第二十二話「肯定」

 大好きな人が将来、会社を継ぐという。その話を耳にしたとき脳内を巡ったのは、そこに就職すれば四六時中一緒にいられるということだった。安易かもしれないが、幼心には良案に思えたし、今となっては間違ってなかったと断言できる。


 デザイン会社で秘書をしながら、経理事務も行っている。頼まれれば、大概のことは引き受け、職務としてこなしていく。

 この会社に入りたくて、デザインの勉強をした。美術科の高校へ進学し、デザインを学ぶために大学へ通った。

 自分の趣味や興味からではない。作品を生み出したいわけでもなければ、有り余るエネルギーを表現したいわけでもない。模写こそそれなりに評価されたが、オリジナリティは皆無だった。

 才能がないことはわかっていた。だからこそ、大学ではデザインだけでなく、経営学についても学んだのだ。

 それはすべてあの人のため。

 そばにいると決めたとき、私の人生は大きく動いた。

 小学生のときに社長の茉凛(まつり)と出会った。

 背が高くて、顔が小さくて、日焼けしない白い肌は、同じ人類とは思えなかった。ファッション雑誌から飛び出てきたのではないかというくらい、端正に整っていた。髪は丁寧に編み込まれ、いつもレースがあしらわれた上質な服を着こなし、うっすら笑みを浮かべている。

 生まれ変わったら茉凛になりたい。

 そう心酔するくらい、衝撃的だった。

 おごりもせず、卒なくスポーツをこなし、テストはいつも満点に等しい。教師は誰しも彼女に優しく、クラスでも人気者だった。

 彼女が中学受験をすると聞いたとき、私もなんとか両親を説得して中学受験をした。

 留学すると聞いたときは、一緒に行くことはできなかったが、毎日のように連絡をした。

 彼女が日常から欠ける日々は、現実味がなく想像できない。それくらい重要で不可欠な存在である。彼女のおかげで今の私がいる。

 大学生のとき、一緒に通っていたカフェがあった。そこはバリスタがいるカフェで、コーヒーが美味しく、居心地が良かった。しかしキャンパスが変わると同時に生活圏が変わり、足繁く通っていたカフェに行くことはなくなった。

 就職活動の時期になっても彼女は特別だった。

 それはデザイン事務所を運営している両親が、勉強のためにと知り合いのデザイン事務所に就職先を決めていたからである。

 一方、私は彼女の両親が運営しているデザイン事務所に就職が決まった。しかしそれは夢半ばで、目標としてきたものの、本質は想像と違っていた。

 彼女のいない日々なんて、初めてだった。耐えきれるだろうか。庇護がなくなった仔犬のように怯えながら、私の社会人生活が始まった。

「まさか、うちのデザイン事務所に入りたいなんて、思ってもいなかった」

「そうかな。昔から見ているけど魅力的な会社だと思うけどな」

「私はさ、もっと別の道があったと思うよ」

「そうかな、わかんないや」

 作り笑顔を貼り付けているが、内心は落胆していた。彼女に突き放されたようで、否定されたようで妙に虚しい。彼女に私は必要ないのかもしれない。

 それでも私は彼女についていく。

 彼女は両親のデザイン事務所を継ぐことが決まっている。数年したらまた一緒にいることができるだろう。それまでは必然的に離れてしまう。先の見えない忍耐が試されている。それでも同じ業界で働いている以上、出会うこともあるはずと奮い立たせた。

 インターンが始まると大学では学ぶことがない実務的なことが降りかかる。茉凛の両親と顔なじみであるが、仕事関係では容赦なく厳しい言葉をかけられる。

 アシスタント的なことから、社会人としてのマナー、デザイン業界の慣例まで多様に及ぶ。この全てを会得していかなければならないのかと憂鬱になりつつも彼女が来るまで必死に堪えた。

 辞めていくものも多い中、意地とプライドと茉凛から受けた恩恵で私は、必死に取り組んだ。

 彼女がデザイン事務所に来ることもあったが、顔を合わせる機会は格段に減少した。

 学生時代に戻りたい。

 そう思いつつも気力で彼女を待ち続けていた。

 どうして私はこんなことをしているのだろう。

 別に仕事はデザイン関係の仕事でなくても構わない。本音をいえば、向いているとも感じられないし、コンペに関しては関心が薄い。もっと他に向いてる仕事があるはずである。

 それなのに彼女のためにと血眼になりながら、仕事をしている。

 本当にこれが、彼女のそばにいられる最善の策なのだろうか。もっと得策があるのではないだろうか。

 ブレーキが効かなくなった自転車は転ばないよう漕ぎ続けるしか術はない。


 数年が経ち、茉凛がデザイン事務所の社長に就任した。まだ両親の息がかかっている状態だが、茉凛が上手く経営をしていけるようになれば、両親は手を引くという。

 このときにはもう、秘書を任されるくらいには信頼されていた。

「ねぇ、日和。そろそろ自分の道、歩かなくていいの? 手伝ってくれるのは有り難いんだけど心配になるよ」

「どうして? 私は毎日充実しているから、満足しているよ。心配なんて必要ない」

「なんていうか、私が引き止めちゃったかな、ってたまに罪悪感にかられるの」

「気のせいだよ。嫌だったら、もうとっくに辞めている」

「……それもそうか」

 茉凛は何を危惧しているのだろう。節目ごとに確かめる行為をしてくるが、本意はみせない。

 しかし長年の付き合いから言いたいことは、伝わっている。

 自分以外の外の世界を見てほしい。

 幼少期からずっと茉凛と一緒だった。

 茉凛のいない世界なんて、考えたこともない。いや、考えたくもない。

 大きな転機の決断はいつも茉凛で、「茉凛がいるから」「茉凛がそういうなら」と迷うことはしなかった。

 そこに自分の意思は存在しない。これを依存というのだろうか。

 一方、茉凛は自由気ままに自分のやりたいこと、やるべきことに尽力し、いつも人の輪の中にいた。

 別世界を歩く茉凛は、私にとって世界をつなぐ命綱だった。

 いくら私がいじめられようと味方でいてくれて、場に浮いていれば空気に馴染ませてくれた。緩衝材のようなつなぎのパン粉のような茉凛は、蜘蛛の糸を必死に切らないように手繰り寄せてくれた。

「いいじゃない、言わせておけば。それ、好きなんでしょう?」

 いつも認めてくれて、欲しい言葉をくれた。

 相談したときもいつも的確で、前に進む勇気をくれた。

 身長が百五十センチメートル、服は十五号のぽっちゃりというにはグレーな体型で、強烈な近眼で眼鏡が手放せない。話し方もこもり気味で聞き取りづらい。地味で言い返せない性格に自信なんて持てなかった。

 無理して入学した大学は、授業を聞いていてもわからないことも多く、茉凛の対策やレポート添削で卒業できたようなものだった。

「いつもごめんね。私がもっと頭が良ければ」

「何いってんの? 次に言ったら怒るよ」

「うん……ありがとう」

 茉凛は優しい。それは誰に対しても平等で、独り占めできることはない。

 秘書になった今でも変わることはない。

 業界から注目されている理想の社長。親の顔に恥じないよういくつかのコンペを勝ち抜いて、しっかりと実績を残している。

 人生には輝きしかない。

 隣にいるために秘書という世間的イメージに近づくために、必死に醜さを除く努力をしてきた。

 今では服は九号サイズを着られるようになり、コンタクトレンズに変えた。エステにも通い、こもり気味な話し方を変えるためにボイストレーニングにも通った。

 なんで私は変わらなければならないのだろう。

 虚無感に駆られながら、全力で人並みになった。

 努力のかいあってか、世間の生き辛さからは、開放されることができた。それでも彼女には届かない。

「大事な話があるの」

「どうしたの、改まって」

「私、結婚しようと思う」

 思考が停止する。同時に言葉も失った。

 恋人の話なんて、聞いたことがない。学生時代に付き合っている人がいることは知っていたが、それ以来、耳にすることはなかった。

 結婚?

 どうして?

 なんで隠していたの?

 なんで教えてくれなかったの?

 どうして…ドウシテ…。

「お、おめでとう。突然で驚いたよ」

「ありがとう。別に隠していた訳じゃないの。ただ、タイミングを逃して、言えなかったの。分かってくれる?」

「当たり前じゃない。幸せになってね」

 貼り付けた笑顔が崩れないうちにトイレへと駆け込む。

 顔の緊張が解けるとシンデレラの魔法が解けたように薄汚れた姿が鏡に映る。

 茉凛なら理解してくれると思っていた。それは彼女が初めて私を認めてくれた人だから。

 クラス全員に無視されても茉凛だけは話しかけてくれた。だから私はクラスの輪に戻ることができた。

 好きな漫画も好きな芸能人も醜い外見でさえも否定することなく、全てを認めてくれた。

 誰も私に関心を持たないのに茉凛だけは、気にかけてくれていた。

 秘書になれたのも茉凛の力添えがあったからである。

 裏切られたように感じながらも彼女から離れることはできない。

 離れてしまったら、生きていく術を失ってしまう。

 私の存在価値は、彼女がいるから成り立っている。 

 弱くてもいい。特別な人になれなくてもいい。ただ私を肯定して。たとえ貴女が罪悪感で押しつぶされようとも。


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