第二十五話.祝賀
社長がいつでも一番で、いつでも社長のために力を尽くした。察する能力は誰よりも優れ、自分に主張は押し通す、この方の秘書は私以外には務まらないと確信していた。
いつの間にか私生活にも侵食し始め、プライベートはほとんどなくなった。それでも社長に褒められる度に麻薬のような高揚感に襲われ、激務をこなしていた。
この人には私しかいない。
私がいなければ、社長は社長でいられない。
「次の休暇で韓国旅行入れておいて。あなたも来る?」
「はい、喜んで」
「じゃあ、あとよろしく」
しばらくすると行き先リストが送られてくる。この意図はスケジュールを組んで、飛行機のチケットを取り、ホテルや食事のアテンドをすることを差している。
私も行くのだから、なんら不思議なことではない。
もちろん、社長が全額負担してくれるので、必要なものは当日に掛かる少々のお金だけである。友人を連れて行くことはできないが、社長と旅行ができるだけで嬉々としてしまう。
何を着ていこう。
空いた時間は、何をしよう。
どうすれば社長は喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えながら、旅行のスケジュールを調整し、日常業務にも励んだ。
取引先の補足資料を作成し、好みを把握し、お茶菓子を調達する。
優秀な社長だから、資料は二度とは読まない。それでも取引先と円滑にことが運ぶように準備は怠らない。これが秘書である私の鉄則だ。
そのおかげか、業績は上向いており、競合他社が競り合ってきても成長は停滞することはない。
もちろん、私だけの力でないことは把握している。適材適所に置かれた人材と経営判断があるからこそ、会社は回っている。
仕事が終わり、帰宅するとすぐにメイクを落とす。これは秘書として当たり前のことである。
清潔で美しい身だしなみを心がけ、相手に不快感を与えてはいけない。
隣に立っている私がみすぼらしく、不安げな態度をしていたら、社長の評判にかかわることになる。
だから時間のないときも半身浴をして汗を流し、肌だけでなく髪のケアも欠かすことはない。
さらには食べ物にもこだわり、栄養バランスを考えた食事をし、ファストフードや菓子は、特別な理由がない限り摂取しない。
決して社長に言われたわけではない。自主的に行い、結果に繋げているのだ。
私の努力も社長は評価してくれているに違いない。それは賞与として表れており、給料にも反映されている。
「そうだった、忘れるところだった」
先日、インタビューされていた記事が公開されている。
タブレットを開き、記事を読み始める。
白の壁に白のブラウスは、洗練された美を彷彿とさせ、背景の観葉植物はクリーンな印象付けをする。
スタイリストが整えた髪型は、すべてをプラス要素に変え、遮光が柔らかさを表現している。
写真だけで合格点である。
さらに記事を読み進めていくと、ファッション雑誌の対談コラムのような軽快で嫌味のない文章が社長を彩っている。
この記者は、美点を分かっている。
前回受けた取材は、写真が微妙な上に内容も中途半端な切り抜きだった。
それでも記録として残してあるのは、いつか役立つときが来るかもしれないと思っているからである。
社長がいつか自叙伝を出すと言うかもしれない。
いつか来るそのときのために私は尽力するのだ。
それが秘書である私の努めで、職務である。
明日は朝からアポイントがあるから、こうしてはいられない。
隈ができては、相手に暗い印象を持たれかねない。
睡眠時間はしっかりと欠かさずに。
どうしてもスケジュールの都合で取れないときは、入念なケアをして翌朝に備える。
コンシーラーは欠かさずに化粧下地はカバー力の高いものが必須。それでも難しいときは、メガネでカバー。
美しくいることも簡単ではない。
秀麗を武器にしている社長は、エステを欠かさない。最低でも週に一回は高級エステサロンに通い、定期的に韓国美容エステに行っている。
そうして創られている美は、非人間的でもあり、憧れの的でもある。
そんな社長が庶民に提案してくれている化粧品は、ドラッグストアよりは高級で、デパートコスメよりは安価である。
自らを広告塔としながらも一流モデルをミューズにする謙虚さは、人柄のよさを表している。
あぁ、なんて素晴らしい社長なのだろうか。
私も見習わなければいけない。
明日のスケジュールを頭に叩き込み、眠りについた。
朝のルーティーンは、コーヒーを飲むことである。だから社長の出社前に準備を整え、出社と共にエスプレッソを出す。
「いつもありがとう」
その一言が、私を救ってくれる。頑張ろうと思わせる原動力である。
スケジュールの確認が終わり、来客までにお茶菓子を用意する。秘書として全力を尽くし、サポートする。それが私のやりがいで、生きがいでもある。
来客対応を完璧にこなし、つかの間の休息となった。
「最近、スケジュール詰め過ぎじゃない?」
「申し訳ございません。新製品の発売に伴い、業務が増加しております。社長である上で関わらずにはいられません」
「確かにいつもこんな感じか。新商品のデザイン、どう思う?」
「パールホワイトとゴールドを基調とした落ち着いたデザインは、若年層には背伸びを促し、三十代でも飽きのこない西洋の美術品のようです。美妙な仕上りかと」
「まぁ、そうだよね。それを目指していたんだもの。あなたは持ち歩けそう?」
「もちろんです。販売開始と同時に購入致します」
「別にプレゼントするわよ。使用感の感想も知りたいし」
「ありがとうございます」
やっぱり、社長はお優しい。新商品が出る度に私にプレゼントをしてくれる。
気にかけてくれる器量は、計り知れないほど大きい。
福利厚生の一部と捉えれば、当たり前のことのように思えるが、新製品がいち早く手にできることは、愉悦の一言に尽きる。
それからプレスリリースまで、忙しなく働いた。
なにか見落としている部分はないか、もっと効果的な方法はないか、注視ながらプロジェクトを進めていった。
さらに他部署との連携を取り、社長の手が届かない部分までフォローに回った。
秘書として申し分ない仕事をした、と我ながら自賛した。
会議が終わり社長室へと呼び出された。
テーブルには、製品と遜色ない試作品が並んでいた。
「ラインテスト品が、届きましたね」
「そうね。不備がなさそうで安心したわ。あなたはどれが気になる?」
「やはり美容液が気になります。現行モデルも効果は実感していますが、タイプが違いますので」
社長は足元のダンボールから、数点を取り出し、紙袋に入れた。
「はい、これ餞別。来月から配属換えでしょ? お疲れ様」
「恐縮です。残り短い時間ですが、全力で取り組ませていただきます」
思い返せば一ヶ月前、突如社長に告げられた配置換えは、受け入れざるを得なかった。
出世とも言え、出向とも取れる新しい配属先は、社長の下を離れることになる。
寂しさを抱えながらも研究職に興味のあった私には、断る理由なんてなかった。
秘書室に戻ると紙袋を机の上に置いた。
中を覗くとサンプル品以外、何も入っていない。まだ市場には出回っていない商品で価値があるはずなのに、どこか虚しさが込み上げてくる。“餞別”、か。
あと数日で好きでもない着飾ることをしなくてもいい。
メイクだって髪だって食生活だって必要以上に私生活を犠牲にしなくていい。
社長の言いなりになんてならなくていい。
私は私だ。
私はもうあなたの人形ではない。
やっと、開放される。
片側の口角があがり、笑みがこぼれる。
これは祝賀だ。
さよなら、青春。さよなら、社長。
上でもなく、下でもなく 梨ノ木音羽 @mouoto
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