第二十一話「硬骨」
きっかけは、中学生のときだった。気になっていた先生がコーヒーが好きで、必死に大人になろうとしてのことだった。少しでも視界に入りたくて、必死にコーヒーを勉強した。
それでも苦いコーヒーは、私には向いていなくて、毎回、ミルクと砂糖を足していた。
「せっかくの風味が台無しじゃない」
そういって先生は、ふくよかな笑みを浮かべながらブラックコーヒーを飲む。その造形美に羨望の眼差しを向けながら、いつしか中学生ではいられなくなった。
年齢を重ねてもコーヒーへの関心は薄れなかった。先生のおかげか食物学科へ進学したし、就職先もコーヒーメーカーだった。
大学生のときには、カフェでアルバイトをし、バリスタのもとで修行した。どこまでものめり込んでいき、気付けば日本有数の名を持つバリスタとなっていた。
これは幸せだったのだろうか。
独立して珈琲問屋とカフェを経営をし、今では社長になっている。そこまで大きくするつもりもなく、自分で管理できる程度に収めていた。
スタッフにも恵まれ、不満なんて何もない。良質な豆と芳醇なコーヒーを提供することが、唯一の誇りである。
私の名を知ったもの達は、「レジェンド」と囃し立てられ、店には観光名所のように立ち寄っていく。不思議とそれは嫌ではなく、店頭に立っているときの交流も楽しかった。
「社長、そろそろ時間です」
「残念。このあともコーヒーを楽しんでいってね」
マネージャー兼秘書が声をかけてくる。ファンとの交流をまだ楽しみたかったが、早々にバックヤードへと下がった。スタッフエプロンを外すと社長らしい清潔で落ち着いた服に着替え、車へと乗り込んだ。
「あんなにデレデレしちゃって、みっともない」
「いいじゃない、別に。店の売上に貢献しているんだから」
「売上を考えるのは当然……でもあの子、可愛かった」
「もしかして、妬いているの?」
嘲笑しながら運転中の彼女に聞いてみると「うるさい」とだけ返ってきた。
不機嫌そうに前を見ながら、アクセルを踏み込んだ。その反動でシートに押し付けられる。彼女は気にすることなく、目的地へと車を進めている。
仕事中は社長と秘書でもこの二人だけのドライブは、本来の関係に戻れる時間だった。デートをしているような感覚は、どこか緊張感がない。
運転中の彼女の肩に寄りかかろうとすると「重い」とまた怒られてしまった。その行為に怒っているのか、嫉妬から来ているものなのか、どちらにしても愛おしかった。
仕事終わり、一緒に彼女と帰宅する。念の為にと会社には、同じマンションで別の階に部屋を借りていることになっているが、実際は同じ部屋で生活をしている。
「先、お風呂借りるね。髪に匂いが移っているようで、気持ち悪い」
そういって、仕事用の服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
何ら変わることのない、いつも通りの身体。
年齢を感じるようになってきたが、彼女はこの姿が綺麗だと褒めてくれる。それだけで悦に入り自惚れてしまう自分は、単純なのかもしれない。それでも好きな人に褒められることは、大きな商談をまとめるよりも自得してしまう。
ただ最近、思うところがある。
事業は順調で、日常には恋人がいる。
刺激は少ないが、その分安定している。
何も不足はしていない。
そのはずなのに時にバリスタとしての名声が邪魔をする。監修する商品も増えており、そこには顔写真も掲載される。テレビや雑誌の取材も増え始め、気軽に乗れていたはずの電車には乗りづらくなった。
本意ながらも決して嫌ではない。
仕事なのだからしかたない。
そう割り切っているものの、いつか彼女との関係が明るみに出てしまうのではないかと恐々としている。
守りきりたいと思いつつも守りきれないだろうことも容易に想像できた。
「ねぇ、私のこと好き?」
「どうしたの、急に」
「別に。今の生活、満足している?」
「してるわよ。そうじゃなきゃ、あなたについていかないわ」
「ありがとう」
軽い夕食を並べながら、訝しげに首をかしげる。
これから美味しい食事である。刹那的な不安を忘れるため、ワインを開けた。
「珍しい」
「たまにはいいじゃない」
頬に口付けを落とすとお気に入りの柑橘系の甘い香りが鼻についた。今日も明日もこの先もこの香りと共に過ごしていきたい。
そう思い馳せながら、グラスに口付けた。
忙しい合間を縫って、取得した休日だった。前々から約束していたプライベートの買い物を謳歌していた。気の置けない会話は、特別な関係を物語っている。
セール期間中なのか、ショッピングモールは賑わっていた。
その喧騒に紛れるように彼女とラグを選ぶ。毛足の長さや風合い、触り心地や予算を相談しながら一興していた。
どれが部屋の雰囲気に合うだろうか。そう思考しているとき、後ろから声が聞こえた。
「あの人、最近話題になってる人じゃない?」
「そうかなぁ、似ているだけのような気がするけど」
遠くの方で会話がされ、興味を失うように声は離れていった。
彼女は聞こえていないのか、有頂天にデートを満喫している。そっと身を隠すように店内の奥へと行くと訝しげな表情をこちらに向ける。
素知らぬ顔でやり過ごすと流れ作業のようにラグを決めて、早々に帰路についた。
不服そうな彼女をなだめるように途中で好物のチーズケーキを購入すると僅かに機嫌が直ったようだった。
顔を認知されていくことで、プライベートが侵されていく。これは今日が初めてではない。月に何度かあり、握手を求められたこともあった。
大切なものが壊れていく。その恐怖がひしひしと伝わり、現実となっていく。
ただ彼女と一緒にいたいだけなのに。
ただ彼女と静かな世界にいたいだけなのに。
それなのに。
膜の張った氷が割れる音がする。せっかく見つけた居場所を失いたくない。
彼女に話したらどうなるだろう。
堅実で聡明な彼女のことである。社長と秘書という間柄、仕事時間外に一緒に外出することは避けることだろう。
もしかしたら危機管理の観点から同じマンションであることも問題にしてくるかもしれない。そうなれば同棲は終わり、会える時間も少なくなってしまう。自然とビジネスパートナーとしての時間が増えていき、恋人としての時間が減っていく。
その孤独に私は耐えきれるだろうか。
その先に終焉が待っているとしたら。
考えただけでおぞましくて、コーヒーを淹れる手を止めた。
そんなはずない。
そんなことさせない。
首を左右に振りながら、フィルターにお湯を注いだ。コーヒーの芳醇な香りがより一層、現実へといざなった。
「この会社、手放そうと思う」
「どういうこと? しっかりと説明して」
彼女の真っ直ぐに見据えた瞳は、秘書とも恋人もとれる揺らぎがあった。
どちらから話そうか決めかねていると揺らぎはさらに大きくなった。
「日本から離れたいの。もちろん、この会社は好きよ。手放したくない」
「ならどうして?」
「もっと手放したくないものができたから」
「意図が読めない」
大切に育て上げてきた我が子を売り飛ばすようで、気が引ける。それでももう決めていたことだった。
泣き出しそうな彼女の前に片膝をつくと片手を伸ばす。左手の薬指に指輪をはめると動揺を隠しきれず、視線をそらした。
「なんでこんなにも大切なこと、勝手に決めちゃうの? 相談してくれてもよかったじゃない」
「あなたのことだから、『秘書を辞める』って言い出すでしょ」
「そりゃ、最近、人目が気になってきたから、考えなくはなかったけど」
やっぱり生きづらさを感じていたのか。あえて口にしなかったのは、平穏を維持しながら問題解決方法を探していたからに違いない。
「私の傍らにはあなた以外、考えられない」
もう迷わない。彼女さえいれば、他に何も望まない。
硬骨なその意志は、コーヒーと出会ったときのように刺激的で誘惑に満ちた香りがした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます