第二十四話「認知」

 海風が心地よいオープンテラスは、都心での疲れを癒してくれる。

 ここにはしがらみもなければ、知り合いもいない。周囲の人々は私の存在自体、興味がなさそうに通り過ぎていく。

 久しぶりだな。

 熱いブラックコーヒーを口に含むと体がほのかに温まる。

 このまま時間が止まればいいのに。

「もう帰るの止めようかな」

 現実に戻りたくなくて、でも戻らなければいけなくて。

 今はただその痛みを忘れていたい。



 彼女は優秀だった。優秀だからこそ、私の元を離れていった。

 何事にも先回りし、秘書としても会社のマネジメントにしても一線を画していた。彼女ほどの人は、なかなか見つからないだろう。

「社長、この部分ですが僅かに試算が低いように思うのですが……」

「確かにそうね。訂正をお願い」

 資料に書かれた項目を見直しながら、深い溜め息をついた。輸入雑貨の会社で、今更、アートギャラリーを開拓するなど意味があるのだろうか。

 社内コンペで募集したこれは、新規事業としても安定しそうで容易に先を見通すことができた面白みのない企画だった。

 唯一の欠点は、少ない牌を多くの企業で争っているところである。

 大手協賛のついた展覧会は制約が多く、新参の企業が入り込めるとは思えない。限定グッズの焼菓子にしても老舗メーカーが採用されることが多い。

 そんなとき、彼女の一押しが決め手となり、プロジェクトの着手が決まった。

『アートに敏感な人はおしゃれな雑貨にも興味があるはずです』

 やる価値はあるか。

 そう思わせることにも彼女は長けていた。

 後悔はない。これは私が決めたこと。社長である私が背負う責務である。

「このあと、時間があったわよね? 美術館に行くから同行して」

「……承知いたしました。どちらの美術館でしょう?」

「何か興味あるものある?」

「現代アート以外でしたら、なんでも」

「そう。車を用意して。行くわよ」

 運転手に行き先を伝え、スマートフォンをいじる。

 秘書との会話はない。エンジン音と社外の騒音だけが静寂を壊していた。

 仕事をする気にもならず、車窓だけを眺めていた。

 隣の彼女は、忙しなさそうに何かをチェックしている。

 関心したものである。生活の大半が仕事でできている私ですら、時折、飽きてしまう。それなのに彼女のそんな姿は見せたことがない。

「……どこにそんな熱量があるのかしら」

「何かありましたか?」

「なんでもない」

 彼女は外したイヤホンを再度付け直し、画面に集中した。美術館に到着し受付を通り過ぎたことを確認すると口を開いた。

「社長。チケットを買ってまいりますので、お待ちいただけますか?」

「気にしなくていいわ。もう買ってあるから」

「……ありがとうございます」

「好きに展示をみてくれていいから」

 車中で購入した電子チケットを入り口で見せると難なく入場した。

 印象派の展覧会は久しぶりだった。様々な会場で展覧が開かれているが、ここの美術館の展示のセンスは画一していた。ダウンライトをした展示室は、時代背景と共に絵画が飾られている。

 温度管理もしっかりとされているせいか、少し肌寒い。

 淡い配色、力強いタッチ、強烈な個性、隠された深層心理。

 画家の本質が垣間見えるような刺激は、非日常であるから味わえる。

 これが視察か。

 仕事でなければどんなに清々しいことだろう。

 吐息すると展示を時間が許す限り、堪能した。

 併設しているショップを眺める。入ってすぐの棚には、企画展にあったグッズが置かれ、余韻を感じさせる。

 ポストカードにマスキングテープ、図録、デザイン性の高い雑貨は、ここでも非日常を作り上げていた。

 セレクトショップとも思えるここに、私たちは進出しようとしている。斬新さと洗練さと実用性を兼ね備えていなければ、手に取ってもらえない。

 それどころか、店頭に並ぶことすら困難だろう。

 この選択は果たして正解だったのだろうか。答えが出るはずもなく、秘書と合流した。

「どう感じた?」

「コンセプトの練り直しが賢明かと」

「資料をまとめて、明日にでも会議をしましょう」

「承知いたしました」

 もう日暮れが始まっている。川の水辺には、モネの残像が脳内をかすめた。



 何度も視察と協議を重ね、アートギャラリーに向けたブランドの施策が完成した。日本人が好みそうな繊細な世界観を背景にし、どこか統一性を持たせたコンセプトにも似合う輸入雑貨を数点用意した。

 ギャラリーへの営業評判は上々で、まずは数カ所、取り扱ってもらえることが決定した。

 まだ始まったばかり。だからこそ、気を抜いてはいけない。

 どれくらいの利益を生み出せるのか。想像もつかないが、走り出しは上々だった。

 そんなとき、社長室に彼女が現れた。

「突然ではありますが、こちらを受け取っていただけないでしょうか?」

「これはどういう意味? なにか不満でもあるの?」

「不満などありません。ただ新しいことに挑戦したいだけです」

「……意思は揺るがなそうね。分かったわ。近いうちに正式に連絡するから、少しだけ時間をください」

「承知いたしました。ありがとうございます」

 一礼をして秘書は、姿を消した。

 手元には退職願と書かれた白い封筒が置かれている。


 彼女が辞めたい理由を探したが見つからなかった。

 嫌いじゃないのに嫌いになりそう。

 あんなにも信頼を置いていたはずなのにいまでは考えすぎて、憶測ばかりの思考が走る。

 彼女はいったいどんな人間だった?

 その問いには、明確な回答を出すことができず、さらに困惑を重ねた。

 いつも彼女が好んでいた飲みものは?

 苦手なものは?

 好きな色は?

 どれも明確な答えが浮かばず、おぼろげな記憶だけがかすめていく。

五年以上の付き合いがあったはずなのに何も知らない。いや、興味がなかったのかもしれない。

 決して嫌いではない。気に留めていないわけでもない。

 それでも彼女が見えていないのは、見ないようにしていたのか、そう促されていたのか定かではない。

 ただ彼女との日々を振り返ってみれば、信頼しているように思い込んでいただけかもしれない。

 もちろん、ビジネスパートナーとして信用していた。言葉に耳を傾けていたし、意見も多く取り入れた。彼女がいないと成り立たないことも多々あった。

 しかし、深層では疑っていて、結果を見て試していた。

 陥れようとしているのではないかと不安でたまらなかった。

 それでも社長の責務として、受け止めてきた。

 それなのに今、手中から離れようとしている。

 なにか繋ぎ止めるものはないだろうか。そう考えてみたものの、彼女の意思の固さは知っている。



「この先、どうするつもり?」

「分かりません。ただ自分の力を試してみたいです」

「そう……寂しくなるわね」

「最終日まで全力で取り組みますので、よろしくお願い致します」

「こちらこそ、頼りにしてるわ」

 こうやって、私は彼女を見て見ないふりしてきたのか。

 やんわりと繋ぎ止め、深入りせず、結果だけを追い求めた。本質なんて見えるはずがない。

 それに用意周到な彼女が、なんのプランもなしに辞めるなんて考えにくい。瞳を見据えてみても隙をみせることはなかった。

 最終日になるとあっさりと彼女は会社を去った。

 会社なんてそんなものか。

 アートミュージアムのプロジェクトも順調に動き出している。もう彼女がいなくてもなんとかなる。

 新しい秘書に全てが引き継がれ、業務は滞りなく進んでいる。

 結局、彼女でなくてよかったのかもしれない。

 秘書なんて、誰も変わらないのかもしれない。

 だから彼女を見ることをしなかった。

「社長、お時間です」

 新たな秘書に促され、会社を出た。



 出張先からそのまま休暇へと入った。当然のことながら、秘書は帰宅しているし、仕事をする気もない。

 沿岸に面した美術館をのぞく。こじんまりとした場所なのに妙にミュージアムショップが凝っていた。

 中途半端な雑貨店よりよっぽど洗練され、品があり、無駄がない。これならば、ミュージアムショップを目的として、来る人も多いだろう。

 関心を持ちながら、回っていると聞き覚えのある声がする。

 声のする方へ視線を向けると相手と目があった。僅かに引きつった顔は、彼女にも伝わったらしい。

「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

「久しぶりね。今はここで働いているの?」

「はい、声をかけていただいたので、ここで働いています。こんな小さな美術館にも視察ですか?」

「休暇よ。ここのショップはあなたの提案?」

「気に入っていただけましたか?」

「そうね、うちの商品も置いて貰えるかしら?」

「恐縮です。ただそれに関しては、難しいかと」

 彼女がいなくなって、惜しい。

 こんなにも才能溢れる彼女を潰さなければいけないなんて。

 脅威になりそうなものは、早めに芽取りしなければならない。

 おそらく、彼女も覚悟しているだろう。

 これが宣戦布告だと。

 美術館を出ると深いため息をついた。

 現実は世知辛い。

 それでもやらなければ、潰される。

「また、敵を増やしちゃった」

 痛嘆しながらも笑みが溢れる。

 脅威になる前に潰していく。彼女を知って認めたからこそ、やらずにはいられない。

 例えそれが、愛着を持った相手でも。




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