第二十三話「柔順」

 私はただ、認められたかった。使い捨ての紙コップではなく、陶磁器のティーカップのように大切に扱われたかった。いつかは割れて使えなくなるとしても、紙ゴミのように扱われることに慣れることはない。

 消費されて摩耗されていく日々に嫌気が指しながら、私は今日もこの方を支えるためだけに業務を遂行する。


 ベンチャー企業の社長が考えることはよく理解できない。突拍子ないことを言い出したかと思えば、知らぬ間に行動して気付いた頃には、大事になっている。

 秘書である私に情報が共有されないのは、今に始まったことではない。前職の秘書も前々職の秘書も耐えきれずに辞めてしまった。激務に加えて、追い打ちをかけるようなそれは、精神的にも追い込まれてしまう。

 私はそうならない。

 そうなりたくない。

 その一心で食らいつき、日々の業務をこなしていく。

 社長が情を持ち合わせていないわけでは決してない。懐が深く、きちんと意見すれば耳を傾けてくれ、改善もしてくれる。ときに好物の差し入れもしてくれ、ケアもしてくれる。オフィスも綺麗で、比較的自由もある。

 ただ秘書という役割が、大きな重圧となって、のしかかってくる。数分単位で決められたスケジュール、社長のタスク管理、方針の補助や来客への対応。詳細に決められたルールは、読み込むだけでも時間がかかる。

 まず人はそこで挫折し、先に進めば社長のフットワークの軽さが仇となり、仕事を阻害され挫折する。

 柔軟な対応をしなければならない状況は、日に日に色を濃くしていく。

「明和技研のCEOと二日以内でアポ取って。今夜あるレセプションに着ていくドレスの準備、来賓リストがあるから顔と名前覚えてね。あとあなたも参加だから忘れないように。各所に月次資料の提出の通達、サービスの進捗状況の確認も急いで」

 矢継ぎ早に言われる指示を瞬時に覚え、メモを取る。優先順位を決めれば、そこから業務のスタートである。

 タスクを一つ一つこなしていく。終わりが見え始めたとき、社長から新着通知が入る。

 あぁ、また追加だ。

 タスクリストに追加して終わらせるべく、行動を急いだ。


 社長の良いところは、個人的な用事を頼まないことである。

 業務とプライベートをきっちりと分けており、買い物はもちろん、飲み物の準備すらしたことはない。

 世間的に印象が強い、社長の身の回りの世話は一切しなくていい。その代わり、経営方針などを理解し、何を求められているのかをしっかりと把握し、スケジュールにも組み込んでいく。

 休んでいる暇はない。帰宅する頃には心身ともに疲弊しており、玄関に倒れ込んだこともある。標準体重から4キログラムはやつれ、食器を洗うことが面倒だから使い捨てのカップになった。

 ドライヤーの時間がもったいなくて、腰の長さまであった髪を肩上まで切った。買い物をする時間がないから、もっぱら通販で全てを済ますようになった。

 それでも辞めない。

 続けて見せる。

 その固い決意は、ハムスターの車輪のように当てもなく回り続けている。


「はい、これお土産。取引先からもらったの。よければ食べて」

「ありがとうございます。社長はいかがなさいますか?」

「いらないわ。欲しいものは自分で買うから」

 そう言い残し、デスクに置かれたタブレットを覗き込む。印刷する手間が無駄で、時間がかかるという理由から基本的に全てがネット上で完結している。だから書類はすべてデータを送付し、用事があればチャットの通知で指示をされる。

 社長と直接会う機会は、朝のミーティングと同行が求められるときだけである。

 仕事上の物を頼まれたとしても直接渡すことなく、社長室の入り口にあるパーテーションで区切られたテーブルに置くことがほとんどである。

 受け渡されたお土産を開けてみる。中には私の好物である老舗の大好きな羊羹があった。

 ひと竿分。

 一人で食べるには十分すぎるくらいの量は、取引先にもらったのか社長が用意してくれたのか定かではない。

 そんな不器用な優しさも今となっては、かけがえないご褒美なのである。

 頑張ろう。

 期待に応えなければ。

 そう奮起し、目の前の画面を凝視した。


 定時で帰れるはずもなく、終電も逃し、タクシーで帰宅したときだった。

 社長からの通知が届いた。

『明日は、有給休暇を消化してください。出社はもちろん、オンラインワークもしなくて大丈夫です。自分の時間を大いに楽しんでください』

 疲れ切った脳では、内容が消化しきれず、何度も読み返した。

 これは明日、休めというお達しだということに気付くのに数分を要した。

 社長は何を考えているのだろう。

 私の体調を心配してくれているのだろうか。

 考えても答えは見つからず、『承知しました。お気遣いありがとうございます』とだけ返信をし、会社用のスマートフォンを切った。

 そういえば連日、タクシーで帰宅することが多かった。大きなプロジェクトも佳境になり、仕事量も増大した。社長は忙しそうに様々な取引先とアポイントをこなし、朝のミーティングも電話だけになることも多くなっていた。

 明日の社長の予定は……と考えたところで、思考を止めた。

 優秀な社長のことだ。共有しているお互いのスケジュールを把握しているに違いない。

 記憶上会議もなく、来客もなかったはずである。明日、私がいなくても問題ないことくらい、想像できたのだろう。

 お風呂に向かい、鏡を見る。そこには青白い肌をした気味の悪い表情をした人がいた。

 確かに昼休みには、うっすらとくまは出ていたが、こんなに酷くはなかった。

 まだ大丈夫。

 そう過信していたのに社長には気付かれていたらしい。

 明日は休んでいいのか。やっと休める。

 いや、ここで休んだら今までの頑張りが無駄になる。

 表裏一体の問いかけが悶々と脳内を占領していく。

 シャワーを浴びる。髪が濡れ、水が全身に滴っていく。

 シャンプーからジャスミンのほのかな香りがする。

 不思議とよどみが流れていき、清々しささえ覚えた。

 軽くなった身体は開放感にあふれ、疲労は泡沫の泡のように弾けて消えた。



 翌日、目が覚めたときには、午後一時を回っていた。眠り続けた身体はいつになく軽やかで、爽快感が溢れていた。

 ただ一日、休みをもらっただけである。それなのにこの充足感はなんだろう。

 会社への連絡を忘れていたことに気付く。今更、連絡したところで意味はない。

 そもそも社長命令である。怒られることもないだろう。

 気楽だった。

 まるで全てから解き放たれたようだった。

 部屋を見渡せば、片付けられないままの雑誌や服が散乱していた。いつからこんなに汚れきった部屋になっていたのだろう。

「さぁ、やるか」

 窓を開けると陽の光が眩しくて思わず目を細めた。吹き込んできた風は、春の暖かさを運び込んだ。



 社長との朝のミーティングは穏やかだった。いつもの緊張感はなく、スケジュールにも空白が目立った。

「お疲れ様。きのうの休みはどうだった?」

「とても有意義に過ごすことができました。お気遣いありがとうございます」

「そう、それならよかった」

 何かを隠している。

 知らないほうがいい。脳内で警鐘を鳴らしている。

 それでも好奇心は、沼へと踏み込んでいく。

「どうして急に休みをいただけたんですか?」

「最近、休みを取得していなかったでしょう? 適度な休息は必要よ」

「……お言葉ですが、今日、私が出社しなかったらどうするおつもりでしたか?」

「さぁ、分からないわ。だってあなたはこうして出勤しているんだもの」

 まんまと策に踊らされている。

 社長の気まぐれで休みを取らされ、忠誠心も試されている。

 なんて意地が悪いのだろう。

 率直に聞けばいいものの、何重にもひねられたこれにはっきりとした答えを求められている。

「失礼致しました。これからも精進させていただきます」

「そう。じゃあ、さっそくだけど…」

 そういって、いくつかの業務を言い渡される。

 私はいつまで耐えられるだろうか。

 全能力を酷使し、疲弊し、ときに試され。終わりの見えないそれに柔順に対応する。

 こうしてかつての秘書は辞めていったのかもしれない。緩急つけられた社長の慈悲にも感じ取れる挑戦的ないたずらに。

 愛用の陶磁器のティーカップは、僅かに欠けていた。

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