぎれもない緊張だった。

そしてまもなくして、隼人さんが仕切りを開いて顔を見せる。


「よっ。お前の誘いなんて珍しいな、うれしいよ」


「はは、ちょっと話したいことがあって。…とりあえず座ってください」


そこからしばらくは、関係のない話が続いた。バンドのことや、伽奈とのこと、言うことがあったのもあるが、切り出す勇気がなかったというのが本当のところだ。


「…で、さっきにごしてた話は何だよ、急にサシで飲もうってんだから、そんな報告だけじゃないだろ?まだ悩みでもあるのか?」


「いや…ちょっとウワサで聞いちゃったことがあって。…隼人さんたちのことで」


「ああ、その話か」


頼んだビールがとどいて、一度口をつけた後に、隼人さんはこちらから逸らすように下へ目線を向けた。


「おかげさまで、俺たちはまだやっていけそうです。あまり口出しするのもとは思ったんですけど、やっぱり俺、諦められなくて」


「俺が自分に自信を持ってやってこれたのは、そこに根拠があったからだ。仲間を信頼してたし、今のメンバーだから食い繋ぐくらいにはやれてるって。でもそれが少しでも揺らぐんだとしたら、デカい顔してステージに立つのも不安になってくる…学生の頃から離れたことがなかったから、今になって気づいたんだよ」


「俺たちがまたうまくいったのは、少し関係値をアップデートしたからですよ。もしそうやって依存していたって言うなら、それはまだ改善のしようがあると思います…!」


何も響いていない、というわけではないと思う。彼の反応にはすこしの間があったからだ。


「どうして、そこまでして引き止めようとするんだ?」


「俺にとっても、必要な人だからです…ずっと憧れだったし、それこそ、俺たちのがんばってこれた根拠のひとつは、みなさんの支えでした」


俺は思いのまま席に身をのりだすようにして、隼人さんの両肩をつかむ。


「自信が持てないっていうなら、俺をその根拠にしてください!俺が隼人さんに支えられてバンドを続けられたように、隼人さんも、俺でたりなければ、俺たち『The Pleasantest Wretch』、他のバンド仲間のみんな、自分たちのファンを、これまで築きあげてきたものの根拠にしてくれませんか…?」


自分でもおどろくほど、思ったことをそのまま彼にぶつけていた。その声によほど熱を感じたか、それまでうつむいていた隼人さんが、はじめて俺と目を合わせた。それは俺の知っている、ギラギラとした目のままだった。


「おねがいです!まだ、音楽、続けたいんでしょ!?」


すぐに我に帰ったのか、彼は邪魔くさそうに俺の手をどけると、ほおづえをついて完全にこちらから顔をそむけてしまった。


「…もう、決まったことだからな」


「そんな、でも…」


「バカ、いまのはな、なげいてんだ。修復するのは、ちょっと骨が折れそうだってさ」


彼は照れくさいのか、ほおづえをついた手の指先で、こめかみのあたりをこすっている。


「それじゃあ…!」


「まあもう一度、やれるだけはやってみるわ。期待しないで待っててくれ」


これで、きっと「She Loathes」もだいじょうぶ。

俺はこみあげる嬉しさを噛みしめて、隼人さんに頭を下げた。



あまり飲んだつもりはないのだが、酒が思ったより回っていた。隼人さんと別れたあと、夜おそかったが、俺はその足で伽奈が一人でくらしているアパートを訪れた。


「いらっしゃい」


この部屋に来たのははじめてだったが、どこかなつかしい匂いがする。

別のことで気が張っていたせいか、ふたりがベッドにたどり着くまでの流れについて、俺はよく覚えていなかった。いきなり意識が戻ったということでもないので、たぶんこれから始まることに必要なことはすべて済ませたのだろう。


「どうだった?」


「ああ、とりあえずだけど、うまくいったと思う」


「よかったじゃん、これで今までどおりだね」


「うん」


伽奈のからだが近よって、匂いはいっそう強くなる。


「でも、あたしは今のままじゃいやだよ」


胴のぜんぶが触れあって、目からは何も着ていない背中しか見えなくなったかわりに、ぬくもりが伝わる。そのぬくもりは、俺のからだのいらない部分をとかしているようだった。


「鷹尋もそうでしょ」


「うん」


手のひらでたがいの肌をなぞって、ふたりの世界のかたちをたしかめる。それがすべてだと思うと、宙にうかぶようでここちよくなる。


「もっと…。もっとちかく」


「うん」


むくむく大きくなったものが、においのもとへ吸いよせられていく。


「そう、そのまま──」


もういちどつよく抱きしめられて、おちんちんのぜんぶがつつまれて、つながる。

これこそが俺のもとめていたもの。いのちのいきつく場所なんだ。


「あたしとひとつになって」



においは、あるところでチャンネルを変えた。

音だ。なつかしい音階が、よみがえる。


そうだ、これはたしか、このまえ聞かされたあのうた。


“きと きと きと きっと”

“きと きと きと きっと”

“きと きと きと”


局部へ敏感に伝わった熱は体の内を通って、下半身から全身へと広がる。

それは、体の内を渦巻く熱風のようだった。


目を疑った。目の前に在ったのは、最愛の相手などではない。

あの日、T字路に貼られていた化け物「リケ」の姿そのものだ。肌の色、質感からして違うので、間違えるはずもない。でも、すり替わったのか、初めからそうだったのかは分からなかった。


「な、なんなんだお前!」


口だけの怪物は忙しなく口をぐねぐねと動かしているが、声帯を持っていないかのようで、舌を弾く音だけが不愉快な大きさで伝わるだけだった。


「いつから、いつから伽奈と…」


直後、それが愚問であることに気付かされる。俺がその怪物に体を捕らえられているこの場所自体、「伽奈の家」などではなくなっていた。そもそも「伽奈の家」がどんなであったかも覚えてはいなかったが、そうでなかったとしてこの空間が何なのかも分からない。しかし、全身を焼くような強さをした灯りが不規則に点滅し、平衡感覚がなくなるようなこの場所が、人智の範囲内にないことくらいは理解できた。


しかし。


だとしたら、自分はいつこの空間に迷い込んだのだろう?

自分はいつ、この異形の存在の術中にはまってしまったのだろう?


「…どうして俺なんだよ!お前が狙うのは子供なんじゃないのか!?俺はもう成人して、大学も卒業して、だから大人で──」


「リケ」の体はどろどろに溶けて、俺の全身を侵食していく。

そこで気付いた。俺の体がいつの間にか、あの時、この化け物と遭遇した頃のものに、幼くなっていることに。

現世からは確実に逸脱したこの空間で、今の姿がどれだけ現実的であるかは知る由もない。ただ、それが意味するところはなんとなく分かっていた。俺自身が、心のどこかで最も気にしていたことだ。


「どうして俺なんだ!だって、俺だけじゃないだろ!それ以外で、何が大人になった証拠になるって言うんだ!」


声を持たないその化け物が何かを答えてくれるわけもないが、ただ俺はそれに向かって叫んだ。

それは、いつの間にか俺自身が「それ」になるまで続けていた。



一つになってみると、今の存在がどれだけ満たされる思いか分かった。

俺は俺を無理に食ったようだが、それは正確な事実ではない。俺がこうあることを望んだから、こうなった。

姿も習性も、全ては人々によって語り継がれたのが、この「リケ」。

何より本当のところ、俺は実話の存在ではない。子供が夜遅く、いつまで経っても遊び続けて危険にさらされないよう、大人が戒めとして作り出した迷信だ。そんな伝説など、俺の上辺に過ぎない。その内面を、人々が親心という、全生物普遍の意識として承認していることが重要なのだ。

それこそが「リケ」。秩序を欲し、秩序への擬態を試みる全ての人間は、俺になることで生の限りを越えてそれを手にする。

青野鷹尋の肉体は既に朽ちたが、俺達はまだ生きて、今日も子供たちの熟れ方を見定めている。

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リケ 喫痄 @Alba_Hinode

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